かつてこのブログで何回かサインバルタの離脱症状のことを書いた。幸い離脱症状からは脱したのである。脱カプセル5mgをつづけ、さらにそれを隔日にするという方法で。それは2月の終わり頃だったと思う。
先のブログでは、「うつ転したわけではないけれど」と書いたが、ここのところかなり怪しかった。今も不安定ではある。銭湯通いは続けていたが、それも日によってはかつてほど快感ではないと感じることもあった。
僕のブログは「間歇泉」なので少なくなっても自分のペースで行かせていただこうと思う。
主治医とはサインバルタ離脱を試みるということが決まったとき、先生は、もし調子がわるくなったら剰ったサインバルタを飲んで病院に来られるときに来たらいいですよと言ってくださった。引き出しの中にあるサインバルタに一度手がのびかけた。
サインバルタは、自分にとってもしものときの支えではある。この薬はパキシルやジェイゾロフトがどうも頭打ちになった一年前、替えてみて五日ほどで良い反応があった薬だからである。(双極性障害なので、もちろん気分安定薬として、レキシン=カルバマゼピン600mg、ラミクタール=ラモトリギン100mg、あとリボトリール=クロナゼパム1mg、を続けている。)いま続けている抗うつ剤はアモキサン100mgである。アモキサンは、双極性障害の人には躁転を起こさせる危険があるので要注意という薬だが、自分はこれがなかったら、その後の8月にやってきたサインバルタの腰折れは乗り越えられなかったと思う。そして浮上してしばらくしたのでサインバルタを抜いてみることになったというのが経緯である。レキシンの土台にアモキサン+ラミクタールを乗せているというのがここのところの自分にとってしっくりいった形となった。
離脱症状を体験すると、サインバルタはアモキサンより重い薬に感じられる。あるいはSSRIやSNRI全般がそうかもしれない。これは一般にいわれているのとは逆の形になってしまうが、個人的にはそうなのである。確かにSSRIは、それまでの三環系抗うつ剤の抗コリン作用などを解決して副作用が減弱されているというのが、売りで出てきたし今日もそうであろう。それと心臓への影響であるQT延長を来さないこと。(レクサプロはこの副作用があるようだが)しかしどうもSSRIであがってきたときは後に精神的な不全感というか、完全な寛解にいまひとついたってない状態にとどまってしまうのである。その状態が「重さ」に感じられるのである。それに離脱症状が加わればなおさらである。その点人にもよると思うが、アモキサンは躁転の危険こそあれ、離脱症状は全くなかった。(理論的にはありえるそうなので経験された方もいるかもしれない。)100mg使うと、若干口の渇きが感じられはするがそれ以外はこれといった問題はいまのところない。(これも理論上は、第一世代抗精神病薬のロキサピンに構造が似ているので錐体外路症状がありうると書かれている)アモキサンは、ひょっとするとレキシン=カルバマゼピンとの相互作用があるので100mgが自分にとっての適量になったのかもしれない。添付文書には75ngまでが通常量になっている。まあ、抗うつ剤の適量は落ち込んだエピソードの度合いによって異なるとは思うが。レキシンを使うとラミクタールも血中濃度が半減するので倍量が必要になる。(自分にはラミクタールは100mg、通常量換算では50mgで効果があるようだ)
ともかくそんなわけでまだサインバルタは再開していない。どうしようもなくなったらまた使うだろうが、離脱症状からやっと抜け出したことを思うと、できればなしでもう少し乗り切りたいのである。
だが、いざという時の支えが控えているのは心強い。あと他に落ちないためにやっているのが、銭湯通いとビタミンB6である。
実は、そんな微妙なところをさまよっているのである。しかしかつてのように落ちてしまわなければ良いとしようと思っている。
うつ転したわけではないのだけれど、しばらくブログを書く気分になれなかった。この間公私ともに不愉快なことがあって、その気分にとらわれていた。仕事も年度末の始末が今年はまったくできなかった。仕事のことは自分の調子ではなく、あくまで外的問題である。3月末にできていないことはこれまでなかった。不愉快なときにブログを書いてもなんか不愉快な気分を伝染させる方向にいきそうな気もしてついつい遠ざかってしまった。
