私たちの魂は、思い、意思、感情から構成されていて、私たちのパーソナリティー(自我)の座です。


肉体の感覚の器を通して入力されるあらゆる情報を処理し、評価し、意思決定し、行動に移します。


その過程で感情は自分の願いや予測と現実が一致するならば安心感を覚え、食い違いが生じると不安感を覚えたり、絶望感を感じたりするわけです。


これが、私たちの魂の機能であり、現代人は特に教育や自己啓発と称して思い(知識と知性の複合体)を異常なまでに発達させています。


これに対して霊は神を意識する座です。

「神は霊ですから、礼拝する者も霊とまことをもって礼拝すべきである」のです。(ヨハネ4:24)



さて、ここで問題の核心に迫ります。

たとえば、自分の必要とするお金が目の前にないとき、あなたはどうしますか?



目の前にお金が不足しているというのは事実(現実)です。


一方、神のことば(ロゴス)は「私たちの必要はキリスト・イエスにあって神がすべて満たしてくださる」とあります。(ピリピ4:19)


大事な点は、神の言葉は真理であって、目の前の事実と相違したとき、私達はどちらを信じるか、ということです。



すでに述べたことを読まれた方は、あくまでも神の言葉を信じようと努力されることでしょう。

しかし、実際の経験は頭では分かっていても、どうしても平安が得られずに焦りや不安を覚えてしまうことがありませんか?



何故でしょう?



それは、その真理をたましいのレベル、特に知性で取り扱っているからです。



その確信はあくまでも心理学的なものであって、目先の条件によって振り回されます。

それはたましいの機能によるのです。


神の言葉は本来霊で受け取るべきものです

たましいの働きを霊の働きと弁別できていないので、「信仰を持った」と思っても、目の前の事実に直面するとすぐに揺らいでしまうのです。


たましいで受け止められた神の言葉は単なる知識を増やすだけです


神の言葉を聞くときに、霊で受け止めるか、たましいで受け止めるか、すなわち霊とたましいの分離が必要となります。



ある人は、神が創造された人間を三階建ての家にたとえました。


一階はからだ、二階は仕事場でたましい、三階は、展望室か居間や書斎のような場で霊です。


罪を犯す以前、人間は霊をもって神と語り合い、その交わりを無限に楽しみました。


人間の堕落は道徳上の地震とも言えるものでしたが、先ほどの「家」を激しく揺さぶり、その結果、三階が地上にまで崩れ落ちてしまったのです。


したがって、生来の人間は(霊的な存在ではなく)「たましい的」な人間です。

新約聖書で「生まれながらの」と訳されていることばを直訳すると「たましい的」となります。(「たましい的」ということばは、たましいということばに意図的に形容詞語尾を付加したものです。)



しかし、人間が堕落したにもかかわらず、神は人間から霊を取り上げようとはなさいませんでした。



しかし、人間は「その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくななこころとのゆえに、神のいのちから遠く離れて」しまいました。(エペソ4:18)



人間の側のどのような行為も、霊をその本来の位置に戻すことができません。

堕落によって、人間の能力はすべて悪用されてきたからです。


人間の霊は罪によって汚されました。


人間のたましいは本来の価値を完全に失い、退廃しきってしまいました。


今や人間は、神が愛されるものを憎み、神が憎まれるものを愛しています。


人間のからだは病気などによって弱ります。

それは、罪がこの世界に入った直接的な結果です。


人間は正しい道からはずれてしまい、全く無益なものとなりました。

言い換えれば、人間は神の恵みによって新しい命を得る以外、新たに生き返る可能性が全くない、完全に堕落した被造物なのです。


しかし、この堕落し、落ちぶれた人間を救うのが神のみこころです。

人間をアダムの状態に戻してくださるばかりか、堕落以前の人間が知らなかった、より高い水準にまで引き上げてくださるのです。


そのために、神の御子ご自身が人としてこの世においでくださったのです。



御子は、人間の肉体をお取りになったばかりか、人間の霊と人間のたましいをもお持ちになったのです。


多くの人はこのことを理解しないまま、キリストについて考えますが、それは誤りです。


この「とこしえのことば」なるお方が地上の生涯を歩まれたとき、ご自分のからだに対して持っておられた関係は、私たちの霊とたましいが私たちのからだに対して持っている関係と同じものだからです。


