コルベール食品社長室にて。

　社長ゾフィーは、息子フランツに詰問していた。

　「フランツ、アンドレは帰ったわ。一体何を考えてるの？ママにも話せない事なの？」

　「今は聞かないで、ママ。ママだって、彼の事はお気に入りじゃないですか。」

　従業員約500人をまとめ上げる健康食品会社を女手一つで築いたゾフィー＝コルベールは、初老ながらも仕事をしてきた女の美しさがあった。一人息子のフランツがまだ1歳の頃、主人が交通事故に遭い突然未亡人になってしまったゾフィーは、宅配の栄養ドリンク、夜のビル掃除など職を掛け持ちしながら懸命に働いた。もともと美人で才覚のある彼女は所属していた健康食品会社に正社員としてスカウトされ、やがてそこで培ったノウハウを生かして女性のアンチエイジングを主軸にした健康食品会社を立ち上げた。

美への追及は年を追うごとに増していくと見え、仕事に没頭するあまり肌がささくれがちな女性や、子供を育て上げ多少金銭にゆとりのある女性達の支持を受け、彼女の会社の売り上げは右肩上がりを維持している。貧乏暇なしのどん底時代も味わったゾフィーは情に厚く、従業員にも慕われていた。

　そんな彼女も、後悔することがあった。幼いフランツを実母や保育園に預けながら懸命に働いてきた。その負い目があってか、余裕がある限り、彼の欲しいものはすべて与えた。自分は日切れのパンをかじっても、子供には焼きたてのクロワッサンを与えたかった。

彼が学校に上がる頃、多忙ながらも彼女は成功への道を確実に歩み始めていた。従って彼女は息子が望むまま、何でも買い与えた。本当に彼に与えるべきは、多忙な中でのほんの少しの会話する時間だったんだ・・・と気づいた時は彼がすでに思春期を迎えた頃だった。彼が小さな非行を繰り返しては、彼女はその尻拭いを金で解決し、泣いた。

大学に進学したものの中退した息子をゾフィーは自分の会社へいれた。何とか自分の手元で、

普通の社会人に育て上げることが自分の責務だと思ったからだ。

成長するにつけ、急逝した夫に似てきたフランツは、外見的にはとても誠実なサラリーマンとなった。

仕事ぶりは、可もなく不可もなく。社長の御曹司ということもあってか無難に毎日が過ぎた。高級スーツを・・・無論、支払いはゾフィーのカードで支払われているのだが・・・を着こんだフランツは、母には孝行息子を演じながら、分不相応な店に女の子を連れて行ってはその夜限りの快楽を楽しむことがしばしばだった。そんなフランツがナンパ目的で参加した婚活パーテイで、オスカルに出会った。

　今までの女の記憶なんてすぐに消し飛んだ。一目で恋に堕ちた。どんな手を使っても、彼女を手に入れようと決めた。だって、小さい頃から手に入らないものはなかったから。

　金をばらまき、興信所を使い、オスカルの身辺を調べた。徹底的に。そして、

彼女が勤めている会社、入社時間、お気に入りのカフェ、帰宅手段。

彼女に「アンドレ」という手ごわい虫ががついているという事を知った。

まず悪い虫から引き離そう、それからゆっくり彼女を手に入れればいいさ。

アンドレが「エトワール」の店長だという事を知って、フランツはほくそ笑んだ。「エトワール」は母、

ゾフィーがお気に入りの高級カフェだという事を、彼は知っていた。

　仕事に明け暮れ、女ながらに会社をまとめ上げる彼女の唯一の道楽は、趣味のいい店で美味しいお茶を飲みながら贅沢なお一人様時間を過ごすことだった。パリ中の高級カフェは制覇したつもりだった。

でも、エトワールに入った時の、ふんわりとした居心地の良さに彼女は惹かれた。

　若く活気のあるギャルソンが多いのに、雰囲気はなにかしら懐かしいパリの匂いがした。店長のアンドレが淹れてくれるお茶は疲れをほぐしてくれる美味さだった。彼は不思議と、放っておいてほしい時と少し会話をしたい時を見極めることに長けていて、来店するといつも、柔らかな笑みで迎えてくれた。

　いい年をして・・・そう自分に言い聞かせながら、ゾフィーは乙女のようにときめく胸を抑え、アンドレの働く姿をそうっと盗み見ていた。

　そんな母の、秘めたる想いを・・・恋などと言えるものではないのだが・・・フランツは知り、利用しようとした。

　「ねえママ。エトワールの店長と、プライベートで話をしたいって思わない？」

　「ええ？何を言ってるの、フランツ。エトワールは私の大事な癒しの場所よ。そんなこと望んでいないわ。」

　「ママだって、少しはそんな想いがあったっていいじゃない？今まで僕を育ててくれて会社を育ててくれてさ。ちっとも悪い事じゃないよ。それにね。」フランツは小さい子供の様に、ゾフィーに耳打ちした。