実はそんな気分でマーラーの交響曲5番を立て続けに聴いた。今年10月にロシアのワレリー・ゲルギエフがマリンスキー劇場管弦楽団をつれてやってくる。そのチケット発売があって、大阪公演プログラムが、ストラヴィンスキー「火の鳥」1945年版とマーラー交響曲第5番なのである。買おうかどうか迷った。マーラーは昔それなりには聴いたけれど、結局自分にあまり合わない作曲家だとこのごろ思っていたからだ。(僕はブルックナー派である。)「火の鳥」も嫌いではないけれど、バレエの全曲版は演奏会ではなにか疲れてしまうとこの頃感じる。(バレエ版の方が楽器も多いのだ)それで、聴きに行く気分になれるかを見極めるために聴いたのだった。初めはクラウス・テンシュテットとロンドン・フィルハーモニーの評価の高いものを聴いてみたけれど、いまひとつしっくり来なかった。(これは多分にその日の気分に影響されていたかもしれない)その後バルビローリ盤を聴いてやっぱり行ってみようと思った。「火の鳥」はゲルギエフの全曲版を前から持っていてプログラムとは違うヴァージョンだが、これも期待できることを確信した。幸いチケットも手に入った。
そうであるからには、できるだけ楽しめるように準備をしようとスコアも買ってきた。マーラーはこの所本当にご無沙汰していたのだが、この5番は先にあげた他にカラヤンとバーンスタインのものを持っていた。カラヤンはあまりマーラー向きではないのではとかねがね思っていたが、いちおう全部聴いてみようと思い、三番目はカラヤンとベルリン・フィルのを聴いた。しかしこのあたりから変になってきた。この曲の第一楽章の送葬行進曲や二楽章の憂いに満ちたテーマは自分にとってこれまで魅力だったのだが、なぜかそれが耳から離れなくなってそれが妙に不愉快に響いてきたのである。
この不愉快さにはこのところの日常が影響しているのかもしれない。しかし、マーラーは偉大かもしれないが、何かそういう要素をかつてより感じていた。それに自分の青春の一番暗い部分をマーラーは思い出させるのである。確かにマーラーには他の人間に書けない天上的な楽想があったりする。有名なこの5番の四楽章、アダージェットはヴィスコンティの映画「ベニスに死す」に使われて以来、いろいろなBGMに採用されるようになって、このごろではサスペンスドラマでも流れたりする。(古谷一行さんの金田一耕介シリーズでも)少し使い古された感もある。この四楽章は好きなのだが、この5番の交響曲の中でどういうつながりがあるのか自分には今ひとつわからないのだ。カラヤンは第9番を録音するにあたってインタビューでこういっていた。「マーラーは崇高さと卑属な所の幅が極めて狭い。私はこれまでそれに適した音のパレットをもっていなかった」。崇高さと卑俗さの極めてせまい幅。まさにいいえて妙だ。その微妙さが自分には結局しっくりこないままだった。
マーラーは、アルマ・シンドラーという社交界の花と結婚したが、彼はやがて彼女の誠実さに猜疑心を持ち、苦しむようになる。アルマはマーラーと結婚する前に、画家クリムトと恋仲だったとか、彼女自身作曲を勉強していて作曲の先生だったツェムリンスキーとも恋仲だったともいわれている。マーラーと結婚した後は、建築家と交際し、マーラーを苦しめたらしい。アルマはマーラーの死後はその建築家グロビウスと結婚するが破綻。5回の結婚をし、最後はアメリカで生涯を閉じた。すざましい生涯ともいえる。苦しんだ頃のマーラーは、フロイトの診察をうけたといわれている。
確かにマーラーの音楽にはぼくの神経症的なものをえぐり出してさかなでする何かがある。これは、あくまでもマーラーと自分との個人的な関わりをいっているので、マーラーの音楽を否定するつもりは全くない。ここに書いているのはあくまでも僕の気分であって芸術の評価とは違うものである。むしろさかなでする何かがあるというのは何かを持っているのだ。ただ、この年になると無理して気分の乗らないものは聴かなくてもいいんじゃないかと開き直った気持ちになる。ある大家の先生もいっておられるように双極性障害の人は気分屋で生きないとだめらしい。
でも大阪公演のマーラーは楽しめなければ損なので、(こういうところはかなり貧乏性である)しばらく離れてまたすこしずつ接近していこうと思う。そうしているうちに新しいものが見えてくるかもしれない。そういう意味ではマーラーは評判が高いが不可解で副作用の強烈な薬に似ていると思う。立て続けに聴いたら毒なのだ。ケン・ラッセルというイギリスの奇才監督が昔、マーラーの伝記的映画(「マーラー」1974年)を撮ったが、これもどぎついものを見せられたという感じだった。ぼくは毒気に弱いのかもしれない。
このブログはこれからも映画や音楽のことに触れていくだろうが、評論家的に評価をくだすことは避けようと思う。ただ、大いに愛でることはしようと思う。それに毒についても少しばかりは書こうかと…。今日は毒の話になってしまった。(やっぱりこういう気分では否定的な方向に行ってしまったのだろうか?)
