私たちの生活は全ての点で、昔に比べて大変豊かになりましたね。


百年前の文化文明の中で生活していた人々にとっては、想像もつかなかったことでしょうね。



現代のありあまる豊かさの中で生活をしている私たちに、聖書は次ぎのように述べています。




「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった。乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」黙示録3:17




私たちは、外面的には幸せそうに見えますが、実は、むなしくて、満たされないのが実状だとは思われませんか?


私たちは、その空虚な思いを紛らわそうとして、レジャーに、スポーツに、そして仕事に生きがいを求めて一生懸命になってしまうことってありませんか?。


時には、自分の心を偽って「自分はこれで良いのだ」と言い聞かせて納得させようとします。



しかし、それでも満たされず、虚しい思いだけが心に残ることはありませんか?



実は、聖書はその原因を次ぎのように教えています。




「実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。」伝道の書2:25





神様を抜きにした人生



神様を無視して生きることが、虚しさの原因だと聖書は述べています。


なぜなら、私たちは、神様に造られた者であり、神様との信頼関係で生きる者だからです。


私たちの命は偶然の産物ではありません。



世界で初めて、人間の遺伝子の解読に成功した筑波大学の一人の教授は、命について次ぎのように語っていたそうです。



「科学の現場では、これまで過去30年の間に、最も単純な生きもの、大腸菌について研究されてきましたから、生き物としては一番よく知っています。しかし、世界の学者が束になっても、世界の富を全部寄せても、今のバイオテクノロジーの総力をあげても、大腸菌一匹も造れない。


これは生きものがいかにすごいかということです。

細胞が60兆もある人間がなぜ生きているかは、まだ科学では手も足もでない。


遺伝子は自然に、整然と読まれているのですが、それを動かしているものは、大自然の不思議な力としか今のところ言いようがない。


だから決して私どもは自分の力だけで生きておるのではない。」と。



みなさんも、生きものに関してそのように言われているということは理解されていると思います。

この教授のコメントからも、命は偶然にできたものではないことが分かりますね。


私たちは、人知を超えた神様によって、きちんと計画され、造られた者だと思われませんか?



そのことについて、聖書は次ぎのように教えています。



「それはあなた(神様)が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」(詩篇139:13)



しかも、私たちが生きていく上で必要不可欠な衣・食・住は、神様から与えられている恵みなんですね。


ですから、神様を信頼し、感謝して生きることは、人間として当たり前のことだと思われませんか?



ある人は言います。



「私の命、私の人生、私が築いてきた道」。



確かにそうです。



しかし、資本である命は自分のものではありません。


私たちは、親も、性別も、時代も選択できずに生まれてきました。


しかも、死の期日さえ知りません。


なぜなら神様がすべてを決めておられるからです。


そんな私たちに、どうして「私のもの……」と言えるのでしょうか…。



また、ある人は言います。


「私は神抜きでも生きられます。」と…。


しかし、人は何のために生き、何のために学び、何のために仕事をするのか…。


それらの人生の根本的な問題を造り主を抜きにして知ることができるでしょうか…。


私たちはまるで、どこに向かって走っているか分からない電車に乗っているようなものだと思われませんか?。



神様を無視しても私たちが生きられるのは、神様がそんな反抗者をも愛し、やがて神様に立ち返るのを待っておられるからなんですね。



人間は動物とは違い理性があります。



ですから、私たちが生まれてきた意味、死後の行き先などを明確にしない限り決して満足を得ることができないのでしょうね。



神様こそ、私たちの人生の道案内であられるのです。



この神様を抜きにした生き方では、どれほど豊かなものを手に入れても、快楽の生活を送っても、心は満たされず、ただ渇くだけだと思われませんか?




死後の行き先を知らない人生



聖書は、私たちが死んだ後、何があるのかを明確に教えています。



「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」ヘブル9:27



私たちはやがて死にます。


死後、神様の御前で、人生のすべてのことについて申し開きをしなければなりません。


神様を抜きにした人生、神でもない木や石の偶像を拝んだこと、そして、偽りの言葉や誤った行動の罪、また、心の中にある汚れた思いの数々です。


神様は聖書を通して、現在の私たちを「罪人である」と診断しておられます。


ですから、罪人は裁かれ、地獄に行くしかありません。


その事実を私たちは直感的に知っているのだと思います。

だから、そこに死に対する恐れがあるのだと思われませんか?


