「ネブカデネザル王が、全土に住むすべての諸民、諸国、諸国語の者たちに書き送る。あなたがたに平安が豊かにあるように。


いと高き神が私に行われたしるしと奇蹟とを知らせることは、私の喜びとするところである。


そのしるしのなんと偉大なことよ。

その奇蹟のなんと力強いことよ。

その国は永遠に渡る国、

その主権は代々限りなく続く。」ダニエル4:1-3



ダニエル4章は、ネブカデネザル王の個人的な手紙の挨拶文から始まります。


王は、自分が支配していたあらゆる民族や国の者たちに、2節に続く神が、いかに偉大であるかを証しする手紙を書き始めました。



なんだか人が変わったような、謙遜でやわらかい印象を持った文面で、王のへりくだりの姿勢を感じます。



あれほど3章で、燃える火の炉の中にダニエルの三人の友人を投げ入れ、焼き尽くされず神に守られた三人が救い出された後、神の力を認めはしても、王は「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神を侮る者はだれでも、その手足は切り離され、その家をごみの山とさせる。」と言ってその激しい気性である暴君ぶりは健在でした。


でも、その王が今は「平安が豊かにあるように」と言っているのです。

その書き出しは、なぜかパウロやペテロの手紙の書き出しにも似ています。

王はどうしてしまったのでしょう。王に何があったのでしょう。

王は人が変わったのでしょうか…。



しかし、人って自分の性格や気質を変えることって、とっても難しいですよね。

思考や考え方、思いを変えることはできても、心の態度を変えることは、なかなか難しいと思われませんか?

しかも、あんなに悪名高い残酷で人間の情というものの欠片もないようなネブカデネザル王が簡単に変わるはずがないと思ってしまいます。


でも、この手紙の出だしからネブカデネザル王は神との出会いを通して、その心が砕かれ、へりくだることができたのではないかと感じるような文面です。



王は多くの神々という偶像を崇拝していたことから、信心深い人ではあったのでしょうね。


ネブカデネザル王ごとき専制君主にも、反面多分の人間味があったのでしょう。


現代でもよくいますよね、非常にワンマンで社員をクズのように扱う社長なんだけど、神棚に毎日手を合わせたり、お守りを身につけていたり、黄金の布袋像を祀っていたりとか…。


それと同じように、ネブカデネザル王も非常に敬虔であって、宗教のことに深い関心を持っていた事が碑銘に記録されているそうです。


その碑銘には、マルヅクの神に帰依していたことは記されているようですが、イスラエルの神に対して信仰を持ったことは記されていないようです。


しかし聖書では、王がダニエルの神、またダニエルの友人三人の神を、「いと高き神」と呼んでいることから、これまでのダニエル書の記述で、バビロンの神々とダニエル達が信じる神との違いが強調されています。


バビロンの知者たちは夢を示すことについて、二章で「王のお尋ねになることは、むずかしいことです。肉なる者とその住まいを共にされない神々以外には、それを王の前に示すことのできる者はいません。」と言いました。


そして、金の像を拝まない三人に対してネブカデネザル王は、「どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」と挑みました。


その王が、イスラエルの神に対して、これまで自分が信じてきたバビロンの神々とは比べ物にならない方であり、はるかに高い所におられることを彼は認めたように思えます。


ただ、認めはしましたが、イスラエルの神に信仰を持ち、崇拝者となったことは記されていません。

ですから、本章の信仰告白は、多神教的であった王が、イスラエルの神にも同様の尊敬を持ったのであると見るほうが正しいのかもしれません。


この事実を、ダニエル書の筆者は、多神的として排斥せず、イスラエルの神の能力と栄光に帰していることに注目させていると見るほうが適切かもしれませんが、私は個人的に、もしかしたらネブカデネザル王は真の神の崇拝者として回心したのではないかなと思いました。


それは、後のネブカデネザル王の言葉からそう汲み取れる場面があります。

それは後程記しますね。




ダニエル書4章では、ネブカデネザルの第二の夢について語っています。


「私、ネブカデネザルが私の家で気楽にしており、私の宮殿で栄えていたとき、私は一つの夢を見たが、それが私を恐れさせた。私の寝床での様々な幻想と頭に浮かんだ幻が、私を脅かした」ダニエル4:4-5


この4節から、ネブカデネザルは自分が通った経験を記しています。

この手紙をネブカデネザル王は自分の統治の後半に書き送っていることが分かります。


それは、「私の家で気楽にしており、…宮殿で栄えていたとき」とあるからです。


2章の夢は、王が統治を始めて間もない頃で、これからこの国がどうなっていくのかと悩んでいたために神が示してくださった夢でした。


3章の金の像は、王が国を軍事的、政治的に安定させるため、バビロン全土にいる役人を集めて像を拝ませることで、力を持って国を治めようとしていた中期の頃でした。


でも、今は、政治的、軍事的不安定要因は消えていたのでしょうね。

自分が王であることに対して反抗する者もなく、内乱やクーデターもなく、情勢は安定していたでしょうし、バビロンという強国に敵対し、攻撃してくる他の国もないくらいだったのでしょう。


