”来た”

眠りへと堕ちつつある意識が、ゆっくりと混濁し始めた瞬間、髪を触れられる感触で意識が現実に還る。

真夜中──

私はベッドに仰向けの姿勢で目を閉じている状態である。

数束、頭頂の髪を掬われると、次には重力のまま、パラパラと名残惜しそうに溢す──

覚醒半ばで"その優しい作業が数回繰り返されると、私の意識は再び、柔らかな夢の淵へと、小石のように揺蕩い沈んでゆく。

 

時折、訪れる現象?は決まって頭頂で起こる。からやって来る。

 

解っている。

ベッドのヘッドボードに取り付けられている大きめの鏡から彼女は現れる事を──

でも、目を開けてはいけない。

”確かめてやろう”

そんな好奇心さへ、どこか邪で、彼女に対して失礼な考えであると何故か思われ、私は、あたかも神聖な儀式であるかのように、時折、繰り返されるこの優しい行為を甘受していた。

実際に確かめた訳でもないのに"彼女"と断言できるのも変な話なのだが。

 

起床時、ヘッドボードの鏡に自らを写しながら髪を持ち上げ、ゆっくりと離してみる。

色々と試してみたところ、感覚はコレが1番近い。

──鏡からくる彼女は、自分に対して好意的なのだ。

と、嬉しい気持ち寄りではあるけども、正体不明な存在に対する恐怖が”じわり”と染みのように広がる瞬間──

「ま、いいか」

と、わざと言葉を発し、怖気を打ち消してみる。

”女性だと感じるのは何故なのか”

ぼんやりと思考を巡らせてみるのだが──

「なんとなく?」

と、感覚的な理解に基づいた結果を由とした。

 

思えば、アパートの内見の際から警鐘は鳴っていた。

「この部屋は止めなさい」

母が言った言葉を鮮明に覚えている。不動産屋と大家が居る場での発言であった。

”解っている”

母の言葉の真意──

でも、時間や状況を鑑みた結果、逃れる事は出来なかったのだ──

 

後に、6年間も住み続けることになるとは思いもしなかった幽霊アパートにて──

私が20代の頃のお話です。

 

私には<W>と言う専門学校時代からの友人がいます。学校を卒業した現在もなお付き合いのある、数少ない友人です。

【視界の隅】のお話の登場人物でもあります。

 

ある夏の夕刻。仕事を終えた<W>は、ボロアパート内にある私の一室を訪れました。

当時、私の住んでいた所は繁華街にほど近く、電車へのアクセスにも便利な位置にありました。

翌日は2人で神戸方面へと向かう必要があったので”どうせなら”と、Wは前日の仕事帰りに私の部屋に泊まりに来る予定となっていました。

 

六畳間の西向きの窓に取り付けたクーラーが、ようやく効いてきたのは、夏の陽が完全に落ちた20時前でした。来客用の座布団など、気の利いたものなどない私の部屋の畳に座しながら、Wは電子レンジで温めたコンビニ弁当を貪ると、シャワー浴を終えました。

TVゲームやくだらない話で時間は過ぎ──

”そろそろ”

と、どちらからともなく身体を横たえたのは午前1時頃だったように思います。

私はシングルサイズのパイプベッド上で横になると、テーブルを挟んで、Wは私と反対側の畳の上に身を横たえました。布団などもなく、Wはタオルを巻きつけた雑誌を枕に、自身の上着をタオルケット替わりにしていました。

部屋の照明を落とした後も、暫く会話が続きましたが、どちらが先だったのか、あるいは同時に、いつの間にか眠りに堕ちていました──

 

”ヴーン”

音が聞こえる。

やけに耳につく音。

唸り声にも似た──

眠い目を開けると、遮光でない薄いカーテンを越して、まだ淡い朝の日差しが室内蒼く届いていました。

 

時計を見ると針は5時を指していました。

”ヴーン”

唸り声のような音は、古びたガラス引き戸を隔てた台所(ダイニング)から響いていました。

 

音の正体は冷蔵庫の上に載せている食器用ボックスで、プラスチック製で茶碗やコップといった生活に必要最低限の食器を入れていました。

その食器用ボックスなのですが、冷蔵庫の”ヴン”という作動音から始まる僅かな振動に共鳴し、唸り声のような音を響かせるのです。

”ヴーン”と。

頻度は多くないのですが、この音で何度か目が覚めてしまう時がありました。

それでも暫くすると、冷却モーターの作動が収まるのか、冷蔵庫の振動が消えると、食器用ボックスの共鳴も止まるといったのが毎度のパターンでした。

この時も──

”またか”

と、うんざりしたものの──

”すぐに収まるだろう”

