もしも名門の私立女子高生がオグ・マンディーノから成功哲学を学んでいたら -5ページ目

もしも名門の私立女子高生がオグ・マンディーノから成功哲学を学んでいたら

現代に蘇ったオグ・マンディーノが日本の名門の私立女子校に赴任して成功哲学を教授致します

それでは、お待たせ致しました。
只今より成功学園の学園長をご紹介させて頂きます。
自己啓発書を書かせたら、彼の右に出る者はいないと言われている、
アメリカ人の男性である、
オグ・マンディーノさんです。
それでは、どうぞ。

「只今ご紹介にあづかりましたオグ・マンディーノと申します。
どうぞ、よろしくお願いします。」

「まずは、私の自己紹介をさせて頂きます。
1923年12月12日、米国マサチューセッツ州ボストン市ボストンに生まれた私は、
両親はともに移民で、父はイタリア系、母はアイルランド系です。

本名はAugustine Anthony Mandinoですが、
ハイスクール時代の学校新聞で「AUG」と署名しました。

ところが、書いてから名前を変えたいと思い、発音どおり「OG」と綴りその後習慣になりました。
このことは「この世で一番の奇跡」で私自身で語っております。

私は母から作家になることを勧められていました。
高校で学校新聞の編集者になり、ミズーリ大学でジャーナリズムを学ぶことを目指して準備をしておりました。

1940年の夏、まもなく大学入学という時、昼食をつくっている最中の母親が亡くなりました。
この悲しい出来事が大学進学の夢、そして作家への夢を消してしまいました。
そこで私は、大学に進学するかわりに、製紙工場で働くことにしました。

1942年、アメリカ合衆国陸軍航空師団に入隊しました。
その間、第二次世界大戦中にB-24でドイツに30回特務飛行をしました。
メダルをいくつかもらい、無事母国に戻りました。

それから、軍隊時代に溜めたお金で、タイムズ・スクエアの少し外れのアパートを借りまして、作家としての実力を試してみたのです。
ところが、その時は全く相手にされず、とうとうお金が底をついてしまいました。

そこで、生まれ故郷のニューイングランドに戻り、生命保険の販売の職につきました。美しい女性との結婚をして、娘を授かりました。

しかし、その後生き地獄のような10年を過ごしました。
借金を抱えるという厳しき現状であり、
時が過ぎると同時に、深い穴に落ち込みました。
そして、現実逃避のためにアルコールの量が増えていきます。
その結果、妻子は去り、仕事や家をも失ってしまいました。

古い車(フォード)に数少ない服を投げ入れ、国内を放浪しました。
安酒を買う僅かなお金のために、雇ってくれるならどんな仕事でもつきました。

そんなある日のこと。
クリーブランドの質屋のウィンドウに29ドルのピストルを見かけました。

「この銃が全てを解決してくれる。・・・
それで鏡の中の惨めな敗北者を2度と見なくてもすむんだ」

私の脳裏には自殺がよぎります。
しかし、ピストルは買わず、気づいた時には、図書館の前にいました。

その朝、ノーマン・ヴィンセント・ピール、
ナポレオン・ヒル、
エルバート・ハバード、
マックスウェル・モルツ、
ドロシー・ブランド・パーシー・ホワイトニング、
ラッセル・コーンウェルなど、成功哲学の"偉大な巨匠"の本を読み始めました。
この朝を境に、私のの人生は変わり始めました。

そして、W・クレメント・ストーンの本と出会い、触発されました。
私は、彼の下で働きたくなり、アメリカ・コンバイン保険会社を探し、ボストン支社にて職につきました。

クレメント・ストーンを探す最中にベティと出会い、結婚(1957年12月9日)しました。

一年足らずで優秀な業績をあげ、販売部長に昇進しました。
最初の担当地区は、メイン州北部。
実績を認められ,コンバイン社のシカゴの販売促進部へ異動となりました。
そこで保険販売の意欲促進に関する資料の作成に一年ほど携わりました。

その後「サクセスアンリミテッド」誌へ移ります。

ある月、ベン・ホーガンーーー
交通事故から回復し、プロゴルファーとして勇敢にカムバックしたという記事を書き、雑誌に掲載しましたところ、ニューヨークの出版社から感銘の手紙を頂きました。
そして、その中には、「本を書いたなら是非見せてもらいたい。」との言葉もありました。
その1年半後『地上最強の商人』を出版することができました。

1965年、サクセス・アンリミテッド・マガジン社編集長。
1972年~1976年、同社代表。

1976年から著作・講演を中心に活動しました。

1983年、全国講演者協会から講演者に対する最高の栄誉であるCPAE賞を授けられました。
1983年、ナポレオン・ヒル・ゴールドメダル賞の初受賞者となりました。

1984年、"国際的な演説家の殿堂"入りを果たしました。
レッド・モトレイ、
リチャード・デヴォス、
ビル・ゴーヴ、
カヴェット・ロバート、
ノーマン・ヴィンセント・ピールなどについで14番目にあたります。

1989年3月3日、「オグ・マンディーノの日」とアリゾナ市にて定められました。

70歳誕生日前、定期検診にて前立腺癌が見つかったので、心臓切開手術を受けました。

1995年春、心内膜炎にて再入院しましたが、
1996年9月3日 突然この世を去ることになりました。

ところが、敬虔なクリスチャンであるせいか、2014年の6月に甦ることに成功致しました。
そして、今回復活したのは、ある使命を神より託されたからに他なりません。

それは、日本の国へ出かけては、風光明媚な湘南の地にある日本一のお嬢さま学校である成功学園の学園長に就任して頂くようにとのことでした。

慣れない日本ではありますが、少しでも多くの成功哲学をあなたに教えていこうと思いますので、どうぞ、よろしくお願いします。」

次回は、彼から教わる彼の担当クラスの生徒さんたちをご紹介させて頂きます。

どうぞ、乞うご期待くださいませ。

成功学園学園長 尾久万出井野

航空写真