And Life Goes On.

And Life Goes On.

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1秒前のひかりは、今見ているひかりとはもう違う。


何が起きても、人生は続く。

ずっと、道を歩いてく。



My boots are made for walkin'.


I LOVE YOU.

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あたし

こんなエッジイな書き込み、やあやあこんにちは、みたいな気軽さで
誰にでも教えたりなんかできないな。
なんの好印象にもならん。



ここに居るのは私の断片だし、それはいつも違う「わたし」の一部分の切り取りだ。
だから、ここにある文章から「わたし」を判断することもできないし、されたらイヤだし困る。

これは私の気持ちの、忘備録みたいなものでしかない。
未熟さやつまらない拘りやつまずきを
ずっと記憶の底に沈めっぱなしにしないための。


そのときその時に感じたことなんだけど、残念なことに私は常に変わってゆく。
人や意見や出来事に出会って考えたら、変わってゆく。
すごくちょっとずつだけど、同じことなんかひとつもない。
常に同じトーンで同じものを提供するって、できないことだな。



色々考えたけど、だから私はMIXIに魅力を感じないんだなって。
当たり障りのない感じは、できない。
当たり障りのない会話なら、いちにちじゅう、朝から晩まで垂れ流しているから別にわざわざもういらないの。
あそこは、「公」だから。
文章は、残るものだから余計にね、気を遣ってしまう。


気を遣ってばかりじゃ、ほんとに吐き出したいものを書くことはできないな。



・・・こんなふうにね、思っているのに

初期の文章見たら、しっかり「読者」の目線を意識している書き方してあった。


気持ち悪いから、ちょっとずつ直す。ね。


N曰くわたしはスイートなひとだと言う。
それがわたしの、ある一面だとして(多少自覚はある)、
仕事やパブリックの場で、大いに意識している「理性的」という面もまた、ある。
生来のクールさが、これを助けてる。

理性は、もともとわたしの持ち物で、感情の取扱いがあまり上手でなく、振り回されがちなわたしには、
パブリックの場で特に理性的であろうと意識することを、無意識的にずっとやってきていた。
そこが強すぎると、皮肉屋になったり、あるいは弱くなると、感情に左右されて言わなくていいことを言ったりもする。
感情に左右されるというのは、わたしの場合はほかの人を気にしすぎて疲れてしまうということ。
ひとつひとつの事象に対して、きまじめに感想を持ってしまうこと。
(分析も多少はするけど、大概の場合は感想と、そこから思考を派生させるまでだ)
また、持った感想やそれによって取った行動を、きまじめに反省することで、すごく疲れていってしまう。
これをしすぎないように、私は理性を使っている。


だけど、「スイートさ」みたいな自分の要素を、理性の後ろに閉じ込めてしまうことは、
たぶんわたしにとって損なことだ。
それは、警戒心の強さとまた違う話で、自分をどう見て欲しいか、見せるのかという自己プロデュースという点において。
ひとつ、ネタを増やせばもしかしたらもっと生きやすくなるかもしれない。

ふ、と、そう思いました。
思っただけを整理しながら書いたら、りくつっぽい感じ。
まー、これもあり。


なんか 朝来るなり帰りたいと思う日は、

ほんとうに無感動に感情を動かされず生きたいと願ってしまうのだけど
仕事だけとはいえ、1日のほとんどを占める場でそんなことで
きっといけないだろうと思う。
だけど、感情を動かすことはとても面倒で疲れることだ。

今日みたいな日は、そういう面倒さから遠ざかりたいとひたすらそれだけを願ってしまう。


かと思えば、朝きて、そんなことも考えず、少々長く仕事したってぜんぜん苦痛でなくて、力漲る日もある。


それは、それらは交互にきたりはしないで、大きなタームの流れの中でやってくる。
今日のような日は、一度くれば少し続いてく。
気の持ちようひとつなんだろう。



無感動でありたいと思う日も、それでも感情はそこにある。