2・イエス様は私達を憐れんでくださる


イエス様は人々をごらんになって、人々の(表面的な)状況をただ知っておられるというだけではありません。


イエス様が人をごらんになる時は、心もごらんになります。


その人が本当の意味で幸せであるかどうかをごらんになります。


神様と正しい関係をもっている(救われている)かどうかを心配されます。


ただ一人、私たちを永遠の救いへと導いてくださるリーダー(イエス様)を知らない人をかわいそうに思っておられます。


このような「憐れみ深い」イエス様がおられたからこそ、私たちは救いの方法を手にすることができたのです。


イエス様の憐れみは今もなおクリスチャンの上に日々そそがれているのです。



二つ目に、イエス様は私たちを憐れんでくださいます。


34節でイエス様は群集をごらんになりました。

そして「…その牧ふ者なき羊の如くなるを甚く憫み…」とあります。


イエス様は私達を見て、知的な意味で、知識として、情報として私達の事を知っているだけではありません。

私達を憐れんでくださるのです。


イエス様の地上における生涯というのは、人々に対する、罪人に対する憐みの生涯であるとも言えます。


マルコ伝8:1,2でイエス様は「その頃また大いなる群集にて食ふべきものなかりしかば、イエス弟子たちを召して言ひ給ふ、『われ此の群集を憫れむ、既に三日われを共にをりて食ふべき物なし。」と言われました


イエス様は食べ物のない人たちに、憐れみを示してくださいました。


イエス様は群集をごらんになりました。そして三日、何も食べてないこともごらんになりました。それを知っておられました。そしてそれを憐れんでくださいました。



また、マタイ伝20章29節から読んでいきますと、目の不自由な人が二人登場してきます。


彼らはイエス様に対して叫びました「主よ、ダビデの子よ、我らを憫み給へ」


でも、人々が、この盲人を黙らせようとします。

しかし彼らはいよいよ叫んで「主よ、ダビデの子よ、我らを憫み給へ」と言いました。


イエス様は立ち止まってくださいました。

呼び寄せてくださいました。

「私があなたに何をする事を望んでいるのか」と彼らに聞きました。


彼らは「主よ、目の開かれんことなり」と答えました。


34節でイエス様は「イエスいたく憫みて彼らの目に触り給へば…」とあります。


「いたく憐れんで」…涙なしにはこの節は読めませんでした。



マルコ伝1:40では一人のらい病人が登場します。


マルコ伝1:40-41「一人のらい病人、みもとに来り、跪き請ひて言う『御心ならば我を潔くなし給ふを得ん』イエス憫みて、手をのべ彼につけて『わが意なり、潔くなれ』と言ひ給ふ」


イエス様の地上での働きの中で、一番多く行われたことというのは、ご自分が神であることをお話になり、救いのみ言葉をお伝えになりましたけれども、霊的なことが大事であって、肉体的なことは重要ではないということではありませんでした。


イエス様は多くの場面において、肉体的に苦しんでいる人たちを憐れんでくださいました。

かわいそうに思ってくださいました。

手を差し伸べてくださいました。



ルカ伝7章では、ひとり息子を亡くした未亡人が登場します。


ルカ伝7:11-13「その後イエス、ナインといふ町にゆき給ひしに弟子たち及び大いなる群集も共に往く、町の門に近づき給ふとき、見よ、かき出さるる死人あり。これはひとり息子にて母は寡婦なり、町の多くの人々これに伴ふ。主、寡婦を見て、憫み『泣くな』と言ひて、」


お優しいですね…。

「泣くな、泣かなくてもよい」と言われたときの寡婦の気持ちを考えるとイエス様の優しさに心が反応するようでした。



もし、イエス様が霊的な事だけに重きをおいておられるのであるならば、このように憐れみを示すこともなかったでしょう。

またそれがこのように聖書に書き記されることもなかったでしょう。


イエス様はただ単に私たちをごらんになっているのではなくて、憐れみの心をもっておられるのです。


私達の救いということを考えてみても、私達は救われました…それはイエス様の憐れみの故に救われたのです。イエス様は私たちを、かわいそうに思ってくださるゆえに、その結果として救いを頂くことができました。


なぜならばイエス様の憐れみというものは非常に豊かであるからです。


エペソ2:4-6「されど神は憐憫に富み給ふが故に我らを愛する大いなる愛をもて、咎によりて死にたる我等をすらキリスト・イエスに由りてキリストと共に活かし(汝らの救はれしは恩恵によれり)共に甦へらせ、共に天のところに坐せしたまへり。」


神様、そして神の御子イエス・キリスト様は、憐れみに富んでおられる。

憐れみに豊かであられる。

「かわいそうだ」と思う気持ちが豊かであられる。


私達はイエス様の憐れみのゆえに救われました。


私達の憐れみの度合いというものは、どの程度のものでしょうか?


