７月の夜明けは早い。

まだみんな寝静まっているはずなのに、空は極上の絵の具をたらしたかのように美しく儚い。

使用人の習性か、はたまた生真面目な彼の元来の性格か、すでに目を覚ましていたアンドレ・グランデイエは寝乱れた極上のシーツから身を起こし、シャツを羽織ってフランス窓越しに空を見上げた。

「晴れてる・・・んだな。」今はもう、大分弱っている視力の彼は、空が青いという事が確認できたことに安堵した。そしてたった今、自分が起き上がった寝台に近づくと、スヤスヤと寝息をたてるオスカルの

裸の肩にそうっとブランケットをかけた。そして、親指のはらで、彼女の目の下に触れた。

濡れている・・・。こんな時まで、俺と同じなんだな。

アンドレがお屋敷に引き取られてから１年位経った頃、オスカルとアンドレはお屋敷からさほど遠くない小川に度々遊びに来るようになっていた。子供達だけで遊びに来れるそこへ行くときだけは、やさしい侍女のエリザは二人にこっそりお弁当を持たせてくれた。

　どんなに一緒に遊んでいても、お食事は別です、アンドレは使用人ですからね、といつも説教をたれるばあやもここにはいない。オスカルはこの「遠足」が何よりも楽しみだった。

小川の周りには、母上が育てている花とはまったくちがう、逞しくて可憐な野の花が季節ごとに二人を迎えてくれた。名前はわからないけれど、流線型の美しい魚が、子供達を引き連れて川を泳いでいく様を飽きずにいつまでも見ていられた。

エリザお手製のサンドイッチと林檎、小川のきれいな水を腹におさめると、二人は柔らかな叢の上に寝転がって、空を見上げた。

青い空の中に、白い雲が様々な動物の形や、パンの形をなして、浮かんでいる。

「きれいな空だね、オスカル。」

「うん、そうだな。小川の水は透明なのにこんなに青くてきれいなのは、きっと空の青い色がうつってるんだ。ねえ、アンドレ。どこまで青い空って、続いているのかな。」

「ずっと・・・・ずっと向こうまで？わからないよ、俺オスカルみたいに頭よくないし。」

「そんなこと、言うな。僕もおまえも同じだぞ。実は家庭教師の先生と、この前喧嘩したんだ。」

「な、なんで？」

「この世には、身分というものがあるって言うんだ。つまり僕は貴族の子供で、まちなかやはたけで働いている人達とは生まれた時から人間が違うって言うんだ。そんなのおかしいだろう？」

アンドレはオスカルが頬を紅潮させて話すのをいささか驚いて聞いていた。

　確かに・・・マロンからはさんざん言い聞かされている。

オスカル様は貴族のお嬢さま、お前は平民の子だ。こんな立派なお屋敷で働かせていただけるなんて

幸せな事なんだからね。くれぐれも失礼があってはいけないよ。だからごはんも、一緒に食べちゃいけないんだよ・・・。

　アンドレはなんとなく「オスカルは特別な身分の子供だ。」という認識だけはもっているつもりだった。

そしてそのように納得しようとしていた。でも目の前のオスカルは、自分より一つ年下なのに大人のそんな考え方に真っ向から対決している。

やっぱりオスカルはすごいや。

「ん？何か僕の顔についてるか？」

「ううん。オスカルってかっこいいと思ったんだ。そんな風に先生と喧嘩できてさ。自分の考えをキチンと言えて。」

「だっておかしいじゃないか。僕とお前、こんなに仲良しで、一緒にいて楽しくて何が『人間が違う。』だよ。今度、父様にも聞いてみよう。」

アンドレはその時・・・、本能的に、話を逸らせようと思った。理由はわからないが、オスカルを悲しい事から守らなくてはいけないと体の内側から気持ちが湧き出た。

「ねえ。それならさ、オスカル。空を見て。お金持ちが見てもそうじゃない人が見ても、空はきっと青くて綺麗なんだ。きっと僕達が大人になったって変わらないよ。そう思わない？あ、あの雲ウサギみたいだ。

見てごらんよ。」

アンドレが指さす先には、ふんわりと耳がにょっと二本突き出ているみたいな白い雲がぽっかり浮かんでいる。

「アンドレ、すごいや。」オスカルは嬉しそうに言った。「そんなこと、考えてもみなかった。本当だね、

雲がウサギみたいで可愛いや。」

さっき、可愛い顔を曇らせていた少女は、その年頃にふさわしい無邪気な表情で少年と共に空を見上げた。

「アンドレ、僕は大人になっても、お前と一緒にここへ来たり、何時までもお空を見上げたりしたい。」

「うん。僕もそうしたい。」

「約束だぞ。」

そして二人は、木々の緑で縁取られた絵画のような青い空と雲を下から眺めながら、とりとめもなく笑いあい、喋りあった。

幼かったアンドレがつぶやいたように、

二人が思春期をむかえ、楽しいことのみならず、苦難に立ち向かう時も、

二人が大人になり、それぞれが恋の甘美さと、辛さを味わっていた時も、

見上げる空は、あの頃と同じように

時に抜けるように蒼く、

時に泣き出しそうな雨雲をたたえ、

晴れた夜は、満天の星をたたえていた。

やがて二人は、互いが片時も離れることができないほどに愛しあうようになった。

それでも、

愛する言葉を囁きながら満天の星を見ることはあっても、朝を二人で迎えることはなかった。

　今日はパリ出動の日。もしかすると…いや、かなり高い確率で二人はもう、ここには戻ってこれないだろう。自分達の行く末は少しも見えていない。だけど、これだけは二人とも信じていた。

自分達は決して卑怯者にならないこと。

死がふたりを分かつまで離れることはない、という事を。

それゆえ昨夜、二人は夫婦になった。甘く奪い合い、笑いあい、その束の間で、幼い頃の思い出が

自然とお互いの口から紡がれていった。そして、泣いた。

明け方を迎える前の夜の闇が僅かに薄らいでくるころ、二人は眠りについた。

そして、先に起きたアンドレはすでに晴れ渡る空を見ていた。

「アンドレ？もう起きたのか？」薄く開いた瞼の下から、サファイアブルーの光がみえる。

「もう起きたの？もう少し眠った方がいい。」先ほど彼女の涙を拭いてやった夫は、妻の体を思って声をかけた。今日これからは、男ですら倒れ込むであろう、激動に身を投じなくてはならないのだから。

「ううん。お前のそばへいきたい。」そう言いながらオスカルは、昨夜アンドレが椅子の上に置いてくれた

ブラウスを羽織ると寝台から降り、アンドレと共に、窓辺に佇んだ。

「なんて綺麗な、青空なんだろう。」オスカルは目を細めながら言った。

「本当だな。きっと、神様が俺達を祝福してくれているんだ。」

「そうだね・・・・でも。」オスカルの肩が震える。「もっと早く、お前との愛に気づいていたら、もっと

幾度もこの空を見られたのに。」

「オスカル、泣くな。」

「ごめん…アンドレ。あの時約束したのに。いつも一緒に空を見ようって言ったのに、私は。」

「何を言ってるんだ、オスカル。俺達はもう、夫婦になったんじゃないか。これからはずっと、同じ空を

一緒に見よう。」

「うん・・・。」

それ以上、言葉はなく、オスカルはアンドレの胸で静かに泣いた。

命をかけて守るよ、オスカル。二人でずっと、青い空を見られるように。

アンドレは胸にすがるオスカルを両手で固く抱きしめた。

FIN

あの空を共に見よう。