「僕の知り合いでエトワールの常連がいるんだけど、ママと話をするときのアンドレって片思いの少年みたいだって言ってたよ。」

常識で考えて、そんな偶然が有るわけはない。でも、もとより息子に甘く、今まで面倒を起こしていた息子からの感謝の気持ちがゾフィーの理性を揺るがせた。

「まあ僕に任せておいて、ママ。明後日、アンドレはママの執務室を訪れるから。お茶でも飲んで楽しい時間を過ごして。」

フランツは金でどうにでも動くガールフレンドをエトワールに向かわせた。

彼女はバッグに水がかかったと泣き出し、店長直々に謝りに来るように喚き散らした。

私はあの、コルベール食品の社長秘書兼一人娘だ、会社の執務室に来て。このバッグは苦労して手に入れたブランド品だが、挨拶に来ればチャラにしてあげる、と。

この、蓮っ葉な女の名演技にギャルソンのフランソワはまんまと騙され、アンドレに連絡してきた。

　アンドレは店で売っているオリジナルスイーツを手土産に、コルベール・ビルへと単身謝りに（？）向かった。

　胸がときめきながらも、突然通されたアンドレにゾフィーは改めて驚いた。でももっと彼女を驚かせたのは、彼が直角と言っていいほど頭を下げ、自分に言った言葉だった。

「昨日は店の者がお嬢様のバッグを汚してしまい、大変申し訳ございませんでした。」

え？お嬢様？私にはあの不甲斐ない息子しかいないのだけれど。

「あ、あのね、アンドレ。貴方が来てくれたのはとても嬉しいのだけれど、何のお話かしら？」

こちらも驚きながら、アンドレは昨日からの事の顛末をゾフィーに話した。息子の意図はわからずとも、

とんでもない茶番劇に巻き込んでしまったアンドレに、彼女は深く詫びた。

アンドレは微笑みながら、頭を下げるゾフィーに「お気になさらないでください。何事もなくて安心しました。」と執務室を後にした。

ゾフィーが勧める珈琲は、多忙を理由に丁寧におことわりした。

アンドレが出ていく後姿を、じっと見据えていたフランツは、ある場所へ連絡をした。

アンドレの部屋にて。

たかだか、1分くらいのことだが、オスカルはアンドレの抱擁を受けて、世界で一番幸せな女になっていたが、さすがにマリが声をかけてきた。

「ねえアンドレ。お取込み中だけど、その上着を何とかしなきゃ。」その冷静な言葉に、オスカルとアンドレはハッとして少し離れた。抱擁を解かれたオスカルは彼の背に回していた自分の両掌を見て、愕然とした。泥に血が混じっている。オスカルは小さく叫んだ。「アンドレ、どこか怪我を？」

ユキも心配して、にゃあにゃあと鳴き、アンドレの周りをぐるぐるとまわった。　

「うん、実は・・・。」アンドレは事の顛末を離し始めた。そして執務室を出た後の、衝撃的な出来事も。

コルベール・ビルの正面玄関を出てビル沿いに歩き始めた時、頭上から何かが落下してくる気配を感じた。それをよけるのに夢中で、街路樹が植えられている埋め込みに強く背中を打ち付けた。

「ガッシャーン！！！」

パソコンが普及する前、自分が子供の頃に使われていたであろう仏文タイプライターが街路に叩きつけられている。アンドレはビルの上を見上げた。ビルの窓は、何事もなかったかのように閉められている。あれがもしも、直撃していたら・・・アンドレはゾッとした。

「ひどい、誰がそんな事！」「ねえアンドレ、被害届をだすべきよ。」オスカルとマリは口々に怒りを口に出した。でもアンドレは大丈夫だよ、大袈裟にすると、エトワールにも迷惑をかけてしまうから、と笑った。

「いわばこの泥は、俺を守ってくれたんだ。その時に少し擦りむいたんだよ。」

その時、オスカルの記憶の中のどす黒い何かが頭をもたげた。コルベールビル・・・コルベール食品・・・

一代で会社を築き上げた女性ゾフィー・・・。

「私、憧れているのよ、ゾフィー＝コルベールに。あんな女性実業家になって見せるわ。」とジャンヌが言っていた。それから何気にゾフィー＝コルベールを検索したことがある。

・・・・息子は一人。名前はフランツ＝コルベール。年齢は・・・・。

オスカルは小さく悲鳴を上げると、その場に崩れ落ちた。

「オスカル！どうしたんだ！」「まず、奥のベッドに連れて行きましょう。」「お姉ちゃん、大丈夫？」

大事な人達の声だけが聞こえるが、オスカルの意識は混とんとしていた。

続く。

手持ちのイラストから、一枚。

数年前の同人誌に掲載したカラーイラストです。

夢の中で恋をして⑨