全く話題は変わるがこの間に関西方面に用事があって、京都の錦湯という銭湯に行った。銭湯王国京都でも廃業する店が立て続けであることを知った。錦湯は名前の通り、錦市場のすぐ南にある銭湯で四条通に最も近い銭湯だと思う。ここでは脱衣所にジャズが流れていた。ご主人も番台にいる方というよりジャズ喫茶のマスターという感じ。脱衣場にジャズは少し個人的に違和感があったが、若い人が結構入りに来ていることがわかった。とにかく銭湯が絶滅することだけは避けてほしいものである。京都の銭湯とぼくの町の銭湯の水の違いに気づくことになったのだがその話題はまた。
実はそんな気分でマーラーの交響曲5番を立て続けに聴いた。今年10月にロシアのワレリー・ゲルギエフがマリンスキー劇場管弦楽団をつれてやってくる。そのチケット発売があって、大阪公演プログラムが、ストラヴィンスキー「火の鳥」1945年版とマーラー交響曲第5番なのである。買おうかどうか迷った。マーラーは昔それなりには聴いたけれど、結局自分にあまり合わない作曲家だとこのごろ思っていたからだ。(僕はブルックナー派である。)「火の鳥」も嫌いではないけれど、バレエの全曲版は演奏会ではなにか疲れてしまうとこの頃感じる。(バレエ版の方が楽器も多いのだ)それで、聴きに行く気分になれるかを見極めるために聴いたのだった。初めはクラウス・テンシュテットとロンドン・フィルハーモニーの評価の高いものを聴いてみたけれど、いまひとつしっくり来なかった。(これは多分にその日の気分に影響されていたかもしれない)その後バルビローリ盤を聴いてやっぱり行ってみようと思った。「火の鳥」はゲルギエフの全曲版を前から持っていてプログラムとは違うヴァージョンだが、これも期待できることを確信した。幸いチケットも手に入った。
そうであるからには、できるだけ楽しめるように準備をしようとスコアも買ってきた。マーラーはこの所本当にご無沙汰していたのだが、この5番は先にあげた他にカラヤンとバーンスタインのものを持っていた。カラヤンはあまりマーラー向きではないのではとかねがね思っていたが、いちおう全部聴いてみようと思い、三番目はカラヤンとベルリン・フィルのを聴いた。しかしこのあたりから変になってきた。この曲の第一楽章の送葬行進曲や二楽章の憂いに満ちたテーマは自分にとってこれまで魅力だったのだが、なぜかそれが耳から離れなくなってそれが妙に不愉快に響いてきたのである。
この不愉快さにはこのところの日常が影響しているのかもしれない。しかし、マーラーは偉大かもしれないが、何かそういう要素をかつてより感じていた。それに自分の青春の一番暗い部分をマーラーは思い出させるのである。確かにマーラーには他の人間に書けない天上的な楽想があったりする。有名なこの5番の四楽章、アダージェットはヴィスコンティの映画「ベニスに死す」に使われて以来、いろいろなBGMに採用されるようになって、このごろではサスペンスドラマでも流れたりする。(古谷一行さんの金田一耕介シリーズでも)少し使い古された感もある。この四楽章は好きなのだが、この5番の交響曲の中でどういうつながりがあるのか自分には今ひとつわからないのだ。カラヤンは第9番を録音するにあたってインタビューでこういっていた。「マーラーは崇高さと卑属な所の幅が極めて狭い。私はこれまでそれに適した音のパレットをもっていなかった」。崇高さと卑俗さの極めてせまい幅。まさにいいえて妙だ。その微妙さが自分には結局しっくりこないままだった。
マーラーは、アルマ・シンドラーという社交界の花と結婚したが、彼はやがて彼女の誠実さに猜疑心を持ち、苦しむようになる。アルマはマーラーと結婚する前に、画家クリムトと恋仲だったとか、彼女自身作曲を勉強していて作曲の先生だったツェムリンスキーとも恋仲だったともいわれている。マーラーと結婚した後は、建築家と交際し、マーラーを苦しめたらしい。アルマはマーラーの死後はその建築家グロビウスと結婚するが破綻。5回の結婚をし、最後はアメリカで生涯を閉じた。すざましい生涯ともいえる。苦しんだ頃のマーラーは、フロイトの診察をうけたといわれている。
確かにマーラーの音楽にはぼくの神経症的なものをえぐり出してさかなでする何かがある。これは、あくまでもマーラーと自分との個人的な関わりをいっているので、マーラーの音楽を否定するつもりは全くない。ここに書いているのはあくまでも僕の気分であって芸術の評価とは違うものである。むしろさかなでする何かがあるというのは何かを持っているのだ。ただ、この年になると無理して気分の乗らないものは聴かなくてもいいんじゃないかと開き直った気持ちになる。ある大家の先生もいっておられるように双極性障害の人は気分屋で生きないとだめらしい。
でも大阪公演のマーラーは楽しめなければ損なので、(こういうところはかなり貧乏性である)しばらく離れてまたすこしずつ接近していこうと思う。そうしているうちに新しいものが見えてくるかもしれない。そういう意味ではマーラーは評判が高いが不可解で副作用の強烈な薬に似ていると思う。立て続けに聴いたら毒なのだ。ケン・ラッセルというイギリスの奇才監督が昔、マーラーの伝記的映画(「マーラー」1974年)を撮ったが、これもどぎついものを見せられたという感じだった。ぼくは毒気に弱いのかもしれない。
このブログはこれからも映画や音楽のことに触れていくだろうが、評論家的に評価をくだすことは避けようと思う。ただ、大いに愛でることはしようと思う。それに毒についても少しばかりは書こうかと…。今日は毒の話になってしまった。(やっぱりこういう気分では否定的な方向に行ってしまったのだろうか?)