と、私は音から逃れるようにベッドの上で寝返りを打ちました。

ところがです──

どういう訳か、意に反して食器用ボックスの共鳴音は徐々に大きくなってゆくのでした。

暫く、音の対処を促す意識と、眠気からくる面倒な思いを戦わせていましたが、リビングまで届く音は、今や非常用のブザーのように警告を兼ね、荒々しく響いていました。

「チッ!」

眠りを妨げられ、尚且つ動かなければいけないという面倒さに苛立ちました。

寝起きが悪い訳ではないのですが(本当です)この時は何故だか、非常に気分を害しました。

ー舌打ちをし、ベッドから勢いよく起き上がり、ドスドスといささか乱暴な歩調でダイニングに向かう私に、床で寝ていたWが

「○○(わたしの名前)どうした?」

と問うのですが、その言葉に応じるのさへ面倒だった私は、構わずにダイニング引き戸を開けました。

音は確かに、小型の冷蔵庫の上に鎮座している食器用ボックスから発していました。

”コンニャロウ”

憎しみを込めて、食器用ボックスを掴み、ほんの少し前へと位置をズラしますと、先ほどまで不快な音が見事に消えました。

 

火にかけた事を忘れていたケトルが知らせる甲高い笛のような音。

放送終了時のTVのスノーノイズ。

神経がケバ立つような、急き立てられるような、心理的に嫌な音でした。

 

窓の外から、新聞配達員のバイクの音が聞こえました。

 

”フン”

私はひと仕事終えたようにリビングに戻ると、またもやWが

「○○どうした?」と同じ調子で問いました。

Wの声が少し震えていたのに違和感を感じましたが──

「あー、冷蔵庫の上の食器用ボックスの音が煩かったから」

まだ寝足りなかった私は、ぶっきらぼうに説明すると、再びベッドに横になりました。

 

窓の外で蝉が鳴いている──

木目が浮いた格天井を暫く見つめていました。

室内には、しっかりと朝の日差しが入り込んでいます。

でも、まだ陽が届かない部屋の隅は、夜の荒い粒子が残っているかのように薄い影が蟠(わだかま)っていました。

その蟠りにの中で、Wが膝を抱えていました。

一瞬、砂壁に浮くシミのように見えまたのは何故なのか──

座卓の置き時計を見ると8時でした。

「起きていたのか?」

私の言葉にWがゆっくりと疲れた顔を向けました。

「○○〜(私の名前)」

ため息が交じっていました。

「起きるの待っていた」

「眠れなかった?」

問うとWは”カクン”と、抱えた膝に首を落とし──

「○○(私の名前)が急に起きて歩き出した時間あったよね」

おそらく食器用ボックスの共鳴音を止めに行った5時頃の事を言っているのでしょう。私的には動き出すまで、かなりの葛藤があったのですが、やはり傍目からは”突然、舌打ちをして起き上がった”事になるのでしょうー

不機嫌な場面を見られた事に、少し気恥ずかくなりました。

「時々、食器用ボックスが冷蔵庫と共鳴して音が鳴るんだよね。五月蝿かったでしょ?」

と、慌て気味に説明を続ける私に

「○○(私の名前)が起き出す前に」

と、Wは視線を膝の間に落としながら

「金縛りに遭ってて動けずにいた」

穏やかでないWの告白に、私は言葉を呑みました。

 

ここからはWのお話です──

 

”ヴーン”

音が響く。

嫌な夢を見ていた。

何故か、冷たいコンクリートに仰向けに横たわった状態にある。

周囲は暗い闇に覆われているが、かなりの奥行を感じる。

巨大なコンクリートの立方体の中に自身がいる事を理解していた。

足元の先には、人が入れるほどの大きさの円形のトンネルがあり、奥は漆黒の闇であった。その穴の前面には換気用なのだろうか、無骨で巨大な6枚羽の錆の浮いたプロペラが取り付けられ、主軸の歪みからなのか不規則に加速と減速を一定のリズムで繰り返しいる

見えない力に拘束されたように、仰向けのまま動けないでいるWは、上体を何とか起こし、足元を見る事には成功したが、その光景をただ見つめるしかなかった。

”ヴゥン”

プロペラが回転する際に異音が周囲に響く。

更に見ているとプロペラの回転は徐々にスムーズになり、止まることなく速度を増していった。

”ヴヴヴヴヴ”

それにつれ、異音の間隔も短くなる。

──と、不意にWはプロペラの奥のトンネルが気になった。

(何か居る)

