　「ミレーユ、大丈夫か？会社から連絡があったから駆けつけたんだけど。」

　「大丈夫よアンドレ。大学もずうっと休講で、少し話がしたかったの。それとちょっぴり部屋の掃除を手伝って欲しくて。」

　それを聞くと少しほっとしたアンドレは、椅子に腰かけているミレーユ＝ロマニエにココアを差し出した。

ミレーユ=ロマニエはパリの大学に通う女子大生。彼女の実家は、アンドレと同じ南フランス。

７年前の秋、彼等がすむ南仏を大型台風が襲った。一年中温暖な地方を突然襲った災害に住民達は困惑し、地域の教会に避難した。

　その頃、パリのアパルトマンに下宿していたアンドレは、休みを利用して実家に帰っていた。早くに父を亡くしたアンドレは、奨学金とアルバイトでパリ市内の大学に通っていたが、たった一人で南仏の香水工場で働きながら暮らしている母が心配で、時々都会の菓子を土産にふらりと里帰りしていた。

そんな矢先の、大型台風だった。「大丈夫よ、この家は台風位では壊れないから。」とコロコロと笑う母を説得し、アンドレは母と共に教会へ避難した。

　温暖な気候に慣れっこになっている住民達は皆、不安を隠せない。中でもブルブルと震えているミレーユがいた。怖くて目に涙をためている彼女にアンドレは「大丈夫だよ。」と声をかけ、パリの話や、大学の面白い話をしながら彼女を元気づけた。彼女の父はレスキュー隊員、母は看護師という立場上人命救助が優先。親から離れ、祖母と共に教会に避難していた彼女はたちまちアンドレになついてしまった。

　当時1３歳だった彼女はアンドレと連絡先を交換し、アンドレがパリへ戻った後も、連絡をしてくるようになった。一人っ子の彼女にとって、最初は優しい兄のような存在・・・だったのかもしれない。そして「パリへ出たい。」という気持ちがだんだん膨らんでいったのだろう。

　「アンドレ！私パリの大学に行く事になった！」弾んだ声で連絡してきたミレーユの知らせをアンドレは心から喜んだ。すでに社会人だった彼は、こじゃれたレストランでミレーユの入学を祝ってくれた。その頃すでに、ミレーユの心の中で、アンドレはお兄さんから「好きな人」へと変貌していた。

　アンドレは薄々彼女の気持ちに気づいていた。でも9歳も年の離れたミレーユは、避難所で大泣きしていた可愛い子供で、アンドレにとっては年の離れた妹だ。そのうち、大学でボーイフレンドでもできれば、俺の事など忘れるだろう、と軽く考えていた。

　ミレーユは勉強の妨げにならぬ程度にアルバイトをし、勉強も大学生活も何とかうまく両立していた。　　休日には何かと理由を付けてアンドレに電話をしてきた。

「アンドレ、あの映画が見たいの。ねえ、一緒に行って。」

「いいけど、友達と行かないの？これ、どうみても俺みたいなおじさんが見る映画じゃないぞ。」

「友達はこの映画好きじゃないみたい。ねえ、お願い！」

こんな調子で結局はアンドレが折れる。映画の後は、食事をしながら彼女の学生生活を聞いてあげる、というのがほぼ月一の習慣になった。

　本当はミレーユを映画に誘う友達も、彼女をデートに誘いたい男子学生もたくさんいた。でもミレーユの心にはアンドレがいた。

　こんな二人の緩々とした付き合いが１年ほど続いたある日。

「スケートリンクに行きたい。」と言うミレーユのおねだりにアンドレはいいよ、とスケートリンクへ連れて行く約束をしていた。でも・・・・。

「ごめんミレーユ。仕事の都合で今日は行けなくなっちゃった。また次の機会にでも。」

「ええ？すっごく楽しみにしていたのに。あそこのホットドッグが美味しいって友達が話してた。」

「すまない。どうしても抜けられないんだ、ごめんよ。」

「ふ～ん。じゃあしょうがないな。でも今度、付き合ってね。」

　本音を言うと、その日の「仕事」と言うのは気が重い「接待」だった。先方は会社の大口取引先の女社長。大変なやり手であると同時に若い男が大好物、という極めて危ない人と聞いている。その社長が「パリに新しくオープンしたホテルのレストランで会食をしたい。せっかくだから新進気鋭の男性を何人か連れてきて。」と実にやっかいな申し出をしてきたそうだ。そして一番に指名されたのがアンドレだった。