全く話題は変わるがこの間に関西方面に用事があって、京都の錦湯という銭湯に行った。銭湯王国京都でも廃業する店が立て続けであることを知った。錦湯は名前の通り、錦市場のすぐ南にある銭湯で四条通に最も近い銭湯だと思う。ここでは脱衣所にジャズが流れていた。ご主人も番台にいる方というよりジャズ喫茶のマスターという感じ。脱衣場にジャズは少し個人的に違和感があったが、若い人が結構入りに来ていることがわかった。とにかく銭湯が絶滅することだけは避けてほしいものである。京都の銭湯とぼくの町の銭湯の水の違いに気づくことになったのだがその話題はまた。
風邪をひいてしまったということもあり、先週からトーンダウンである。そもそも双極性障害のブログなのだから、いつかしばらくまったく書けなくなることもあろうかと思い、最初に「間欠泉のごときブログ」と書いた覚えがある。
実はここのところ足に怪我をして、そこをまた上から打って少々不自由なこともあった。そこに風邪がくると一挙にトーンダウンである。怪我の痛みも精神衛生上よくないことを改めて痛感している。(これにはロキソニンでどうにかしているが。)
1980年代から、あるいは経験的にはそれ以前から、風邪とうつ症状の関係は注目されていたようで、かつて古本屋で買った『躁うつ病の精神病理』全五巻の4巻目に上田宣子先生という方が、「『かぜ』とうつ病」という論文を書かれているのをかつて興味深く読んだ。基本的にかぜ症候群と抑鬱、うつ症状に身体的な次元においても似た部分があり、うつ症状をうったえる人の中に何ヶ月以上もかぜ様の症状が持続する例や、かぜをきっかけにうつが発症する症例などもあげられていた。
これは全く思い当たるところが自分でもあるのだ。これまでも確かにかぜ様の感染症をきっかけにうつ転したことが2回ほどある。(そもそも若い頃の、最初の発病が、サルモネラ感染症だった。)また、かぜをひいたときの気分がうつ病相のある部分とかぶっていて、後に回復した場合でも、うつ転かと思ったことが多々ある。しかも毎年のようにうつ病相を繰り返すようになったころから、37.5°ぐらいの発熱のかぜでもひどい重篤感みたいなものがあることが多くて、いったいこれはどうしたことだろうと当初は思った。もともと平熱が低くて35°代のこともあることも関係しているのかもしれないが、37.5度でも気分は38.5°なのである。この傾向は特にこのごろ顕著になった。
このごろの新書版のうつ病・双極性障害関係の本でもかぜ等の感染症にかかった時と、うつ状態の類似性を指摘するものがあった。詳しいことはわからないが、炎症をおこしたときのサイトカインという物質がなんらかの関係をもっているかもしれないというのである。SSRIが売り出される頃、「うつは心の風邪」というキャッチフレーズが有名になった。しかし、うつは単なる「心の風邪」ではなくて身体的にも大きなダメージを与えるものだろうという見解が多くの先生方によって語られている。しかも、うつ病相で神経細胞の壊死が起こっているらしいという事実は「心の風邪」では済まないものがある。抗うつ剤に神経再生作用があることが注目されているし、主治医のベル先生も診察でそのことをいわれていた。
そんなわけで休日も銭湯には行っていない。普通だったら大丈夫はずの湯冷めが大きなダメージになって、さらに熱でも出たら、うつ転の危険を高めるからである。通勤帰りも銭湯に寄る生活を続けていたから、なにかが途切れてしまったような感じだ。
この期間、ブログを書こうという気分がおこらなかった。どうにか今日は書いてみたが、あまり面白そうなものにもならなかった。すみません。
実はここのところ足に怪我をして、そこをまた上から打って少々不自由なこともあった。そこに風邪がくると一挙にトーンダウンである。怪我の痛みも精神衛生上よくないことを改めて痛感している。(これにはロキソニンでどうにかしているが。)
1980年代から、あるいは経験的にはそれ以前から、風邪とうつ症状の関係は注目されていたようで、かつて古本屋で買った『躁うつ病の精神病理』全五巻の4巻目に上田宣子先生という方が、「『かぜ』とうつ病」という論文を書かれているのをかつて興味深く読んだ。基本的にかぜ症候群と抑鬱、うつ症状に身体的な次元においても似た部分があり、うつ症状をうったえる人の中に何ヶ月以上もかぜ様の症状が持続する例や、かぜをきっかけにうつが発症する症例などもあげられていた。