私たちを不安に陥れる原因は、死後、天国に行ける、という確信を持っていないところにあるのではないでしょうか?


どれほど、豊かな人生を送っていても、私たちは必ず死にます。


しかも、死は、予告なしに突然やってきます。


そんな死後に対して、備えていないことが、私たちの心が満たされない理由でもあると思われませんか?




ではどうしたらよいのでしょうか?



イエス・キリストは言われました。



「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ヨハネ4:13-14



「水」とは結論からいうと、イエス・キリストを指しています。


すなわち、彼こそが私たちの心を潤し、永遠の滅びから救う救い主なのです。


神様は、罪人である私たちを愛し、滅びからの救いの道を備えられました。


それが、神の御子イエス・キリストです。



聖書はイエス・キリストについて次ぎのように語っています。



「(キリストは)十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」第一ペテロ2:24



キリストは、私たちを恐ろしい地獄の裁きから救うために、私とあなたに代わって、十字架上で死んでくださいました。


それは、私たちの罪の精算であり、罪の裁きの身代わりの死でした。


そして、キリストは三日目に墓の中から甦えられました。


そのお方を心から信じる者は、神に罪を赦され、地獄の裁きからも救われ、永遠の命が与えられるのです。



そして私たちは自分が何のために生まれ、学び、仕事をするのかという真実の意味を知りえることができます。

それだけでなく、どんなことがあっても変わることのない喜びと天国への希望が与えられます。


罪を赦され、死後の裁きからの問題を解決された時、人生の様々な楽しみは、本当の楽しみに変わってくるのは、本当に感謝ですね。


表面的で、一時的な充実感ではなく、永続する実感があり真実への満足へと変えられるのは、本当に素晴らしく、ありがたいことですね。



ここに、渇いた心が潤い、この世の何を持ってしても、満たされなかった心が満たされるのは、大きな慰めです。




天下取りの徳川家康が最期に残したことばに、「人の一生は、重荷を背負うて遠き道を往くが如し」とあります。




しかし、イエス様を信じる者にとっては、「人の一生は、イエス様に重荷を降ろして、天国の道を楽しく往くが如し」と言えるのではないでしょうか?。




イエス・キリストは、私を、あなたを招いておられます。



「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(キリスト)のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11:28




本当に、本当に感謝です。




私はいつも、イエス様の十字架の隣で同じように十字架に架かった罪人と自分が重なります。


彼は、自分が犯した犯罪のための当然にして受けるべき罰を受けました。


しかし、彼は死ぬ寸前にイエス様を信じて、イエス様から直接「われ誠に汝に告ぐ、今日なんぢは我と偕にパラダイスに在るべし」と言われました。



どんな思いだったでしょうね…。

そこを読むたびに涙が出ます。



人は、知らず知らずのうちに他人を傷つけたり、罪を犯したりしたとき、それを許してもらったときも、もちろん安心しますし、知らなかったとは言え、間違いを許してもらったとき、感謝の気持ちがありますよね。



でも、この犯罪者はどうだったでしょう…。

知らずに罪を犯したのではなく、計画的に、意図的に犯罪を犯していたので、情状酌量の余地なく死刑だったのでしょう。



そんな彼が赦されたのです。



人は、知らず知らずのうちに犯した罪を赦してもらうことよりも、故意に犯した自分の罪が赦されるということほど感謝が大きく、本当に自分を低くさせられるのではないでしょうか…。


イエス様の言葉を受けたとき、彼がどれほど感謝し、安心し、平安の思いを頂いて死に臨んだだろうかと思うと涙が出ます。



私もそのような立場でした。

そんな私を赦してくださる神様に、私は何年かかっても、何十年かかってもお返しできないほどの贈り物を頂きました。


そのことをいつまでも忘れず、感謝しつつ、主と共にあゆんでいきたいと思います。