昨日まで、山形県の鶴岡市と、宮城県の仙台市へ市議会の厚生委員会のメンバーで行政視察に行かせて頂きました。鶴岡市では保健福祉センターを、仙台市では発達障害に関する相談センター、子育て支援に関するセンターを視察しました。どの施設も昨今の厳しい財政状況の中で、有効に効率的に施設を運営するため、複合的な多目的の施設となっており、非常に参考になりました。八王子市でも、大横保健福祉センターの建て替えなどが予定されていますので、今後の委員会審議にしっかり活かしていきたいと思います。





さて、題目にもあるように、今日は憲法解釈について私の考えを述べてみたいと思います。
昨日安倍総理が安保法制懇の報告をうけ、憲法9条が禁じる武力行使にあたるとされてきた集団的自衛権の行使を検討する考えを表明しました。もし集団的自衛権を”限定的”であれ、行使するという事になれば、これは、従来の憲法解釈を大きく変更するものとなります。
なぜ、大きな憲法解釈となると言うかといえば、政府見解として、日本国憲法第9条は、集団的自衛権の行使を禁じているという事は、先に述べました。今回の解釈変更は、その集団的自衛権を限定的に許容しようというものです。これは、法の性質を大幅に変更する事になると思います。
すごく簡単に言えば、個別的自衛権とは、我が国に対し直接的に他国から攻撃等がなされた場合に、適用されるものであり、集団的自衛権とは、我が国以外の密接な友好関係(同盟国など)にある国が攻撃等がなされた場合(我が国に直接攻撃がなくても)に適用されるものです。
もちろん、我が国以外の密接な友好関係(同盟国など)が攻撃されれば、間接的に我が国の安全が脅かされること場合がある事は想像出来ます。
しかしながら、自衛権というものの中に両者は同居するものの、性質は大きく異なると思います。
そもそも、我が国の他国への武力行使は、日本国憲法第9条によって非常に抑制されており、自衛の為の武力行使(自衛権)も抑制的に許容されています。
もしこれを変更して、集団的自衛権を認めるというのであれば、それは憲法9条の条文そのものを改正するほか無いのではないでしょうか。
もちろん、許容される範囲の解釈変更というものはあると思います。全て硬直的に運用しなければならないわけではありません。例えば憲法25条(生存権、国の社会的使命)は、生活保護法の根拠となる条文だと考えられていますが、25条で謳われている”健康で文化的な最低限度の生活”とは、時代とともにその実態は変化し、生活保護の基準はそれに伴い変化します。ただ、これは先の”性質的”な変更ではなく、”量的”な変更だということがいえます。

話しが少しそれました。
ここで現行憲法と集団的自衛権に関する考え方を少し述べます。私自身は現行憲法について加筆修正するべき箇所があると以前より考えております。この事については、このブログでも過去に触れた事がありますので、詳細は省きます。↓
http://ameblo.jp/ando-osami/entry-11522589961.html

同時に、集団的自衛権については、(我が国が国際社会の中においてどのようなポジションを目指すのかという事を前提に議論しそれを確定した上で)、昨今の国際情勢の現実を鑑みれば、(厳格な制約を設けた上で)これを行使する必要がないとは言えないと思います。

少々ややこしい書きぶりになってしまいましたが、ここで結論的な事を言えない理由は、集団的自衛権を行使して、我が国国民の安全性がどのように向上するのか、また国際社会において、これを行使することでどのように国際平和に貢献し、ひいては我が国がどのような国際的立場を目指すのか、という議論がスッポリと抜け落ちているからです。言うまでもなく、集団的自衛権は手段です。ここでは手段の是非の議論に終始し、なかなか目標についてのコンセンサスを得る為の議論がなされていません。これは、議論をリードするべき与党としての不作為だと思います。
さらに、安倍総理は邦人を乗せた米艦防護などの個別事案を例に引き、説得を試みていましたが、これには輪をかけて不適当な議論の進め方だと言わざるを得ません。総理は情緒的な表現で、国民の感情に訴えようと試みたようですが、これも多くの人命が左右される、冷静で的確な判断を要する安全保障の議論において、指導者として不適当な表現と言わざるを得ません。そもそも昨日もう一人の与党党首が言っていたように、先程に例に引いた事案について、集団的自衛権を適用しなければならないとは言い切れません。


加えて申し上げると、今回安倍総理が表明したように、現行の憲法解釈を大幅に変更することによって、現在まで禁じられてきた集団的自衛権の行使を容認することは、立憲主義の否定ともなり、民主国家のリーダーとして決してやってはならない、恥ずべき行為だと思います。
そもそも憲法とは、国民が国家権力を制限、駆使し、国民個人の権利(基本的人権)を保障する(国民が国家権力を縛る)ためのものです。これは近代憲法の成り立ちとして、特に制限を加えるという面において、近代市民革命などを経て、それまでの絶対王政(絶対的権力、権力は腐敗する)に対する反省から生まれた考え方であり、我が国に限らず他の民主国家における共通の憲法の本質です。すなわち、国家権力は憲法によって制限されながら(立憲主義)、基本的人権を担保する為に行使されるのです。
この理解を前提として、今回のケースを見てみると、憲法によって権力を制限される側の国家が、自らを縛る法の解釈を恣意的に変更し、縛りを弱めようとするものと理解出来ます。これは、立憲主義の否定となると思います。この事から、民主国家の総理として、人類共通の財産として培ってきた、立憲主義を形骸化させるともいえる、今回のような憲法の解釈変更をする事は、恥ずべき行為と言わざるを得ません。内容以前に、手続きとして間違っていると思います。

少々長くなりましたが、憲法の議論というのは、非常に複雑でイマジネーション(想像力)が必要です。たとえば、集団的自衛権を行使する事で、我が国にどのようなメリットデメリットがもたらされるか、などです。また、YES or NO の単純に結論づけられるものでもありません。だからこそ、国民的なコンセンサスを得る為に、丁寧な手続きが必要なんだと思います。改正要件1つをとってもこのことがいえると思います。

いずれにせよ、安倍総理は腹を決めているように思います。一国のリーダーが中途半端な心構えでこのような重大な事柄を国民に対して語るなどという事は、あってはならないからです。
彼は彼なりの信念に基づいて、今回の憲法解釈変更による集団的行使容認という手段を採らんとしているのでしょう。私としては、主な理由として上記の通りの意見をもってその方向には反対ですが、今後どうなるでしょうか。
私は、国民の皆様の一人一人の豊かなイマジネーションに基づく意見こそが、今後の議論の方向を左右すると思います。
私も、直接総理に意見を述べる立場にありませんが、一国民、一地方議員として考えをうったえていきたいと思います。
また、我が党の国会議員の先生方には、毅然とした良識ある対応を心から期待したい所です。