これは全く思い当たるところが自分でもあるのだ。これまでも確かにかぜ様の感染症をきっかけにうつ転したことが2回ほどある。(そもそも若い頃の、最初の発病が、サルモネラ感染症だった。)また、かぜをひいたときの気分がうつ病相のある部分とかぶっていて、後に回復した場合でも、うつ転かと思ったことが多々ある。しかも毎年のようにうつ病相を繰り返すようになったころから、37.5°ぐらいの発熱のかぜでもひどい重篤感みたいなものがあることが多くて、いったいこれはどうしたことだろうと当初は思った。もともと平熱が低くて35°代のこともあることも関係しているのかもしれないが、37.5度でも気分は38.5°なのである。この傾向は特にこのごろ顕著になった。
このごろの新書版のうつ病・双極性障害関係の本でもかぜ等の感染症にかかった時と、うつ状態の類似性を指摘するものがあった。詳しいことはわからないが、炎症をおこしたときのサイトカインという物質がなんらかの関係をもっているかもしれないというのである。SSRIが売り出される頃、「うつは心の風邪」というキャッチフレーズが有名になった。しかし、うつは単なる「心の風邪」ではなくて身体的にも大きなダメージを与えるものだろうという見解が多くの先生方によって語られている。しかも、うつ病相で神経細胞の壊死が起こっているらしいという事実は「心の風邪」では済まないものがある。抗うつ剤に神経再生作用があることが注目されているし、主治医のベル先生も診察でそのことをいわれていた。
そんなわけで休日も銭湯には行っていない。普通だったら大丈夫はずの湯冷めが大きなダメージになって、さらに熱でも出たら、うつ転の危険を高めるからである。通勤帰りも銭湯に寄る生活を続けていたから、なにかが途切れてしまったような感じだ。
この期間、ブログを書こうという気分がおこらなかった。どうにか今日は書いてみたが、あまり面白そうなものにもならなかった。すみません。
ぼくは「家庭内免停」の処分をくらっている。つまり、免許はあっても、家族の合意で車は運転できないということである。これは、段の三十にあるADDと関連しているのだが、自損事故が多すぎて車がぼろぼろだったのを一挙に直したら恐ろしい値段がしたのが一つ。物損だが人様の車を傷つけて請求される金額が多かったのが二つ目。これらにごうをにやした妻が、「家庭内免停」を宣言したのだ。変な考え事をしながら運転している僕を見て、このままほっとくと取り返しのつかない事故がおこるやもしれないからそれを封じるというかなり予防的な措置でもあったと思う。
だからもう通勤にも車は使わない。自転車か、雨が降ったらJR線だ。他にも路面電車、バスなどいくつか手段があるのだが、いろいろ試した結果JRが一番よい。(地方のJRは本数が少ないのが欠点だけれど)だから基本的に自転車通勤なのだが、自転車通勤で発見したものは多く、健康にもいいのは確かだ。そのことに関しては喜びだった。体重も減ったし。
もう「家庭内免停」になって、6年ぐらいになると思う。地方都市では、自家用車を使わないとどうにもならないことがある。子供が生まれる前の1年は車なしにやっていたのだけれど、さすがに赤ちゃんがいると車がないとやっていけなかった。当時は近くにある店も限られていて、買い物も車が多かったと思う。
精神科の薬はだいたい注意書きに「車の運転や危険な作業はさけること」とあるが、地方都市のそういう事情を慮ってか、いままでかかった病院の先生で「車の運転はやめてくださいね」という方はいなかった。まあそれは薬剤師の仕事と考えて、特にいわないということもあったかもしれない。
しかし僕は向精神薬を飲んでいなかったとしても「家庭内免停」は避けられなかったような気がする。妻に、運転するんだったらこれからの事故修理費は全部お小遣いから出してねといわれたら、もう降参するしかない。それに一つ前のブログに書いたような自分の不注意傾向からすれば、もう緊急事態以外運転しない方がいいなということに自分なりの納得もあった。(「緊急事態」という精神状態で運転する危険のことを考えるとこれもやめた方がいい。だから遠出をして妻が運転に疲れた場合というのが例外条項だ。)いまのところ人身事故をおこしてないのが幸いといわねばならない。もう大きくなった子供たちも僕が運転するのは許さない。(妻のマインドコントロールにかかっている)
しかしこういうことを続けていると思わぬ落とし穴があった。
引っ越ししても免許の住所書き換えをしなかった。そうしたら、免許書き換えの通知が来なかった。さすがに「家庭内免停」でも免許返上の命令ではなかったので最初は免許書き換えにいっていたが、この前は、それを一年間違えていたのだ。引っ越しした後うつ病相になって住所書き換えに行くのも億劫だったというのもある。