　メインディッシュも終わり、デザートが届いた時、件の女社長がアンドレの膝にフワリ、と手をかけた。

「この後、何か予定はあるかしら？もう少しお酒を付き合ってくださらない？」

やっぱりそうきたか・・・アンドレは何かしら断る口実を頭の中で考えた。しかし…1杯だけ付き合って

上手くかわせる自信はある。ここで怒らせては色々と不都合だから、とアンドレはニッコリと微笑み、

「それではあちらのバー・カウンターででも？」

彼の囁きに彼女は頬を染めた。

ゆったりしたランチが終わってからのバー・カウンターで、客は少なかった。アンドレはウイスキーをダブルで、彼女はカンパリを注文し、なんてこと無い世間話をしながら談笑した。あわよくば、とトロンとした眼差しを向けてくる彼女を何とかかわし、ようやく解放されたのは午後6時過ぎ。

　そうだ。ミレーユに詫びの電話を入れておこう。拗ねている様なら晩御飯でもご馳走してあげようかな。そう思った彼は彼女にラインをした。

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　　ギプスで足を固定され、ベッドに横たわる痛々しい姿のミレーユの傍らで、アンドレは呆然と

していた。

俺が、約束を守っていれば。

俺がもう少し早く切り上げて、ミレーユに連絡をしていれば。

頭を抱えるアンドレに、ミレーユは弱々しく微笑んだ。「アンドレが悪いわけじゃないの。私ね、一人でスケートリンクに行って、滑れるようになってアンドレを驚かせてやろうと思ったんだ。やっぱりアンドレに教えてもらうまで待てばよかったんだね。ごめん心配かけて。」

　この日、ミレーユは一人でスケートリンクに行った。スケート位すぐに滑れるようになるわ、と信じ込み、手すりにつかまりながら徐々に滑り始めた。「何だ、簡単じゃん。」

そう思った時、他のスケーターと衝突した。相手が大柄な男性で、超初心者のミレーユはひどく飛ばされてしまった。

　歩行に少々の後遺症が残るかもしれない、と医者に告げられた。

「何か・・・ほしいもの・・・・ない？」アンドレはミレーユに聞いた。

「う・・・ん。ごはんは何でも食べて言いそうだから・・・ホットドッグが食べたいな。今日、アンドレと食べたかったんだ・・・スケートリンク場で…美味しそうだったんだ。」

そこで初めて、ミレーユはアンドレに涙を見せた。

　それからほどなくして、アンドレは会社を辞めた。何かと気が利く性格で器用な事から、以前から興味のあったハウスキーパーの仕事に移ったのは、何かミレーユの力になれれば、という気持ちがアンドレの中にあったからだ。

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「アンドレゴメンね。他の仕事が今日、入っていたんでしょう？」ミレーユは小首をかしげた。

「うん、まあね。でもちゃんと連絡を入れておいたから大丈夫だよ。君がそんな心配しなくていい。」

てきぱきと家事をこなしながら、アンドレは今朝、オスカルに電話を入れた時の事を思い出していた。

「アロー。あ、アンドレ？」何だか弾んだ声の彼女。

「おはようございます。申し訳ありません。今日急用ができてしまい、午前中はそちらに行けないんだ。」

「・・・・・ア、そうなの？うん…無理しないで。部屋もおかげさまで片付いているし、あなたが作ってくれたストック料理をいただいてる。」そう言う割には、少し元気がない彼女の声がきになった。

「本当に申し訳ない。契約書には1週間ってなっているから1日分返金になるか、1日延長で・・・。」

「本当に大丈夫！」彼の言葉を遮るように、オスカルは言った。

そしてすぐに、電話は切られた。オスカルの方から。

私のハウスキーパー君⑤