苦しんでいる人たちを見るとき、どれほどの憐れみが湧いてくるでしょうか?


イエス様のこの憐れみは、色んな場面で登場してきます。


マタイ伝18章をごらん下さい。

ここでイエス様は、一つのたとえをお話になりました。


一人の主人の家来が、多くの借金をしてしまいます。もう、到底返すことのできない借金を抱えてしまいます。

そして家来は主人の前にひれ伏してこう言いました。


マタイ伝18:26「この家来ひれ伏し、拝して言ふ「寛くし給へ、さらば悉く償はん」その家来の主人、あはれみて之を解き、その負債を免したり」


家来にとってみれば、どう頑張っても、払うことができない借金でした。それに対して主人は驚くべきことに、それを許したのです。憐れんでくださったのです。かわいそうに思ったのです。


これを私達に当てはめるならば、私達は罪人として神様の前に膨大な借金を作ってしまいました。

それは到底、払い終えることのできないものでした。


聖なる神様の前に、私達は決して許されることのない状態から、死後永遠に地獄においてそれを払い続けるようなものでありました。


そんな大きな借金を私達は抱えてきたわけです。けれども神様は私達を憐れんでくださいました。

この家来が許されたように、ことごとく許されました。


イエス様のお姿というのはルカ伝10章に出てくるサマリヤ人にも重ね合わせられます。


ある人がエルサレムからエリコへ下る道で強盗に襲われました。

その人は着物を剥ぎ取られ、半殺しにされました。

そのような状態で道ばたに放置されました。


当時の霊的な指導者である「祭司」はその人を一度見て、反対側を通り過ぎていきした。


一人のサマリヤ人が、その人のところに寄ってきました。


ルカ10:33「然るに或るサマリヤ人、旅して其の許にきたり、之を見て憫み、近寄りて油と葡萄酒とを注ぎ傷を包みて己が獣にのせ、旅舎に連れゆきて介抱し、あくる日デナリ二つを出し、主人に興へて『この人を介抱せよ。費もし増さば我が帰りくる時に償はん』と伝へり」