これでは、一から免許取り直しか! あんなに屈辱的なクレペリン検査まで自動車学校でさせられてどうにか取ったというのに。書き換え不能ならもう免許失効のままでいいじゃないというのが妻の意見だった。しかしこれは「家庭内免停」とはわけがちがう。警察署に行ったが、元来は「うっかり失効」にも期間が過ぎているからだめなんですけどという結論だった。しかし特殊な事情に救われたのだ。
それは書き換え期間中に精神疾患があった場合だった。確かに、書き換えなければならない時期は毎年のうつ病相だった。その事情を改めて説明すると交通課で「それなら、そういう書類がありますから診断書を添えて運転免許センターに送って下さい。個別に判断してご連絡します」という返事をもらった。
書類には「様式 1.統合失調症、2,躁うつ病、3,その他の精神疾患」とあった。この診断書に主治医の診断と意見がいるのだ。その上、さらに現在の病状を示す診断書が別に必要だった。警察の様式のものは、5000円が必要だった。これは普通の診断書に比べて恐ろしく高い値段だが、そう決まっているのだろう。
主治医ベル先生は、それは不便ですねとすぐに診断書を書いて下さった。
これら書類を送ると、運転免許センターから電話がかかってきて、再交付が認められたということだった。ただし、これはあくまで「再交付」なのでぼくは、初心者と同じ扱いで初心者講習を受け、さらに運転するには初心者マークが必要なのだ。(「家庭内免停」だから関係ないけど…)だが、初心者講習が意外にも新しい道路交通法の説明があったりで退屈しなかったのはよかった。
まあそんな顛末だが、要するに「家庭内免停」ではすまなくて。本当の免許失効になりそうだったが、精神疾患という事情に救われたというわけである。
だからもう通勤にも車は使わない。自転車か、雨が降ったらJR線だ。他にも路面電車、バスなどいくつか手段があるのだが、いろいろ試した結果JRが一番よい。(地方のJRは本数が少ないのが欠点だけれど)だから基本的に自転車通勤なのだが、自転車通勤で発見したものは多く、健康にもいいのは確かだ。そのことに関しては喜びだった。体重も減ったし。
もう「家庭内免停」になって、6年ぐらいになると思う。地方都市では、自家用車を使わないとどうにもならないことがある。子供が生まれる前の1年は車なしにやっていたのだけれど、さすがに赤ちゃんがいると車がないとやっていけなかった。当時は近くにある店も限られていて、買い物も車が多かったと思う。
精神科の薬はだいたい注意書きに「車の運転や危険な作業はさけること」とあるが、地方都市のそういう事情を慮ってか、いままでかかった病院の先生で「車の運転はやめてくださいね」という方はいなかった。まあそれは薬剤師の仕事と考えて、特にいわないということもあったかもしれない。
しかし僕は向精神薬を飲んでいなかったとしても「家庭内免停」は避けられなかったような気がする。妻に、運転するんだったらこれからの事故修理費は全部お小遣いから出してねといわれたら、もう降参するしかない。それに一つ前のブログに書いたような自分の不注意傾向からすれば、もう緊急事態以外運転しない方がいいなということに自分なりの納得もあった。(「緊急事態」という精神状態で運転する危険のことを考えるとこれもやめた方がいい。だから遠出をして妻が運転に疲れた場合というのが例外条項だ。)いまのところ人身事故をおこしてないのが幸いといわねばならない。もう大きくなった子供たちも僕が運転するのは許さない。(妻のマインドコントロールにかかっている)
しかしこういうことを続けていると思わぬ落とし穴があった。
引っ越ししても免許の住所書き換えをしなかった。そうしたら、免許書き換えの通知が来なかった。さすがに「家庭内免停」でも免許返上の命令ではなかったので最初は免許書き換えにいっていたが、この前は、それを一年間違えていたのだ。引っ越しした後うつ病相になって住所書き換えに行くのも億劫だったというのもある。
これでは、一から免許取り直しか! あんなに屈辱的なクレペリン検査まで自動車学校でさせられてどうにか取ったというのに。書き換え不能ならもう免許失効のままでいいじゃないというのが妻の意見だった。しかしこれは「家庭内免停」とはわけがちがう。警察署に行ったが、元来は「うっかり失効」にも期間が過ぎているからだめなんですけどという結論だった。しかし特殊な事情に救われたのだ。
