ほとんどの人の思考の大半は自動的反射的で、意図したものでは無く目的もない。厳密にいえば、あなたが考えているのですらない。思考があなたに起っているだけだ。「私は考える。」と言えば意志的な行為を意味する。自分の意志を働かせ選択できることになる。だが、大抵の人はそうではない。「私は考える。」とは、「私は消化する。」「私は血液を循環させる。」というのと同じで、消化「が」起り、循環「が」起り、思考「が」起る。頭の中の声は勝手な生き物だ。
ほとんどの人はその声に引きずり回されて取りつかれている。この頭の中の声に自分を同一化している時にはもちろんそれに気付かない。気付けばもう取り付かれないからだ。思考に自分を完全に同一化する事によって間違った自己意識、エゴが現れる。エゴの強固さは、あなたが思考とどの程度同一化させているかで決まる。同一化の程度は人によって異なる。
中にはエゴから解放され、人生に生きる価値を与えてくれる安らぎや喜び、生命の躍動感を体験している人もいる。創造力や愛や共感が生まれるのもそういう時だ。
だが、エゴと同一化している人たちは他者や周囲の世界だけでなく、自分自身からも疎外されている。関心のすべてが思考に吸い取られているので、その人たちはどんな状況でも現在に生きていない。過去か未来に関心が集中していて、過去も未来も彼らの心の中に思考として存在しているだけだ。
他者に何かを求めるエゴは、他者の関心(心理的エネルギー)を糧にして肥え太る。エゴはすべてのエネルギーの源があなた自身の中にあることを知らないから、エネルギーを外に求める。エゴが求めているのは注目され存在を認めて欲しいという何らかの形を持った関心である。他者の関心を怖がる人も、他者の関心を求めつつ恐れるという矛盾したエゴを抱えている。恐れとは、関心が否定や批判という形をとるのではないか、自己を強化するどころか萎縮させるのではないかという不安である。自分の自己イメージは、ポジティブ(私は偉大だ)や、ネガティブ(自分はダメだ)いずれもエゴである。ポジティブな自己イメージの陰には、それでもまだ充分ではないという不安が隠れている。ネガティブな自己イメージの影には他者より偉大でありたい、優れていたいという願望が隠れている。優越感を感じていたいエゴの奥には、自分は劣っているのではないかという恐れが存在する。多くの人は状況に応じ、劣等感と優越感の間を揺れ動く。
そこで、あなたは次の事を心得て自分を観察しなくてはならない。
誰かに優越感や劣等感を感じたなら、それはエゴだ。と言うことだ。
エゴから解放される為に必要なのは、エゴに気づく。という事だけだ。自分の中のエゴに気付いた時、それは厳密にいえばもうエゴではなく、条件づけられた古い心のパターンになる。これはしばらくは生き残り時折顔を出すかもしれないが、あなたに気付かれる度に衰えていく。
他者のエゴに反応しないこと。それが人間の集団的エゴを解体する為に最も有効な手段の一つである。幻は幻と認識すれば消える。
自分が何者でないか、を見極める中から、自ずと自分は何者かという現実が立ち現れる。
だが人間には古い記憶を長々とひきずる傾向がある。ほとんどの人は不必要に精神的重荷を抱えている。きちんと向き合い、受け入れ、手放すという作業がなされなかったネガティブな感情は痛みを残す。その痛みが積み重なり、体の全細胞で活動するエネルギー場を作り上げる。この大半はエゴの声が生み出したものだ。これがペインボディ(痛みの感情)である。
ペインボディとはほとんどの人間の中に息づいている半自動的なエネルギー場で、感情からつくりあげられた生き物のようなものだ。狡猾な動物の様な原始的知性を持っていて、その知性を主に自らが生き残るために働かせる。すべての生き物の様に、このペインボディも糧となるエネルギーを取り入れなくてはならない。感情的に辛い体験は何でもペインボディの糧になる。ネガティブな思考や人間関係の波乱によって肥え太るペインボディは不幸依存症なのだ。
自分の中にネガティブな感情と不幸を求める何者かが居ると気付いたら、あなたはショックを受けるだろう。これは他人を観察する方が解りやすく、自分の中にもそれがあると気付くためには進んだ意識が必要だ。
一度不幸に支配されると、不幸を終わらせたくないと思うばかりでなく、まわりの人間も同じように惨めにして、彼らのネガティブな感情的反応という糧を吸収したいと思う。ほとんどの人の場合、ペインボディが眠っている時期と活動している時期がある。休眠期がどれくらい続くかは人によってまちまちだ。数週間というのが一番多いが、数日、あるいは数か月、何年も眠っていたのが何かのきっかけで活動し始めることもある。
