人は、何か世の中で良いことがあると、「人は神に頼らなくても生きていける」と言い、悪いことがおこると「なぜ愛の神がおられるなら、こんな悲惨なことがおきるのか」と真実の神を非難します。




人々に、神様を信じないようにさせる3つの抵抗勢力があることをご存知ですか?





「…ただ一人の亡ぶるを望み給はず、凡ての人の悔改めに至らんことを望みて…」ペテロ後の書3:9



この聖句は、別の訳では「悔改めにいたらんことを望みて」という箇所が「欲する」と訳されていることもあり、強い欲求の意味があって、神様は人々が悔い改めて神に立ち返ることを強く欲していると説明を受けたことがあります。



神様は、こんなにも一人も亡ぶことを望んでおられないのに、神様を見出す人が少ないのは何故でしょうね…。



先ほども述べた、神様を信じないようにさせる3つの抵抗勢力を取り上げて学びました。



一つは悪魔サタンの存在です。


サタンのこの世での活動目的は、人が神に頼らないように、人が神に背くように、昼も夜も活動しています。


二つ目は、悪魔に支配されている人々(世)、つまり思想であったり主義であったり、宗教などもそうです。


そして三つ目は、個々の人の中の神に従わない性質で、これはイエス様を信じても神に従わないという性質が残っています。



「この世の習慣に従ひ、空中の権を執る宰、すなはち不従順の子らの中に今なほ働く霊の宰にしたがひて歩めり。我等もみな前には彼らの中にをり、肉の欲に従ひて日をおくり、肉と心との欲するを隨なし、他の者のごとく生まれながら怒りの子なりき。」エペソ2:2-3



この聖句には、神様に反対する勢力が3つ、全部出てきますね。



空中の権を執る宰、つまり悪魔。



不従順の子ら、つまり世。



そして肉。



では、この3つの抵抗勢力に対して、私達クリスチャンは、どのような姿勢が勧められているでしょうか?



まず、悪魔に対してですが…。



「この故に汝ら神に服へ、悪魔に立ち向かへ、さらば彼なんぢらを逃げ去らん。」ヤコブ4:7


ここでは、「悪魔に立ち向かいなさい」と教えています。

しかし、悪魔に立ち向かう前に、神様に従うことが前提となっていますね。


神様に従わない人は、悪魔にも立ち向かえません。

神様の側に就き、神様を後ろ盾として悪魔に立ち向かうなら、強いはずの悪魔は手出しが出来ず、逃げ去ります。



エペソ6:10では、「終に言はん、汝ら主にありて其の大能の勢威に頼りて強かれ。」とあります。




そして、世に対してですが、世には、立ち向かえとは書いていません。


ヨハネ第一の書2:15は、「なんぢら世をも世にある物をも愛すな。人もし世を愛せば、御父を愛する愛そのうちになし。」とあります。


世との関係は、「世を愛すな」と言っており、「好きになるな」「親しくなるな」「仲良くするな」と勧めていますね。


また、ヤコブ4:4では「…世の友となるは、神に敵対するなるをしらぬか、誰にても世の友とならんと欲する者は、己を神の敵とするなる。」とあります。



世と親しくすると、神様に敵対する者となります。自動的にそうなるのですね。


また、ロマ書12:2では、「又この世にならふな、神の御意の善にして悦ぶべく、かつ全きことをわきまへ知らんために、心を更へて新たにせよ。」とあります。



悪魔に立ち向かい、世から離れることを神様は勧めています。



では、最後の肉に対してですが…



これが本当に厄介なんですよね。

本当に私達人間の罪深さはどうしようもないというか、イエス様を信じてもなお、罪の性質は持っていますから、いつでも意識していないと、私達クリスチャンは霊によってではなく、肉によって支配されてしまいます。



肉の性質を、意識して気をつけないというのは、まるで猛獣を野放し、放し飼いにしている状態といえるでしょうね。


肉という猛獣は放し飼いにせず、檻に入れて、自由に活動させないようにします。


そして、餌をやらない。


弱らせる。



檻の中に入れても餌をやり続けるなら、肉という猛獣は成長し、力をつけ、いつかその檻を破壊して出ていくでしょう。


檻に入れたら餌をやらずに弱らせる必要があるんですね。



その肉という猛獣が旺盛なら、クリスチャンになっても、不信者のような状態でいます。


私達クリスチャンは依然としてその罪の性質、肉的な欲望などは内臓していますから、いい加減にしていると、考え方、やり方、行動などが不信者と変わらない状態となって出てくるんですね。




今日も気を引き締め、神様により頼み、一日を過ごしていきます。



アーメン。