昨晩な、これマジで、ギャラリー島田さんでわたしの2回目の個展してる夢見てん。
そこには、描いた記憶のない自分の作品があって

そして、先程、なんと今年のお誘い来ました❣️

2021年特別企画展 「エポック・ノック」
【会期】2021 年 6月12日(土)~ 6月29日

もちろん出させていただきます❣️❣️

わたし、なんやかんやいうても、
やっぱり出口に縋ってるんやわ。

何にも見えへん、画面なんか見えへん
もうあかんのかな、とか、この先画家て。
って冷めたフリして、
自分のポンコツさに人生腐敗してるように嘆いたりしても
たったの、つっつたら烏滸がましいけど
これだけで次の画面がなだれ込んできてるし、
呼吸がまともに出来るように、
全身に血が通ってる事をありがたく感じてる。
キャンバスサイズは、F6までという事で、
先月、F4とF6の木枠買っておいてよかった〜❣️

わたし、群れるのとか集うのとか、相当苦手だし、
所属とか内輪とか、本当に不向きで、本能的に拒絶してしまうし、
でもそのくせこの世界との繋がりが全く無いと、
面倒くさい世間の常識とか、言われたら気にして落ち込んでしまうようなくだらない人間やねんな。
じゃあ、そのように生きようと考えると、何がどうとか、だからどうとかじゃなくて、
無理やねん。
チャンスもチャレンジも誰もが思うよりも、わたしやってきてるんよな、
とか、
形になってからじゃないとダサくていちいち人前に出さへんだけで、
すっげぇダッセェ努力もしてるねん。それを見せへんようにしてるねん。
って言うこと事態、ダサいんやけどな。
もう、多少言うてもええやろ、恥。

結果が全てやから、世の中が思ってるような作為も芝居もわたしにとってはちゃんちゃらおサブイだけやねん。
そこまでする価値は無くて、そんなやり方で得るものには、自分でも困るほど興味無いねんな、、
だから、出口が無いと、生命として、
とか、あーだこーだと考えてまう
無駄に先見の明も無くはないから、この先世界に必要なものが大体どう変わってゆくかとかも
見えてまう、でも、それに見合った能力が自分にないってことも同時に見せつけられてまう。
自分に嘘ついてまで、世の中の嘘とか虚栄と交わりたいとも思えへんから、
ギャラリー島田さんの存在は、絶妙にありがたすぎるのです。
わたしのエゴで、欲張りでしか無いけど、私にとって無くなられては困るし、
この歳になると、ムーブメントってもう古いものの繰り返しってのが見えるから
だいたい次とか次の次の次にはこういうのがエモいっていうカラクリでしょ、
おもんな。古いんじゃ。そういうヤラセじゃ。
とか、わたしは考えてまう。
心根が腐ってしまう。
だから、我が子や世帯を持つんだろうってわかってるけど、それができるものとできないものがあるってことも、
やっぱ、女として、生命として、浴びせられるついていけない価値観って、結構キツいねんな。
それに、道理もわかってるから、いや、正解は至ってその通りです。産んで育てる事です。人を愛する事です。
って、思考はあるしな。
でも、それができるかできないかと問われれば、わたしはできない し、守れないから、欲なんて持てるわけがないねん。
ハナから諦めてたわけじゃ無いし、何度も何パターンも、色々とやっては見てきたわけさ。
それを、社会に一歩出れば、同じ言葉で繰り返されて、わかってること反芻されて、
胸焼けがして、生命そのものを呪いそうにもなるよ。
キリスト教では、知恵の実を食べたから、男性には労働の苦しみを、女性には出産の苦しみを与えたっていうけど、
なら、現代の女性はダブルパンチの苦しみじゃねぇかよ、
とか思ったり、
知恵のせいで罪が生まれたなんて、他人のせいにするのもいい加減にしろよ
なんて、鬱々と考えてしまうねん。
何を聞いても何を見ても、そこそこの感動、そこそこの感情が突き動かされればまだいい方で、
苦しくて、虚しくて、腹立たしくて、そんな自分がバカバカしくて、なーにも見えなくなってしまうねん。
まぁ、仕方ないよな。こんな人間にはなりたくはなかったな、それもまぁ、仕方ないよな。
って、変に大人な考え方をすればそんな風に、苦しまないように、冷静に憂鬱を受け入れられてしまうようにもなってもーたんや。

