先日の登山。
はじめて雲海を見て感動!
毎日見ている売店のおじさんは、この雲海はまだまだだと言う。
初めて見た私にとっては、とてもとても素晴らしい雲海だった。
おじさんが数えきれないほど見た雲海のなかでもトップクラスに感動した雲海を、いつか私も見てみたいと思った。




現実を見れば思考がわかる。

そう思ってきた。

だけどそれって、
私が見ている私の設定だよね?

私がそうとらえた
って事だよね?

それをふまえてないと、
その人はそういう設定。

この人はこんな思い込みがある。
って、見ちゃう。

私のことね。




初心者向けでも、こんなに急な登りがたくさんある。
ザクッザクッという音と、自分の呼吸、硫黄が吹き出すゴォーっという音、冷たい風、におい、
いつの間にかたくさん感じている。
そして、いつの間にか感じることに集中している。





私はおしゃべりだ。
しゃべるのが大好き。
ずっとしゃべってたい。

だけど、
しゃべることは
設定が丸見えになることでもある。

少し学んだ人なら
私の設定、丸見えだと思う。

そう思ってきたから、

本音、
本当に思ってること、
それが言葉になるとき
自動的に「わかってる風」になってしまうと思った。


この人はこうゆう設定
あの人はこんな設定持ってる


ように見えている私がいる。だけなんだ。




こわいくらいの道を、どんどん進んでいく。



それが少しずつわかりかけている。





人を見て
どんな風に感じても
それは私にとっての事実でしかない。

その人は、まったくちがうことを意図して話していることがたくさんある。

つまり、
私の設定なんだ。


山で食べるおにぎりとカップラーメン、
家で食べるより1000倍おいしい!
ほら!やっぱり!
感じることは、自分自身でも毎瞬ちがうんだもん。



いま、私が何を感じているのか
それだけを見ようと決めた。

私が感じたことは、
事実ではない。

毎瞬、毎瞬、
その時々で感じることがちがうのだから。

カップラーメン、
家で食べると、おいしさを取りこぼし、
罪悪感を強く感じる。

山で食べると、
ガスで沸かす水の楽しさや
冷えた身体に入ってくる
カップラーメンのおつゆの温かさに
あー、おいしい。
あー、あったまる。
それしか感じない。







おいしいなぁ
おいしいなぁ が好みだけど

罪悪感も感じて良い。

だって、感じてるんだもん。


なぜって、
身体に悪い気がするから。

どうして?って、
トランス脂肪酸とか、塩分とか、
次の日体重が増えるから浮腫んでるんだろうなぁとか。

それでも食べるのはなぜ?

疲れて、食べたいけど作りたくないし出掛けたくないとき、簡単であっという間でありがたいから。


ありがたいから。
楽チンだから。
助かるわーって感じてる。



たくさん感じているんだね、わたし。



都会がキライで
田舎暮らしに憧れて引っ越した。

都会がキライなんじゃなくて、
満員電車で往復2時間がつらかったんだと
やっとわかってきた。

そして、
都会=満員電車 

満員電車の辛さしか見えなくなってた。



離れてみて、
都会の美しさや便利さやレベルの高さ(医者やレストラン)たくさん見えてきた。

とりこぼしていたなぁ



田舎暮らしの不便さ、めんどくささ、
毎日たくさん感じてる。

そして、美しさ、愛おしさ、リラックス、も
毎日たくさん感じてる。




頂上に、小さな鳥居。
きゅーんとしたのを思い出す。



下りの景色も、
世界に私だけになったような
地球の一部だと感じるような
ものすごい感動を与えてくれる。




設定変更にであって、
それだけじゃない感じているものが見えるようになった。


そして、
大キライだと思っていたものが
大好きになった。


大キライはそのままに、
大好きになった。



帰りに寄った貸し切り風呂。
たくさんの不快も感じたし、
たくさんの心地よさも感じた。



どっちも感じて良いって言葉、
勘違いしてたかも。


どっちも感じてる。
それが事実だった。



さて、今シーズンは
何回 山に登れるかな??

いっぱい登りたいな❤️