トンネルの闇に目を凝らし、異物感のような気配に意識を傾けると、朧げにではあるが何か見えそうな気がした。

「!」

ふいに、その気配と視線が合ったような感覚に捉われた。

闇の中から──

”ドクン”と、心臓が軋む。

やがて、プロペラを通したトンネルの漆黒に、チラチラと白い影が踊った。

円形の暗いトンネル内を、上に下に目まぐるしい速さで移動する白い影──

Wの心臓は、プロペラの異音と重なるかの如く、鼓動は早鐘のような警告の鼓動を刻むのだが、身体は凍りついたように動かせず、瞬きすらできないでいた。

──蜘蛛のような女だった

白く細い肢体が重力に逆らい、節の多い長すぎる四肢を巧みに操りながら、トンネルの奥からカサカサとこちらへ近づいてくる。

漆黒よりも尚、暗い双眸で、幼子がクレヨンで描く落書きのような口と思しき図形は、絶えず形を変化させていた。

”ヴヴォォォン”

女が唸る。

先ほどまでの異音が、プロペラの音ではなかったと気づいた──

 

「!」

暗い格天井。

一瞬、混乱したものの、すぐさま”自身は○○(わたし)の部屋に泊まりに来ている”という現状に理解が追いついた。

夢か──

まだ、鼓動が早い。

曖昧であった意識が、ゆっくりと明瞭化し、目覚めてはいるのだが、まだ夢の世界との関係が断ち切れていない感覚がある。

うまく説明はできないのだが──

 

”ヴーン”

まだ、あの音が聞こえる。

夢の中で聞いた聲に似ている。

悪夢の反芻を半ば無理矢理に打ち消し、上体を起こそうとしたところで肩を畳に打ち付けた。

「?」

座卓の足が目の前にある。まだ淡すぎる朝の蒼い光が、カーテンを抜け、かろうじて届いていた。

どうやら自身は上体を起こし損ねたようだ。

だが、何故──

次の瞬間、目の前の座卓の脚が視界の上にズレた。

(えっ?)

”ズズッ”

間髪を入れず、擦過音と共に座卓の脚が、あっという間に視界から消えた。

畳の上で自身の身体が動いているのだ。

足元の方角へと──

”ズズッ”

また──

何か強(こわ)いモノがジーンズの下半身に絡んでいて、肌への圧力が加わるたびに身体が数センチほど下へと移動してゆく。

気がつけば身体ー指先から全ての感覚が鈍く、動く事すらままならない身をどうにか捻り、もがき、何とか足元に目を向けたー

長く燐のような蒼みを帯びた髪が、とんでもない量で自身の下半身を捉えていた。

圧倒的な質量を持つ髪の中心に、顔面と思しき肉の塊があり、目の位置には鋭利な刃物で抉ったかのような、醜い穴が2つ空いていた。

”ヴーン”

デタラメな口元が蠢く──

悪夢の再来であった。

 

凝固した闇が部屋の隅に出現し、女の上身体のみが、その巣穴のような闇から露わになっていた。

”〜っ!”

悲鳴すら声にならなかった。

いやらしく畝る黒髪にとらえたれた自身の身体は、女が潜む巣穴のような暗がりへと呑まれようとしている。

足掻こうとはするものの、身体は毒を浴びたかのように麻痺し、指先の関節すら動いてくれないー

何ら抵抗のできないままの状態で、いよいよ女の元まで自身が引きよせられると、その女の背から巨大な昆虫の足を思わせる異物が8本ほどスルスルと自身に伸びてきた。

有刺鉄線のような突起物がジーンズの生地に刺さる。

痛みに思わず呻くと、女から発せられるモーターのような音がひときわ大きくなった。

圧倒的な恐怖と絶望感の中、目を閉じ死を覚悟した。

その時──

 

「チッ!」

暴風のような存在が、ほど近い空間に突如として現れた。

その暴風ー大きな気配は憤怒を纏っていた。

○○(私)であった。

無造作で

現実的で

生命力に溢れていた。

 

瞬間──

身体から毒が抜けたかのように、体温が急激に戻ってくるのを感じた。

”○○(私)は自分の異常に気づき、何か神通力でも使ったのだろうか”

「○○(私)どうした?」

声が出た。

 

──以上が、Wが体験した恐怖の出来事でした。

Wは緩くなった炭酸飲料を一旦、口に含むと、ゆっくりと飲み込みました。

 

「まぁ、、、大変だったね」

私の呑気な感想と、結果的に危機を救ったのだが、それが、あくまで偶然で私的な行動であった事実を知り、すっかり呆れ果てたのであろうWは苦笑した後、緊張の抜けた声で

「○○〜(私)」

と、叫ぶのでした。

 

この日、神戸には行きました。

 

そして──

最初の話に戻りますが、私の体験──

鏡から現れては髪を優しく掬う彼女ですが、ひょっとして、髪を救っていれのは”昆虫のような手”なのではないかと考えては恐怖が”じわり”とシミのように広がってゆくのですが──

「ま、いいか」

と、わざと言葉を発し、怖気を打ち消してみるのでした。