そんな中にきても、結局、この身に血が流れてること、まだ肉体が保てる事、まだ意識がある事、
まだ、画材がある事、まだ時間がある事が、
まだ、あってよかった!! って思わさせてもらえる。
自分の稚拙な部分。
持て余してたんや、結局、作っても部屋が狭くなるお金がなくなる、
精進すればするほど、極めようとすればするほど、中途半端が嫌になって、
中途半端に対して厳しくなって、心の中では「ふーん」みたいな感情すらも、
テキトーな愛想笑いや、テキトーな褒め言葉で、その場をやり過ごす、他人の欲しい言葉や、他人の欲しい態度を、その瞬間、その場がただ何事も無駄に荒立つ事無く、厄介にならずに過ぎてくれればいいという理由で、
欲しがるものを簡単に出し惜しむ事無く、出してしまう。
ぶつかる理由も、尖る理由もないし、こんなものが欲しいんだろう?って、
心の中ではわたしはすごく冷めてヒトのこと、避けてると思う。
でも、そうしていたら、価値観がそういうものを欲しがっている世の中の人からすれば、
自信のなさの表れだとか、ヒトに好かれたいとか、評価を気にして自分を大きく見せたいからだとか、挙げ句の果てには変人の演技をしてるとか、初見の匿名には無茶苦茶な事言われる。
古くて長くからの知り合いからは、じゃああなたはそれに対して何をすべきかわかるのですか?
に、「わからない」と答えるのに、わたしに早く評価されろと言われる。
世俗的に、この世の中のムーブメントを他常に外側から、受け手側からしか物事を見たことがない人間には、
どのように初期投資が必要で、現実問題、どのように能力に対する対価が動かされているかを見ることのできる人間はそんなに居ないのだろう。
世の中が、何に対して価値を感じ、名前貸しやら、本書きやら、アーティストの役をするアクターやら、どんな派閥や利権があって、
どんな仕組みでどのようにそれが管理されてしまうか、そこにどれだけ、語られている通りの約束事が悪用されているか、その悪用がどのようにヒトからどのようなものを奪うか、
世の中が欲しがってるものがどれだけ粗末なものか、
どれだけ目先の事しか見えておらず、どれだけ酷く日和見主義的であるか、
わたしが創作のために持ち込む心で日々過ごしていたら、この世界にこういった悪態を吐きたくもなってしまうけど、それが本望じゃない。
要らない心。
わたしは、そんな世界に本当は興味がないのだから、それがどれだけ不要な心であるかまでは理解している。
わたしに欠けているのは、それを乗り切られる程強くもないし、甲斐性が現実的に生み出せていない、下手に出すと、利権取られて不利にもなる(経験上)ようなことへの対処なのだと思う。
この時点で、信頼できて、社会的に健全で頭の切れる舐められない大人の人間を咬ます(←咬ますとか言ってる時点でもう失言)べきなんやろうけど、
それで大変痛い目も見てきたので、ただでさえ何が良い考えで悪い考えなのか、世間とのズレを自覚してるし、自他共に"見る目"なんていう概念そのものが欠落してるんだろう という意見でまとまってるわたしには、
全人類人間不信か、もう、どうなってもいい妄信をするかしかないからな、、
これ以上、そういう類で人生詰みたくないから、他人に任したり、その人選をするなんて無茶な事は確か。
そのこと考えた瞬間に本能的に「ムリムリムリムリムリムリムリーーー!!!」ってゲボ吐きそうになるもんな、

極端なのは、よくわかってる、でも、極端だから、なのだろうな、、。
自己プロデュースって、何なんやろ、これはまぁまぁ大きな壁なのかもしれない守れない し、
本来は不必要であって然るべきはずなものなのかもしれない。
わたしにはその能力は無いようだから、誤解は生じる事も仕方ないけど、それが世の中の健全とされる価値観や人間の正常な欲望や本能の上に成り立つものだから、プロデュースされてできるようなまともな人間でもわたしはないのだろうから仕方ないけど。
本音を言えば、自己プロデュースが出来る能力があるなら、自分が何が欲しくて何を優先したいかがわかっているのだから、
生きる為に絵描いたりなんてことがお金にならない事ぐらいわかってるし、
才能ってものがクソの役にも立たないどころか、欲しがるヒトは買うか盗むか何とでもできるものだとわからずに"夢"なんて綺麗事で自分を慰める事ができるだろうし、
井の中の蛙大海を知らずという男性からの嫉妬なのか、わたしが何をしようとも壊してしまう男のプライドっていう問題もないだろうとか、、
結局、これが一番、厄介なんだよな、言葉で言われる分には、もう慣れてるからええんやけど、
誰かのプライド壊したりは基本的にあってほしくない不本意極まりない事やからなぁ。

こういう目で世の中を見る大人にだけはなりたくはなかったけど、
表には出さないように工夫してるけど、どうせ漏れ出るんだ、
なりたくはなかった な、人間になってるよ。
まさかなるとは、な、人間になってる。
でもまぁ、これがわたしの実態なのは仕方がない。
経験、学び、が作り出すのだから無視しても仕方ないとは思いつつも、やっぱり、作り出すものは、もっとまっさらで、もっとそこを超えていくものじゃないと、
わたしにとっての価値も、意味もないから。

どこだっていいわけじゃない、どんなだっていいわけじゃない、
わたしはギャラリー島田さんが好きなんだよな。ただ率直に。
作られた優美ではないし、でも、ただ人間臭い芝居もない。
作り手はどこにどこまで自身で心血を注ぐべきであって、
どこからがギャラリーという立場での心血の注ぎ方であるか を、明確にしていて、
そこには、内輪や縛りも無くて、自由である事を与えてくれる上に、拠り所にもなってくれる。
駄目になったら、諦める自由もくれるし、
わたしのように自分のことをよくわからない、わたしのことをよくわかってるヒトのいない人間に、芸術家の凡ゆる現実を嘘偽りなく見せてくれる自由もあって、
だから好きだな。
なくなってほしくない。ずっとここ数年そのことばかり願ってる。

本当は、鬱々と考えてばかりせずに、ただ、無駄な考えは捨てて描くべき、作るべきなんだよな、わたしは。
費用対効果とか、これからの世界情勢がどうなるとか、わたしが考えても仕方のないことをわたしは考えてしまう。
無責任な言葉ばかりが飛び交うし、わたしは多分、あまりに無防備だから、社会にとっては容易いんだよな。
出口が見つかれば、こんなにもサラッとわたしの心は陽が差し込む。
わたしの愚かさは、初めから意味なんて持たないことなのに、やっても意味がないかどうかを考え続けてしまうところだな。 たぶん。


aune
2021/04/14