この人は、近づいて油と葡萄酒を注いで水を汲んで自分の動物に乗せて、そして宿屋まで連れてきました。

お金を払いました…足りないなら、また帰ってきたときに払いますからと言いました。


私達は神様の前にあって、罪人として霊的に死んだ状態でした。

神様のために何の役にも立つことのない状態でした。


でも、神様、イエス様は私達を憐れんでくださいました。


このサマリヤ人が傷ついた、強盗にあった人を憐れんだように、イエス様、神様は私達を憐れんでくださいました。


そして必要な全てのことを代わりにして下さいました。



また、神様の憐れみというものは放蕩息子を待つ父親の姿とも重なります。


全てのお金を使い果たして落ちぶれて父親の元に帰ってくるのです。


この父親は息子が遠くに見えたとき、ルカ伝15:20「…父これを見て憫み、走りゆき、其の頸を抱きて接吻せり。」とあります。


弟が自分で分かっているのです。何も良い物を受ける資格がない、もう僕となるほかはないと思っていました。

しかし父親は息子に何も要求しませんでした。

ただ、自分のところに戻ってきたということを見て、憐れんだのです。


私たちが罪人として、命の源であられる神様、親の元に帰ってきたとき、悔い改めて帰ってきたときに、神様はことごとく赦してくださいました。


神様は憐れみを抱いてくださいました。

私たちが心からなる悔い改めをするとき、神様は私達を憐れんでくださる、かわいそうに思ってくださるのです。


イエス様はこのような、深い深い憐れみに富んでおられるお方です。

マルコ伝6章の中でも群集をごらんになって、イエス様のお心は動かされました。

かわいそうで仕方がなかったのです。


マルコ伝6:34「…その牧ふ者なき羊の如くなるを甚く憫みて、…」とあります。


イエス様が憐れんでくださった、かわいそうに思ってくださったのには理由があります。


それは、羊飼いがいない羊のようであると…。

霊的に言うならば、霊的に導く存在がいない、霊的に養う、霊的に守る存在がいない、それを可哀想に思われたのです。


リーダーがいない、導く存在がいない、守ってくれる存在がいない、養ってくれる親がいない、そんな哀れな状態です。


同じような表現がマタイ伝9:36にあります。「また群集を見て、その牧ふ者なき羊のごとく悩み、且つたふるるを甚く憫み」


当時、ユダヤ人の間では、またユダヤ人の間だけでなく、おそらく宗教指導者と呼ばれる霊的なことに通じていると思われる人たちがいました。

いわゆる世の中の宗教指導者たちは、人々の霊的必要を満たしていませんでした。


その状況をイエス様は憐れんでくださったのです。


羊というものは本当に弱い動物です。

目の前の僅かな部分しか見ることができない、簡単に病気にかかってしまう、人間によって養われ、守られ、ケアーされるということがなければ生きられない動物です。


人間も、霊的な意味においてはこのような、溢れるほどのケアーがなければ正常には生きられないのです。


かつて旧約の時代、モーセはやがて自分がリーダーの立場を終えるというとき、このように祈りました。


民数記27:17「…エホバの会衆をして牧者なき羊のごとくならざらしめたまへ」と…。


主よ、どうぞ、この会衆の上に一人の人を立て、彼らの前に出入りし、彼らを導きだし、彼らを導きいれる者とし、主の会衆を牧者のない羊のようにしないでくださいと祈りました。


神様はモーセの代わりにヨシュアというリーダーを置いてくださいました。それによってイスラエルの人たちは導かれたのです。


この世界を見渡すとき、本当の神様を知らない人というのはつまり、正しい導き手を知らないということです。

正しいリーダーを知らないということです。


そうすると、どうなるのでしょうか?


行き着くところは、当然亡びです。


正しく導くリーダーがいない家庭、正しく導くリーダーがいない教会、正しく導くリーダーがいない国家、それに関係してくる人々は失われていきます。


しかし、私達は真の、まことの導き手、リーダーを見上げます。

ヘブル書13:20「願はくは永遠の契約の血によりて、羊の大牧者となれる我らの主イエスを…」とあります。


尊い血という規定を通して私達に与えられた偉大なる牧者、偉大なる羊飼い、このイエス様と私達は個人的な関係を頂くことができました。


本当の意味で主としてついていくことができるのです。


かつて私達はリーダーがいない状態でした。

そのように迷った状態であったのです。


ペテロ前書2:25「なんぢら前には羊のごとく迷ひたりしが、今は汝らの霊魂の牧者たる監督に帰りたり」とあります。


私達人間は誰しも、「たましいの牧者」が必要なのです。

常識的には、肉体的には様々なリーダーはいます。

導いてくれる人はいます、指導してくれる人はいます。

教師と呼ばれる人がいます。


しかしながら霊的な意味で、そして罪の問題も含めて、それらを解決し永遠に導いてくださる真のリーダーと言えるのはイエス・キリスト様しかいないのです。


幸いにも私達は、そのお方のところに帰ることができました。帰らせていただきました。


イエス様は、この群集をごらんになったのですが、その前後においてご自分を信じない、神の御子として認めないそういう心境、それもごらんになりました。

また、弟子達との個人的な時間というのも望まれていました。それを邪魔されるような形にもなりました。

しかしながらイエス様は人々をごらんになって、その憐れみの心が動かされないではいられなかったのです。


私達はこのような素晴らしい導き手を頂きました。最高の導き手を頂きました。

ですから私たちがこの方についていくかぎり、この方の元にいるかぎり、大丈夫だと言えるのです。


そうであるならば、何かリーダーがいない人のように、どうしていいのか分からない、というような生き方はやめなければいけないのです。


私達に大事なのは、まずは誰が私を導いているのかということです。

そして、誰の、どなたの言葉に従うかということなのです。


私達はイエス様を主としています。

そしてイエス様のみことばに従うべきです。


イエス様は私達の状況を認識しておられます。それはただ情報として知っておられるということではありません。

イエス様はご自分の心をここに置いて見てくださいます。


それゆえに私達は、今の救いに与っているのです。


しかし、この主の憐れみというのは、私達の救われた後のクリスチャン生活の中においても継続されています。

私達の上に注がれる神様、イエス様の目は続いて憐れみの視線であります。




さて、イエス様は私達に興味を持ってくださり、そしてまたイエス様は憐れんでくださいます。

最後にイエス様は私達に必要を満たしてくださるということを考えて見ます。



<次の記事に続きます。>