ペインボディが空腹になると糧を補充するために目覚める。いつ何時でも何かの出来事が目覚めの切っ掛けになる可能性もある。ペインボディが糧を補充しようとしていれば、誰かが言った事や行動で活動開始の切っ掛けになる。一人で暮らしていたり、周りに誰も居なければ、ペインボディが当人の思考を糧にする。不意にあなたの思考はひどくネガティブになる。不安や怒りのような重い感情が心に侵入したことに、たぶん自分でも気づかない。すべての思考はエネルギーで、ペインボディはあなたの思考エネルギーを食らおうとするが、どんな思考でもいいわけではない。ポジティブな思考とネガティブな思考とでは、感覚的トーンが全く違う事がわかるだろう。幸せでポジティブな思考はペインボディの糧にはならない。ペインボディはネガティブな思考だけを糧にする。
心がペインボディに乗っ取られると思考はネガティブになる。頭の中の声はあなた自身やあなたの人生、他の人々、過去や未来、あるいは想像上の出来事について非難し、不満を言う。あなたはその声の語る事に自分を同一化し、その歪んだ考えを信じてしまう。
ネガティブな思考の流れは止められないわけではないが、あなたは止めようと思わない。ペインボディがあなたのフリをしてネガティブな思考をせっせと貪るからだ。あなたの心の声がペインボディの声に変わり、内的な対話を乗っ取ってしまう。ペインボディとあなたの思考の間で悪循環が出来上がる。あらゆる考えがペインボディの糧となり、一方ペインボディはさらに多くの思考を生み出す。こうして数時間、あるいは数日でペインボディの補充が終わり、また眠りにつく。後に残されたのはへとへとになったあなたと、弱って病気にかかりやすくなった身体だ。
それでは精神的な寄生体ではないかと思われるなら、あなたは正しい。その通りなのだ。
[エゴから目覚めた三つのモード:受け入れる。楽しむ。情熱を燃やす。]
行動する時は、常にこの三つのうちのどれかが発動しているかどうか敏感に察知しなければならない。もしそれ以外であれば、その行動はエゴによるもので、自分自身か他人を苦しめているはずだ。
〈受け入れる〉
今、この瞬間に自分がしなければならないことだからすると思うこと。例えば深夜、冷たい雨の中でパンクしたタイヤの修理をしなくてはならなければ、楽しむ事も情熱を燃やす事も出来ないが、受け入れることはできる。受け入れれば安らかな気持ちで行動できる。その安らぎが微妙な振動エネルギーとして行動に流れ込み、積極的で創造的な状態になる。
〈楽しむ〉
行動を積極的に楽しむと安らぎは躍動する生命感に変わる。人生の焦点を過去や未来ではなく現在の瞬間に置くと、人生の質も高くなり劇的に増大する。楽しく行動する為に変化が起こるのを待っている時よりも、自分の行動をすでに楽しんでいる時の方が、外部的なレベルでの拡大や前向きの変化が起こりやすい。本当は楽しいのは行動ではなく、そこに流れ込む深い躍動する生命感である。だから何であれ楽しんで行動すれば、宇宙の創造の元にある力と結びつく事が出来る。
目覚めた意識はエゴから自分を取り戻し、人生の主役になる。その時あなたの行動には意識の力が加わって、いつの間にかもっと大きなモノに成って行くのを感じるだろう。
創造的な行動によって大勢の人々の人生を豊かにしている人達(芸術家、建築家、科学者etc)の一部は、それが一番楽しいからやっている。その人たちの影響が及ぶ範囲はしばらくは狭いままかもれないが、徐々に力強い創造の波が流れ込み、やがて当人たちの想像を超えて広がり、無数の人々と触れ合うようになる。そのとき彼らの行動には楽しさの他に強さも加わり、それと共に常人では考えられない創造力が発揮される。
だが、その行動を頭に上がらせてはいけない。頭にはエゴの残滓が隠れているからだ。
〈情熱〉
情熱とエゴは共存できない。
情熱を燃やすとは、自分がしている事に深い喜びを感じると同時に、目指す目標の要素が加わった状態である。だが目標があっても、関心の焦点は現在この瞬間にしていることに置かなければならない。
情熱にかりたてられた創造的な活動の最中にはとてつもない緊張感とエネルギーが伴うが、ストレスと違って情熱のエネルギーは振動数が高く、宇宙の創造力と共鳴する。自分を標的に向かって飛ぶ矢のように感じ、その行動を楽しむことができる。情熱とは、心の中の青写真を物理的な次元に移し替える力である。その為目標やビジョンが自分自身の中ですでに現実になっている必要がある。
エゴの欲望は、常に誰かから奪おうとするが、情熱は惜しみなく与える。情熱は創造的エネルギーの波を呼び起こすからあなたはただ「波に乗って」いけばいい。