それは書き換え期間中に精神疾患があった場合だった。確かに、書き換えなければならない時期は毎年のうつ病相だった。その事情を改めて説明すると交通課で「それなら、そういう書類がありますから診断書を添えて運転免許センターに送って下さい。個別に判断してご連絡します」という返事をもらった。
書類には「様式 1.統合失調症、2,躁うつ病、3,その他の精神疾患」とあった。この診断書に主治医の診断と意見がいるのだ。その上、さらに現在の病状を示す診断書が別に必要だった。警察の様式のものは、5000円が必要だった。これは普通の診断書に比べて恐ろしく高い値段だが、そう決まっているのだろう。
主治医ベル先生は、それは不便ですねとすぐに診断書を書いて下さった。
これら書類を送ると、運転免許センターから電話がかかってきて、再交付が認められたということだった。ただし、これはあくまで「再交付」なのでぼくは、初心者と同じ扱いで初心者講習を受け、さらに運転するには初心者マークが必要なのだ。(「家庭内免停」だから関係ないけど…)だが、初心者講習が意外にも新しい道路交通法の説明があったりで退屈しなかったのはよかった。
まあそんな顛末だが、要するに「家庭内免停」ではすまなくて。本当の免許失効になりそうだったが、精神疾患という事情に救われたというわけである。
今日、ニット帽をなくした。これまで帽子をかぶる習慣はなかったのだが、冬に銭湯に通うようになってから、頭が冷えないように、この冬ニット帽をかぶるようになった。黒のニット帽なのだが、これが家族にはすこぶる評判が悪い。深めにかぶると人相が悪い、とか変だとか子供たちに言われている。ロシア軍特殊部隊、通称スペツナズがかぶっているのを見たことがあるので、自虐的にメタボのスペツナズという、いるかどうかわからないキャラクターを演じて、「今日もスペツナズをかぶっていくか」なんて言っていた。
このニット帽はこの冬2つめなのだ。昨年暮れに落としてなくした。今日なくしたのも、一回駅に落として保護されていたことがある。冬は、手袋、マフラー、それに帽子と携える物が多くて疲れてしまう。
ニット帽に限らず僕は落とし物忘れ物が多い。一番大きな代償を被った忘れ物は大学生の時列車に置き忘れて出てこなかったフランスクランポン社製のクラリネットだ。このごろはほとんど吹かないが、今持っているのは買い直した二台目なのである。
あとダメージが大きかったのは、この町に引っ越してきた当日に銀行でおろした十万円を自動支払機に置き忘れ、1分後に気づいてもどったが、出てこなかったというもの。それ以外にも、万年筆、パイプ、重要書類その他キリがない。それにこの頃なぜかキャンパスでなくしたものが出てこないことが多い。
仕事でも不注意が多い。特にやる気のない事務的作業ではまちがわないことがめずらしい。これはもう若い頃指摘されていた事だった。一応、18歳で自動車学校に通って免許をとったのだが、これが結構大変だった。僕の行っていた自動車学校では、クレペリン検査をやって、自動車運転適合度を自覚するということをやっていた。意味もない数を限られた時間で足していくのだが、これが自分にはできない。結果には、「あなたは、注意力に問題があります。気になっていることがあるときは、運転を控えましょう」と書かれていた。
数学は嫌いではないのだが、計算が苦手だった。化学とかは変な数が出れば、なにかおかしいと思って見直せるのだが、数学はそういう要素が少ない。どこかでマイナスを落としていたりする。だから代数的な分野、特に式の整理(昔の数学Ⅰの最初でやるような部分)の点が恐ろしく悪かった。むしろ図形やグラフが関わってきた方がイメージしやすくて間違いもすぐ見抜ける。数学Ⅰと微積分や数学Ⅱの点の差に僕の担任は唖然としていた。(当時の数学Ⅰはいまとコンテンツが違う。微積分は後で習う考えを使うとグラフで考えられる)そのくらい計算が下手なのである。
いまでも計算しなければならないことが生じると恐怖感にさいなまれる。電卓を使っても入力をあやまるから、数が合わない。昔、高校で適職検査をやって、一番なってはいけない職業が銀行員、行ってはいけない学部が経済学部だったのを覚えている。だれも僕に銀行員をやれとはいわないだろうが、もしやっていたらおおかた計算があわなくて帰るのは夜中の2時だろうと思う。
それでもどうにか生きてきたのだが、こういうのが病的になるとADD(注意欠陥障害)とこの頃は呼んでいる。より話題になっているのは、子供のADHD(注意欠陥多動性障害)だが、僕には多動性の Hyperactivity はあまりないから、ADD(Attention defect disorder)の傾向というのが適当だろう。いくつかのサイトで自己チェックができる所があるが、やってみると「その傾向あり、医師に相談しましょう」が多い。
