愛犬がいなくなってから3日が経ちましたが、未だに帰るともぞもぞ動く毛玉がなくて、寒い冬にぎゅっと抱きしめられる温かいふわふわがなくて寂しいです……。
会えるならもう一度会いたい。
そういえば月曜日、朝二度寝したら犬に会えました。
犬はふわふわの白いところに寝ていて、寝方は晩年のぐったりした姿勢だったんですが、目がつやつやで濁ってなくて、腕の毛も胸の毛も真っ白でふわふわしてて綺麗でした。
私は犬を撫でながら「寂しいんか〜? そうか〜、寂しいなぁ〜」と話しかけていました。
犬はうっとりと目を閉じて撫でられてくれました。
起きてからあれは私が寂しいことを自覚するためかと思ったのですが、多分犬もきっととても寂しかったと思います。
プリパラにハマって毎日遅くに帰ってきて、休みも1日プリパラで、いつの間にか犬と過ごす時間は激減していました。
私にとってはただの6時間でも、犬にとっては何日も、下手したら何年も経っていたかもしれません。
寂しかったんやね、というのは私の罪滅ぼしの本音だったのかもしれないですね。
犬が亡くなって悲しみのどん底にいると、今まで大して気にしなかった人の言葉や、ちょっとした感情が気になるようになりました。
それは、今まで軽く使っていた「死にたいな」「ご愁傷さま」「何とかなるって」などが心に引っかかるようになったのです。
死にたいのではなく「逃げたい」、ご愁傷さまなどのテンプレではなく「空の上でもどうか幸せに」、何とかなるではなく「どうするか考えて頑張ろう」など、少し言い換えるだけで随分印象が変わることに気付きました。
悲しみのどん底は、光の届かない暗い海の底のようです。
しかし、深海には浅瀬では考えられないほどの広さがあり、しっかりと自分の呼吸を確かめられます。
朝起きて、おりんを鳴らし、その音とともに深呼吸をすることで良いリセットになりました。
今まで犬を撫で回せば何となくおさまっていたムシャクシャも、寂しい気持ちと一緒に手紙に書けば自分の感情が整理されます。
未だに手紙を犬の写真に供えると涙が出るのですが、我慢せず声を上げて泣くことでスッキリします。
頭に余裕ができた分、普段は目につかなかった小さいことも気付けるようになり、気持ちも穏やかになりました。
よくTwitterで気に入らない記事やひどい記事をRTして「お前が死ね」とか「は?ありえなくね?」と怒ったり、自分が気に入らないことをしてる人のツイートをスクショして晒したりする人がいます。
今までは私も感情的になってすぐそれを回して「マジありえないクソかよ」などと吐き捨てていました。
しかし、よく考えると全く関係ない人に私が怒っても無意味ですし、何も解決しないですよね。
「よくやるなぁ」「あんなふうにならないでおこう」「酷いことが起きているなら、何か自分にできることをして防ごう」と受け止めて、現実の自分に何か活かせることを探すほうが有意義です。
プリパラのプレイスタイルに文句をつける人も増えました。
でも、そんな文句のやり取りに目を通す暇があればダブリチケを整理しますし、筐体に通ってランク上げをします。
赤の他人に無意味な正義感を振りかざしても何も得られないどころか自分の心にさざなみを立てるだけ。
これも犬を喪い悲しみの深い海の底から気付いたことです。
ペットを飼ってる人は優しくなれると言いますが、本当に優しくなるのは大切な家族を喪ってからだと思いました。
これからも、人に優しく自分を大切にし、小さい子供のお手本になるようなプリパラお姉さんになりたいですね😊💕