はじめに光ありき:言葉を超える霊性の次元へ「はじめに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネによる福音書)この有名な一節の原文ギリシア語では、「ロゴス(Λόγος)」という言葉が使われています。 ロゴスは、単なる“言葉”ではなく、「宇宙を秩序づける根源原理」「光と秩序と意味の流れ」を意味するものです。では、そのロゴスは、どこから来たのか。それに先立つもの、それこそが「光」ではなかったか。「はじめに光ありき」—— これは、創世記の「神は言った。『光あれ』。そして光があった」という句にも通じる、宇宙生成の奥義です。私たちが“言葉”を持つより先に、そこには“光の経験”があった。言葉になる前の直観。 表現される前の響き。その“沈黙の光”の中に、霊性のもっとも深い源泉があるのではないでしょうか。---アルチュール・ランボーは、「私は他者である」と言った後、言葉を焼き尽くすような詩を書き、やがて詩そのものを棄てました。 彼の霊性は、言葉を手段としながらも、最終的には“言葉を超えてどこかへ向かうこと”にあった。そこには、“光の彼方の沈黙”への憧れがあります。また、禅の思想にも「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉があります。——教えは言葉では伝えられない。 ——直接、心と心がふれあうことでしか、真理は伝わらない。これはまさに、「ロゴスの奥にある光」を感得するための沈黙の技法です。---霊性とは、言葉を信じきらないことから始まるのかもしれません。言葉がすべてを規定し、整理し、支配してしまう現代において、 “言葉を超える感受性”を取り戻すことは、私たちが「光と共にある存在」であることを思い出す行為です。その沈黙の光は、芸術の中に、自然の中に、あるいは死の直前に、ふと現れることがあります。三島由紀夫にとっての“切腹”は、言葉のすべてを超えた“行為としての祈り”だったのではないでしょうか。
宮沢賢治が「雨ニモマケズ」で到達した無言の強さは、霊性が日々の労苦と祈りを貫く光であることを示しています。
「沈黙」は空白ではありません。
そこには、言葉では決して触れられない、しかし最も確かな真理が宿っている。
だからこそ、私は今日もこの「霊性日記」に言葉を記しながら、 ほんとうは言葉を超えた場所へと静かに手を伸ばしているのかもしれません。
——光と共に、沈黙の向こう側へ。