コントラクト・キラー('90。フィンランド・スウェーデン)

 

 

 

 赤い花

 

 

 花は、既に咲いている。自らの胸の奥に。日々の過酷さのせいで、彼はそこに花が咲いていることを、自覚することすら出来ないようだ。

 だからと言おうか、胸の奥に花を咲かせている人間が、自分一人ではないことも、わかっていなかった。

 彼は、あまりにも一人だった。

 

 英国の片隅、うらぶれた街角で、アンリという男はひっそりと、それでも真面目に生きていた。

 誰ともうまくつき合うことが出来なかった。フランスから移って来た彼だが、フランスでも、周囲とはうまくいかなかった。この国では、名前さえ、ちゃんと呼んでくれる人間が、少なかったのではないか。彼の名前アンリを、英語読みのヘンリーと呼ぶ人間がいるのだ。

 彼は、十五年も務めた職場を、人員整理のために、突然解雇されてしまう。冷酷に、嘘で塗り固めた優しさしか見せてもらえずに。

 まだ彼が、自分の机を前に、座っているというのに、その机を、彼は他の人間に運び去られてしまう。そこには誰ももう座っていないかのように。そこには、誰の感情ももう存在しないかのように。この場面は、フィクションの中の、少し誇張した表現、演出なのだということなのかもしれないが、この男が空恐ろしいほどに、この職場で冷遇されていたことを、端的に、見事に、示しているように思える。

 職を失った彼には、中年というものに手が届いて来ているようにも見える、その年齢も、重くのしかかって来ていたのかもしれない。

 アンリは、死を試みる。しかし、失敗した。方法を変えてもう一度試みるが、やはり失敗する。

 彼は、新聞の記事から、殺し屋を雇うことを思いつく。殺し屋に、自分を殺させるのだ。

 追い詰められた人間には、普通なら現実味をあまり感じないような事柄にも目がいってしまうようなところが、もしかしたらあるのかもしれない。殺し屋に自分を殺させることだけが、この時のこの男には現実だったのだと思える。

 

 殺し屋の組織と契約(コントラクト)を結び、彼は殺し屋が現れるのを待つ。ふと、住まいの向かいにある酒場に、彼はいく。

 普段酒が飲めない彼だが、もう怖いものがないということなのか、酒をあおる。煙草も吸う。そして、女性にも声をかけた。

 こんな暗い穴を見下ろすような暮らしの中でも恋はするものなのだ。花を売るために店に入って来た、マーガレットという女性に彼はビールをおごる。

 この時の彼は、身体が随分強張っているように見える。口調も、とても強いものに思える。彼女との出会いが、相当衝撃的だったのだということを伺わせる。つまり、彼女は彼の心を激しくつかまえたのだ。

 彼女は、警戒しながらも彼に惹かれるものを感じているようだ。

 

 彼女も、決して心満たされる暮らしを送っているようには見えない。孤独に魅入られたような寂しさを漂わせている。歳は、アンリより少し下かもしれない。

 

 アンリが彼女に惹かれたのは、自分と同じ孤独の匂いを彼女に感じたからだろう。彼女が、自分と同じものを抱えているような気がしたからなのではないかと思える。

 彼女は、花を売っているが、その胸の奥にも赤い小さな、優しい花を咲かせている。彼女は、花の美しさを知っている。目の前のくたびれた男の中にも、美しい花が咲いていることを感じとることが出来る。

 アンリも、貧しい暮らしの中で、小さな赤い花を育てている。心が、すさんだもので占められてしまいそうな暮らしの中で、彼は、屋根の上でけなげに咲く小さな花の鉢植えに、夜毎、水をやる。その姿は素朴でもあり、せつなさをたたえてもいる。

 彼にも花を愛する心がある。花の中に安らぎを見出す、心の素直さがある。彼は、マーガレットに会った時、彼女の持つ赤い花の向こうの、彼女の胸の中に、自分と同じ(素直な柔らかい)ものを見たのではないか。二人は、それぞれに、優しい素朴なものを抱え持っているようだ。

 だが、彼らの胸の中に咲く花は、誰かに十分に愛されることなどなかったのだろう。アンリが夜毎花に水をやるのは、その花を愛す心からであることに間違いはないが、その水をやる姿は、他の誰にも愛されない自身を、そうしていたわっているようにも見える。

 マーガレットは、おそらく花を愛しているのだろう。好きでもないものを日々抱えて暮らすというようなことも、世の中にはままあることかもしれないが、憎からず思うから、酔客に見向きもされないとしても花を売る生活を彼女は続けていられるのではないか。誰にも見向きもされないとしても、いつかはその花の美しさに気づき、手にとってくれる存在の現れることを、彼女は信じているのだ。その様子は、無防備なぐらいに純朴なものにも見える。また、胸の中に咲いた、自分という小さな花が、誰にも愛されないために、誰かに愛されたいがために、具体的な花となって彼女に抱えられているというような、悲痛なものにも見えるのだ。

 アンリの胸の奥に咲いた花も、マーガレットの胸の奥の花も、苦しさを抱え込んでしまった。決して穏やかには咲いていない。そういう二人が出会った。花を捨てなかったから、二人は会えた。苦しみの色が、花から少しずつ消えていったはずだ。

 彼は、マーガレットに出会い、もう死のうとは思わなくなった。愛する者と出会った今、命を落とすわけにはいかない。

 それでも、殺し屋は彼を執拗に追った。虚ろな目をした殺し屋は、静かに、そして確実に彼に迫っていった。契約の取り消しを、アンリ達は考える。だが、訪ねていくと組織の建物はなぜか取り壊されていて、契約の取り消しを申し出ることさえ、出来なくなってしまった。殺し屋の追跡は、続く。

 この映画では、この、年齢としては初老にさしかかっているようにも見える殺し屋の、私生活も垣間見ることが出来る。彼には、別れて暮らす、まだ若い娘がいる。娘が訪ねて来ても、彼はそっけない態度でいる。娘は父の仕事のことを、もちろん知らないのだろう。知らないなりに、父のことを色々と気にかけているようだ。

 父親は、娘の自分への愛情がわかるからこそ、故意に娘を遠ざけているようにも見える。殺し屋は、実は重い病を抱えている。もう先は長くないようだ。その上、自身の職業のこともある。

 殺し屋の胸にも、花は咲いているのだ。最愛の娘を思う、温かいものが、胸の奥で常にせつなく咲いているのだ。

 病に侵された彼は、ある時、激しく咳き込み、ハンカチで口を押さえる。ハンカチには、 赤い血がついていた。悲しく、紛れもないものが。

 他人の命を奪うことで続いている、自らの人生。愛すれば愛するほど、離さなければならない娘。彼の心は、何年もの間、苦悩の底に沈み続けて来たことだろう。

 彼の胸の奥の花は、とうとう血を吐いた。

 

 孤独という血の色を、ようやく胸の奥の花からなくすことが出来て来ている、アンリとマーガレットの二人。孤独という血の色を、今まさに胸の奥に抱えている殺し屋。

 胸に小さな花を咲かせた二人と一人。追い追われ、彼らはどこに辿り着くのか。辿り着かないのか。

 彼らには、せめて、どこかに辿り着いてほしいと願う。ささやかでも、優しさのある場所に。物語が佳境を迎えるにつれて、その思いは強くなっていく。花を胸に咲かせた人間に、不幸は似合わない。