ようやく なんとか 思い通りの服が出来たんだけども、
徹夜どころか、昨日夕方までかかっちまったよ。。
ふぅ〜、。

あとは、ピアノの生徒さんに"音の粒感"についての資料も出来たし、さてさて、
これでどっぷりイメージの世界に没入出来るはずだー

今回は、わたしの凡ミスでテーマと充分に向き合える期間が2〜3週間なのだけど、
案外、数ヶ月前から向き合っても、煮詰めて煮詰めて時間かけて描いた絵よりも、
その後、ふぅ〜、って感じで締め切り前日にパパッと出してみた作品の方が選ばれたりもするからなぁ、、
となると、まだ時間あるな、、と、、
そして、手持ちのキャンバス木枠がF8からしか無い事と、
サイズがF6までということで、Amazonさん、世界堂さん、待ってます。。

で、それまでは、テーマをとにかく咀嚼してる。
噛めば噛むほど色んな味が見えて昇華の頃合いも気持ちよいタイミングがあるのだよ、
この企画展の醍醐味は。
今年でもう、12年目にもなるのか、、、
最初の10年間くらいまでは、テーマと、サイズの縛りがある意味で良いストレスだったのだけど、
だんだん色んな作品、作家さんと、同じテーマを咀嚼したものが並ぶと、
画風だとか出し方は違っても、やっぱ美学のスポットが、
「そこですよね〜」ってなる時、画家は孤独というけれども、
そして孤独は親友でもあるのだけども、此処ではシンクロしてる事が絶対的に事実だから、
なんとも言えない、なんにも言わなかったりもするんだけども、
心の底から なんか、群れなくても孤独でも、失望や絶望から脱することができる気がするんだよなぁ、、。

昨年の不作の年からの今年はとくに、それを昨日は感じてちょっと寝れなかったぐらいテンション上がってたのです、恥を偲んで事実を漏らすと。
そのおかげで服も諦めずに完成出来たのだけども。

今年のテーマは"CREWS"なので、
わたしはちょっと今、自分でも逆に驚くほど、まさに水を得た魚ってこうゆう事なんだろうかね?
って気がしてます。
良い事なのかどうかはわからないけど。
約2年前から世界が劇的に変わって、企画展も変わって、
パーティーもしない、酒も飲まない、用がないなら家に居た、外に出るのも何かを遂行するのも、
そもそもわたしにはあまり変化することはないはずなのに、
なんでだか、むしろ"おうち時間"出来たから、絵を描いたり、楽器やったり、
宅飲みとかいう、わたしには、
え。そこまでしてまで、一人での自宅で過ごせないのですか?
って、正直なところ意味不明のものが当たり前になって、
わたしはニコ生も逆にできるのにしなくなって、物理的なもの、
そうだな、特に芸術に対してほんとは、いっぱい色々シラケてしまうような、
そんな感覚が平熱になってしまってきてたから。

元々の生活とほぼ変わらないはずのわたしの生活は、世間と逆に、家にいても
先見の明が差し込めば差し込むほど空虚になって、世界がどうなっていくか、むしろ、もうどうなっているか、こうなるまでも、どうなってきたか、
物質への執着も、どんどんデータにしかならない、
空っぽのデータ、
2016年のこのギャラリー島田さんの企画展(当時はミニアチュール  神戸展)に出品した
「Empty data」(画像 6枚目)から、どんどん進んでしまって。

色々思うよ?もう言わなくなって長らく経つけど、
認知度や財力、バックボーンのブランドの可視化があれば、
ヤレ、パクリだ、権利だ、金だ、嘘だ、ヤラセだ、
って罵倒して大騒ぎするくせに、
目の前のものは、
あんまり騒ぐなよ、みっともないよ、
って言うんだよ世間は。
おんなじ事が現実にあるのに。

そして、もう、著作権とか、その他諸々のブランド力も、権利も、着想も、
買い取ったところのものだったけど、
多分もう、それもなくなって、着想という概念より、共有するという感覚にすり替わって来てるし、
それならそれでわたしは
盗んだものをお金で売るよりは、ハナから、誰もそこに権利も価値も持たずに共有財産って形なら、
わたしは逆に清々しいと思うので。
わたしは自分でも画力や技術の方ではなく、生まれてこの方、着想を重んじていただいてるから生かされてきてるって自覚がある人間だから。
着想や感性という、当事者にとっては、単なる現実で日常でしか無いものが生きる術ですってのが、
ずっと過大評価されてるって感じながら生きなきゃならないのは、
アホのわたしでもわかってる。
だから、わたしは結果を出したい。当たり前のことだけど、
わたしは結果を出し続けて生きてきてる実感を持つ人間だから。
でも、その結果って、多分多数派のそれらとは違うってことなんですよね?
って、ずっとわたしを生きるしか無い限り、それが過大なのか、尊大なのか、そのバランスはもう、
どうでもよくなってきてる。
いい意味でかな?とも思う。
そんぐらい、世界は変わったし、変わってきてたから。

わたしは世界のルールに則った上で、そして、当たり前の尊敬や尊重を、世界のルールにもいちいち書いてあるものを納得した上で、
そうして生きてるだけであって、
ただ、世界が割りかし、述べてるルールって、単なるご都合主義の、敬いもへったくれもねえバイオレンスなものだって理解した上で、
そのご都合主義が、共有財産としてそうなるのならば、そこは、素晴らしいことなのかも知れないというのは、
わたしが変わったのではなくて、
これまでの流れだから。
そこにきて、フッツーに、考えるわけです。
芸術?はぁ?
ってね。

そんな人間なのは、わたしの本質にずっとある事で、
その上で、ほかに共通言語がないから、芸術って言うしか無いよね。
実際、"そう呼ぶしか無いから芸術"が、本当の現場だとわたしは思ってるから、
おそらく、外野から観れば違うんだろうなぁ、って感じながら、
そう呼ばれていることを本気でできる機会があるのって、
こんなにも、わたしのような人間にはありがてえ他ない事なんですな。。

M-1 観て号泣してまう理由って、一昨年のだったかな、
見取り図さんの人がオープニングで言ってた、
「これ(M-1)がある事で本当に救われた」ってのが、
ずしーんってきたのは、
まぁ、似たような感覚なのかもな、、
人間って結構、そういう、愚かっちゃ愚かなのだろうけど、必要としてるものって、
本気で挑んで来いよ!って言ってくれてるような、
そんな場所なんだと思う。
ただ、そういう場所って、ほんっとに少ない。
だからありがてえ、すんごいただただ、あってくれてありがてぇです。
それがとてつもなく支えになる人間が居るし、わたしもそういうタイプなんだな、
ってことですね。。

世界堂さーん、Amazonさーん、よろしく、待ってますー

aune
2022/04/29