一回主治医ベル先生にも話題にしたことがあるのだが、「この年までどうにかやってきたんだからそこまでではないでしょう」といわれた。しかし過去の武勇伝?はそれ以上お話ししなかった。双極性障害とADHDは併存していることが多いといわれている。まあ、こういうのも多分に程度の問題だろうが、とにかく正確な仕事が絶対的に求められてやり直しがきかないような職業ではやっていけないのは確かだ。
事務的な作業が生じてもそれがメインでなくてやっていけるこの仕事でどうにか生きている。間違いが致命的なものには手を出さないことをそれなりに短くはない人生経験から学んだつもりだ。(もし音楽の道に進んでも演奏家はだめだったと思う。)
このニット帽はこの冬2つめなのだ。昨年暮れに落としてなくした。今日なくしたのも、一回駅に落として保護されていたことがある。冬は、手袋、マフラー、それに帽子と携える物が多くて疲れてしまう。
ニット帽に限らず僕は落とし物忘れ物が多い。一番大きな代償を被った忘れ物は大学生の時列車に置き忘れて出てこなかったフランスクランポン社製のクラリネットだ。このごろはほとんど吹かないが、今持っているのは買い直した二台目なのである。
あとダメージが大きかったのは、この町に引っ越してきた当日に銀行でおろした十万円を自動支払機に置き忘れ、1分後に気づいてもどったが、出てこなかったというもの。それ以外にも、万年筆、パイプ、重要書類その他キリがない。それにこの頃なぜかキャンパスでなくしたものが出てこないことが多い。
仕事でも不注意が多い。特にやる気のない事務的作業ではまちがわないことがめずらしい。これはもう若い頃指摘されていた事だった。一応、18歳で自動車学校に通って免許をとったのだが、これが結構大変だった。僕の行っていた自動車学校では、クレペリン検査をやって、自動車運転適合度を自覚するということをやっていた。意味もない数を限られた時間で足していくのだが、これが自分にはできない。結果には、「あなたは、注意力に問題があります。気になっていることがあるときは、運転を控えましょう」と書かれていた。
数学は嫌いではないのだが、計算が苦手だった。化学とかは変な数が出れば、なにかおかしいと思って見直せるのだが、数学はそういう要素が少ない。どこかでマイナスを落としていたりする。だから代数的な分野、特に式の整理(昔の数学Ⅰの最初でやるような部分)の点が恐ろしく悪かった。むしろ図形やグラフが関わってきた方がイメージしやすくて間違いもすぐ見抜ける。数学Ⅰと微積分や数学Ⅱの点の差に僕の担任は唖然としていた。(当時の数学Ⅰはいまとコンテンツが違う。微積分は後で習う考えを使うとグラフで考えられる)そのくらい計算が下手なのである。
いまでも計算しなければならないことが生じると恐怖感にさいなまれる。電卓を使っても入力をあやまるから、数が合わない。昔、高校で適職検査をやって、一番なってはいけない職業が銀行員、行ってはいけない学部が経済学部だったのを覚えている。だれも僕に銀行員をやれとはいわないだろうが、もしやっていたらおおかた計算があわなくて帰るのは夜中の2時だろうと思う。
それでもどうにか生きてきたのだが、こういうのが病的になるとADD(注意欠陥障害)とこの頃は呼んでいる。より話題になっているのは、子供のADHD(注意欠陥多動性障害)だが、僕には多動性の Hyperactivity はあまりないから、ADD(Attention defect disorder)の傾向というのが適当だろう。いくつかのサイトで自己チェックができる所があるが、やってみると「その傾向あり、医師に相談しましょう」が多い。
一回主治医ベル先生にも話題にしたことがあるのだが、「この年までどうにかやってきたんだからそこまでではないでしょう」といわれた。しかし過去の武勇伝?はそれ以上お話ししなかった。双極性障害とADHDは併存していることが多いといわれている。まあ、こういうのも多分に程度の問題だろうが、とにかく正確な仕事が絶対的に求められてやり直しがきかないような職業ではやっていけないのは確かだ。
事務的な作業が生じてもそれがメインでなくてやっていけるこの仕事でどうにか生きている。間違いが致命的なものには手を出さないことをそれなりに短くはない人生経験から学んだつもりだ。(もし音楽の道に進んでも演奏家はだめだったと思う。)