キリストは、御子の神性を宿す幕屋として肉体をお取りになっただけでなく、人としての性質とご自分の神性を完全に一つのものにされたのです。


このようにして、神の御子が、人と神との二つの性質を持つお方として地上に顕現されたのです。



主が人間のたましいを持たれたことは、すでに引用した聖句から明らかです。

また、「わたし(のたましい)は悲しみのあまり死ぬほどです」(マルコ14:34)と主が語っておられる箇所もあります。


また、「イエスは、…霊の激動を感じ…」(ヨハネ13:21)とか、「イエスは、聖霊によって喜びにあふれて…」(ルカ10:21)とも書かれています。


また、まさに息が絶えようとするときには、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と大声で叫ばれました。


主は、堕落した人類のために、ご自分を完全に、からだもたましいも霊も、犠牲としてささげてくださったのです。


人間を罪から救う贖いの血は、罪の汚れのない人間の血でした。


十字架上でささげられたみからだは、汚れなき人間のからだでした。


主のたましいの苦しみは、人間のたましいの苦しみでした。


十字架にかかられたとき、主がそのご存在の最も奥深いところで味わってくださった苦悩がどれほど大きいものであったか、私達はほんのわずかしか理解することができません。


十字架の上で私たちの変わりにさばきを受けてくださったとき、主の愛、主のあわれみ、主の優しさ全てがことごとく傷つけられたのです。


「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)という恐ろしい叫び声を上げられたとき、主の霊がどれほど打ちひしがれたか、私達はその暗さをほんのわずかしか理解することができません。


主の叫びは、私達のために完全な犠牲となられたことの証拠でした。


たましいが主を救い主と信じるとき、堕落した悪しき人間に新しいいのちが与えられます。


そして、このいのちをあらゆる面で感じます。

目ざめた霊は神のことばを受け入れ、その人は心と霊において一新されます。


その人が再び神を仰ぎ見、霊によって神との交わりに入ることができるよう、その「建物」は建て直されているのです。


人間は、神のみこころを知り、それを理解し、みことばに従っていることと、そうでないことを見分けることができるのです。


その人のたましいも救われます。その愛情も純化されます。その思いは、悪事や世俗の事柄から、きよい天的な事柄へと向けられるのです。


からだは変化しないまま残りますが、やがて、主イエス・キリストのご再臨のとき、主はこのからだを変えてくださり、ご自分の栄光のからだに似たものにしてくださいます。


そのとき、わたしたちは完全に、霊もたましいもからだも、救われるのです。


そのとき、わたしたちは生来のからだを脱ぎ捨てて、霊のからだを着るのです。(Ⅰコリント15:44)


しかし、ある人は、コリント人への手紙第一の15:44を読み、物質的なからだを非物質的なからだと比べるかもしれません。


しかし、それは使途パウロの考えでもなければ、聖霊が意図したことでもありません。


生まれながらのからだはたましいにふさわしいからだです。


すでに述べたように「生まれながらの」と訳されていることばは「たましい」ということばから派生した形容詞にすぎません。


それが「霊のからだ」によみがえるのです。

それは、霊体ではなく、霊にふさわしい実際のからだです。


主は「心(霊)は燃えていても、肉体は弱いのです」(マタイ26:41)と言われました。


それが事実であることを、わたしたちはしばしば経験をとおして知りますが、栄光ある未来に、からだと霊は完全に調和したものとなります。


それは私たちの救いの完成となるでしょう。


霊とたましいとからだが私たちの主イエス・キリストと同じ姿に変えられるのです。


主は、多くの兄弟たちの中で長子として最初に生まれた方です。


私たちは完全に主のようになり、永遠に主ご自身のみからだのような栄光のからだをもって、主にふさわしい友となるのです。


「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとこのことをしてくださいます」(Ⅰテサロニケ5:24)

なぜなら、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる」(ピリピ1:6)と記されているからです。


その日、私たちの救いは完成します。

その日、私たちの霊とたましいとからだが、神の御前に完全なものとなるのです。


私たちは、キリストが成就されたみわざのあらゆる完全さにおいて神の臨在のもとに立つからです。




では、ここまでの記事で霊が不滅であることが理解できるなら、人は死んだらどこへ行き、どうなるのでしょうね。