なぜなら、王は「私の家で気楽にしており…」とあります。


王にとって、何の不安もなく、自分を脅かせるものなど何もなかったのです。

その時期に、王は膨大な建設費用を建設事業につぎ込んで取り組み、バビロンを栄華に輝いた町として造り上げ、繁栄に浸っていました。


そんな時に、王を再び悩ませる夢をみたのです。



これは、神が、ご自分の強大な力をネブカデネザル王に見せるために、しるしや不思議をもってご自分を表されました。


今回の夢の内容については、ネブカデネザル王は、はっきりと記憶していて、心にその夢がきざみこまれていたようです。


それで王は、四人組の人々を呼んで夢の内容を語って聞かせました。


しかし、呪法師、呪文師、カルデヤ人、星占いたちはこの夢を解き明かすことができず、前の夢の解き明かしの際にも、ただ立ちつくすだけでしたが、今回は、夢の内容が説明されたにもかかわらず、同じように当惑して立ちすくんでいるだけでした。


実際に王の夢は、彼らに口をつぐませる不可解なものばかりでした。


他の場合には、もっともらしい解き明かしや説明を述べているのに、このときの彼らは全くなぞのような夢の解き明かしに、閉口してしまったのです。


以前、王が夢を見たときと同じようにバビロンの知者たちは王の何の力にもなりませんでした。


そしてダニエル4:8に、「しかし、最後にダニエルが私の前に来た。彼の名は私の神の名にちなんでベルテシャツァルと呼ばれ、彼には聖なる神の霊があった。私はその夢を彼に告げた。」とあります。



最後にダニエルが来た、ということは、王は「この夢の解き明かしができる者はダニエルしかいない」という思いだったのでしょうね。

ダニエルが姿を現すや、王は、この預言者こそ夢の意味を解くに違いないと確信したでしょうね。


そして、「ダニエル」と言ってから、「ベルテシャツァル」と言い換えているのは、手紙を読むバビロンの人々にとってはダニエルは、ベルテシャツァルという名で知られていたからだと思います。


でも、「ダニエル」というイスラエルの神の名前が入っている名前を、ネブカデネザル王が使った事も、イスラエルの神に対する敬意が伺えるような印象を持ちます。


そして、王はダニエルのことを「彼には聖なる神の霊があった。」と言ってます。



すばらしいですね。


本当にダニエルは素晴らしい人だったんだなと思います。

私たちは、「イエス様を信じる者には聖霊が内に住んでおられる」と言いますが、王がダニエルに聖なる霊を見たように、はたして周りの人がどれだけ私たちの内に住んでいる霊を認めることができるでしょうか。


私たちクリスチャンは、周りの人から見て「この人は、普通の人とは違う…聖なる霊がその人の心の中にある」と認められるような生き方をしているでしょうか。

ダニエルのような人でありたいですよね。感動しました。



ダニエルは、十代の時からネブカデネザル王に仕え、何十年もいっしょにいました。

その間、ダニエルは神の聖さについて証しすることができたのでしょう。


バビロンの神々には、この聖さがありません。


偶像というのは、元々、人間の欲望を満たすために人間が作り上げたものなんですよね。


たとえば、日本でも多くの人が財運を願うなら蛇や龍をかたどった置物やモチーフを身につけたり、財運力に良いといわれる神社にお参りに行ったりします。


良い結婚を望むなら縁結びの神社、学力向上ならこの神社と、いろいろ目的によって求める神も違ってきます。


自分たちの肉を喜ばす目的で崇拝するのが偶像神なんですよね。


でも、まことの神は私たちが肉に従うのではなく、御霊に従うように導かれます。




前置きがだいぶ長くなりましたが…。


ネブカデネザル王は一体どんな内容の夢をみたのでしょうか。


ダニエル4:9-17に記述されています。


「呪法師の長ベルテシャツァル。私は、聖なる神の霊があなたにあり、どんな秘密もあなたにはむずかしくないことを知っている。私の見た夢の幻はこうだ。

この解き明かしをしてもらいたい。


私の寝床で頭に浮かんだ幻、私の見た幻はこうだ。

見ると、地の中央に木があった。それは非常に高かった。


その木は生長して強くなり、その高さは天にとどいて、地の果てのどこからもそれが見えた。


葉は美しく、実も豊かで、それにはすべてのものの食糧があった。その下では野の獣がいこい、その枝には空の鳥が住み、すべての肉なるものはそれによって養われた。


私が見た幻、寝床で頭に浮かんだ幻の中に、見ると、ひとりの見張りの者、聖なる者が天から降りてきた。


彼は大声で叫んで、こう言った。『その木を切り倒し、枝を切り払え。その葉を振り落とし、実を投げ散らせ。獣をその下から、鳥をその枝から追い払え。


ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて、野の若草の中に置き、天の露にぬれさせて、地の草を獣と分け合うようにせよ。


その心を、人間の心から変えて、獣の心をそれに与え、七つの時をその上に過ごさせよ。


この宣言は見張りの者たちの布告によるもの、この決定は聖なる者たちの命令によるものだ。それは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てることを、生ける者が知るためである。』


