コースを学びはじめて5年目になりました。
という訳で、私個人の日常は大したドラマもなく、至って平坦なものになりました。
W-pl130.1:2-3
学び始めの頃は身近な現実(世界)を赦し続けて、少しずつ日々の生活が平穏になってきました。
この世界(自我)の仕組みについて学べば学ぶほど、派手なドラマを捏造しなくなりました。
この世界(自我)の仕組みについて学べば学ぶほど、派手なドラマを捏造しなくなりました。
ドラマ化しそうな話(動揺)が持ち上がっても、聖霊を思い出し、赦すことができるのは、毎日コースに触れ、学び続けているからだと思います。
つまり、聖霊のおかげです。
もちろん、まだまだ赦せないことはたくさんありますが、それさえも受け入れて、焦らずに、これまで通り学び続け赦し続けるだけだと思っています。
という訳で、私個人の日常は大したドラマもなく、至って平坦なものになりました。
これが神の平安状態であるならば、大いに結構なのですが、どうもそうではないと薄々気づいています。
ただ平凡な日々を送っているだけで、実は、そこはかとない空虚感がずっとつきまとっています。
ただ平凡な日々を送っているだけで、実は、そこはかとない空虚感がずっとつきまとっています。
そもそも「平凡な日々を送っているだけ」という表現に「特別性への執着」があることは明白です。
これは既に自我を選んでいるということです。
W-pl130.1:2-3
あなたが見ているものは、あなたの思考を反映している。
そして、あなたの思考は、あなたが見たいと選択したものを反映しているにすぎない。
そして、あなたの思考は、あなたが見たいと選択したものを反映しているにすぎない。
W-pl132.6:2-3
世界は存在しない!
これがこのコースが教えようとしている中心概念である。
これがこのコースが教えようとしている中心概念である。
私はこのコースの中心概念である「世界は存在しない」ということを、理解したい、受け入れたいと思っていました。
その結果、外側に見ているものが空虚感だとしたら、この空虚感は何か良いもののように思えていたのです。(自我の解釈)
仏教でいうところの「空」の状態ですよね⁈
もう悟っているってことですか⁈
いえいえ正直に自分の内面を見てみると「世界は存在していて欲しい」という願望があり、でも、コースには「世界は存在しない」と書かれているので、実はがっかりしている状態が、この空虚感なのです。
やっぱりしっかり自我のままでした。
W-pl132.5:5
あなたが見ている世界はあなたが作り出したということやあなたが心を変えれば世界は変わるということをあなたに教えるのは、傲慢さではない。
空虚感という罪悪感があるのに、それを罪悪感と認知せず、世界がないのだから罪悪感もないと思い込もうとしていました。
空虚感という罪悪感があるのに、それを罪悪感と認知せず、世界がないのだから罪悪感もないと思い込もうとしていました。
でも罪悪感がない割には、喜びも平安もないので、なんか変だなと思いながらも、それに向き合わずに、日々を過ごしていました。
空虚感に向き合わずにいられたのは、この世界の中で、そこそこ平安で、そこそこ幸せだったからです。
ふっとした時に感じる空虚感は、全然気持ち良くないので、「やっぱり自我だわ」と認めざるを得ません。
ここで、ようやく赦すことにした訳です。
そしたら、夫の手術やら息子の受験やらで動揺するようなドラマを捏造してしまい、空虚感に向き合うどころじゃなくなった、というのが、前回のブログでした。
ここでそのドラマに対して、「えらい目に遭いました」と言いたい誘惑(被害者願望)があることに気づきました。
コース的には、自分で自分をえらい目に遭わせる自作自演のドラマに過ぎないのです。
なので、これを赦しました。
私はここでやっと「自分はちゃんと罪悪感がある人なんだ」と自覚しました。
私は「えらい目に遭うのに相応しい人間だ」と思っていたのです。
これに気づいた途端『まだこんなものがあったのか』とか『何度も自我を選んでるやないの〜』と自分を責めるモードに入りそうになりましたが、聖霊を思い出し、切り替えることができました。
聖霊を思い出せるなら、人生はそう難しくはありません。
さて、空虚感の方ですが、聖霊にお尋ねしたところ、「兄弟にシェアしなさい」とか「兄弟とつながりなさい」としか言われません。
どうも〈つながり〉がテーマのようです。
ここで、「兄弟とつながるって、どうやって?」とつい自分でやろうとして、この世界で具体的にどう行動すればいいのかを考えてしまいがちでしたが、今回は「私にはわかりません。聖霊、教えて下さい」というのが素直出て来ました。
これには、嬉しくなって思わず笑いました。
「私にはわからない」と正直に認める選択肢があったのです。(聖霊を選択)
これがまさに真理だと腑に落ちたので、思わず笑ってしまいました。
具体的に何をすればいいかなんて、私の考えることではないのです。
とにかくあるがままに受け止めるだけだとわかり、気が楽になりました。
***
先日、TVで「突然ですが占ってもいいですか?」という占い番組で、縁が切れて5年経つ友人と再び縁がつながった、というのがやっていて、それを羨ましく思いました。
私には20年近くつきあいのあった友人がいて、その彼女と縁が切れてから2〜3年経つのですが、TVのように再び縁がつながったらいいなって思っていたのです。
彼女と縁が切れたという出来事から「私は人から見捨てられるに相応しい人間」だという信念があることに気づきました。
コースによれば、私の方が先に神を見捨てた(分離は起きた)という思い込みがあるのが原因らしい。
コースをきちんと学ぶとわかるのですが、神から離れることなどできる訳はない(分離は起きていない)ので、私たちは今も神とひとつであることが真実です。
神とひとつである私たちが見捨てられるということはあり得ません。
ということは、聖霊の見方では、私と彼女は縁が切れている訳ではないのです。
実際にこうして今彼女のことを思い出しているのだから、それこそ縁が切れている訳ではないということですよね。
本当に切れていたら、思い出しもしないはずですから。
という訳で、私は彼女に再びつながることができたように感じました。
実際には、一度も彼女と離れたことはなかったと気づいただけですが、充分癒されました。
T-6.Ⅱ.5.6-7
あなた自身をこのこのように知覚することだけが、あなたがこの世界で幸福を見つけられる唯一の方法である。なぜなら、それはあなたがこの世界の中には居ないということの確認であり、この世界はまさしく不幸な場所だからである。
T-6.Ⅱ.6.1
喜びのない場所では、自分がそこに居ないと気づく以外にどのようにして喜びを見つけられるだろう。
まさに今ふっと気づきましたが、空虚感ってどんな感じでしたっけ?
これを書いているうちに、兄弟や聖霊とのつながりを充分に感じることができたおかげで、空虚感が癒されたようです。
えっ、こんな簡単なの?
T-7.Ⅺ.1.1
あなたの喜びは聖霊の喜びでもあるので、聖霊は常にあなたを真に導いてくれる。
T-7.Ⅺ.5.7
真理ほど認識するのが簡単なものはない。