私、ネブカデネザル王が見た夢とはこれだ。

ベルテシャツァルよ。あなたはその解き証しを述べよ。私の国の知者たちはだれも、その解き証しを私に知らせることができない。しかし、あなたにはできる。あなたには、聖なる神の霊があるからだ。」



ダニエルは2:48にあるように、前回の夢の解き明かしによって、バビロンの知者たちをつかさどる長官とされました。

ですから、ダニエルはここで「呪法師の長」と王に呼ばれています。


そして、「どんな秘密もあなたにはむずかしくない」と王はダニエルに神から与えられた賜物を認め評価しています。



同じ時期にバビロンにいたもう一人のエゼキエルは、ツロについて預言しているとき、ツロの王に皮肉めいて「あなたはダニエルよりも知恵があり、どんな秘密もあなたに隠されていない。」(エゼキエル28:3)と言いました。

つまり、ここでダニエルの名が挙がったということは、ダニエルが夢を解き明かすことにおいて、全バビロンにその評判が広がっていたということなのでしょう。


さて、王の夢の内容を聞かされたダニエルはどうしたでしょうか。


王からそのように告げられたダニエルはしばらく立ったまま、言葉もなく身じろぎもしなかったのです。

あまりの衝撃に心臓も破れんばかりだったでしょう。

なぜなら、聖書には「しばらくの間、驚きすくみ、おびえた」とあります。


ダニエルは、王に夢の解き明かしを告げるこをためらったのかもしれません。

ただならぬダニエルの表情に、王もまた暗い予感がして聞きだすことを躊躇したのかもしれません。



この夢の内容の意味は、ネブカデネザルのプライドを激しく傷つけるものでした。

この事実を伝えることは、非常に勇気が要ります。

もし、バビロンの知者たちが王の夢の解き明かしをすることができたとしても、王の気性を知っている者たちには、王の機嫌を損ねると、自分たちの身に何が起こるか予想がつきますから、真実を伝えたかというと疑問です。


ですから、バビロンの知者たちが解き明かしが出来なかったのは、ある意味それで命が守られたことになると言えるでしょうね。



神様から明かされる真理は、罪深い人間には都合が悪く、不快な思いをします。

罪人は、自分の罪を隠すため暗闇を好みます。光を嫌うのです。


しかし、神様のみことばは光ですから、その光に自分自身が照らされると、自分の見たくない、認めたくない、触れられたくない罪の醜い暗闇の部分が明らかにされるため、光を攻撃します。


私たちクリスチャンが、みことばから真理を語るとき、多くの人から非難を浴びることがありますよね。


人は神に背いた罪の結果誰もが罪人となり、当然死んで地獄にゆくべき者となってしまったという真実、また死後のさばきや永遠の地獄の存在など、人は聞いていて決して心地いいものではありません。


ある兄弟が語ってくれました。


「みことばは力があり生きていますから、聖句から語られると罪人は当然打撃を受けます。

みことばは、相手の霊を照らし出し、『たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通す』(ヘブル4:12)ので、自身の心が痛むのです。

みことばによって暗部が光に照らされて打撃を受けた人たちは、真理を語ったクリスチャンに対してその痛みの怒りを激しくぶつけてきます。

素直になって悔い改めれば幸いなんです。なぜなら、今度は、人にではなく『すべてをご存知の神の前で弁解することになる』(ヘブル4:13)からです。」と…。


本当にそうだと思います。

時には真理を語ることに攻撃を受ける覚悟と、それに伴う勇気が必要になります。

それが嫌なら、真理を誰にも語らず、一人だけ救いを受けていればいいのです。

誰も好き好んで人から攻撃されたいなどと思いません。


現代の日本のクリスチャンはは、みことばを語ることで命を失う危険があるという攻撃はないのですが、当時のダニエルは、暴君の王を目の前に真理を語ることは人目から見て、命の危険を脅かすものだったと思います。


神様は、私たちの悪を明るみに出されます。

私たちが悔い改めて、光のところに来ることができるようにされます。


「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。

しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:20-21)


ネブカデネザル王のような人に不快な思いをさせる真理を語ることはとても勇気の要ることでした。


でも、ここで必要な「勇気」ってどういったものでしょうね…。


世の中にも勇気のある人って多いと思います。



たとえば、始皇帝陵の兵馬俑は兜をしていません。

それは強さと勇気の証しだったそうです。


しかし、近代の兵士たちは多くの防具を身に着けて戦いに出ました。


恐れを知って真の強さが得られるのであって、恐れを知らないのは勇気があるのではなく、無謀なんですよね。


「蛮勇」という言葉がありますが、事の理非や是非を考えずに発揮する向こう見ずの勇気、無知ゆえの野蛮な愚かな勇気を、「勇気」だと私たちは履き違えてはいけませんよね。


ですから、ここでダニエルが示した勇気とは、自分の経験や知識や能力からくる力を実感してではなく、真の神様を信じる強い信仰から来る勇気と力だったんですね。


このような人だったからこそ、あのネブカデネザルに都合の悪い事を話すことができるのは、ダニエル以外にいなかったと思います。


では、ダニエルは真実を王に語ることができたのでしょうか…。


次の記事に続きます。