めっちゃおなかいったぁ、、
ど貧血、フラッフラや、2日目や、
遅れてきた分、重ぇんだよなぁ、月経っちゅーやつは。

明日、わたし、37歳になるのによう。
ピークの3日目かよ、せっかく、多分月経前だから異常なほど食べたかった、マカロンを楽しみにしてたのになぁ、
今、全っっ然、食べれる気がしない。
そっかぁ、月経前の食欲やったんか、ただの。
ついうっかり、誕生日に気を取られて周期のこと考え忘れてただけやん、あー、オモロ。

わたしの誕生日は
高三の時は下校時、原付で雨土砂降りの中、
高校の校門出口で、いつもは居らんし、だーれも止まらん、何の事故も起こらない場所での
『一時不停止』という最もダサい切符の切られ方をして、原付の学校指定のレインコートって、結局あれ、前閉じのボタンやから、
雨水がちょうどおしっこ漏らしたみたいな制服の濡れ方するという、絶妙にムカつく働きしかせえへんっちゅう悲しさやねんな。
学校出て数秒で、最も下校中の生徒の多い場所で
「そこの原付、止まりなさい」と、コールされ、
パトカーの中で免許証出したら警察官2人に、
「ハハッ、今日誕生日やんッ」
と、笑われ、
帰宅して罰金の紙をリビングのテーブルに置いて、
「母がケーキを買ってきてくれるけど、下手したらケーキがクソまずい叱られ方するんやろなぁ」
って、
自分の部屋で机に突っ伏してひとしきり絶望に浸りつつ、
母の帰宅の音で心臓バクバクして、おかえりも言わずに呼ばれるのを、頭を抱えて耳を澄まして待ってたなぁ。
車の音が近づいて、車庫に入って、ドアの音、近づく足音、玄関の鍵の開く音、扉が開いて、
足音がリビングへ、そして、母の見ている世界が手にとるようにわかる物音の静寂、、
わー、見てる、、ビックリしてる、、バレた、、あー、母の気分の色が変わった、、来る、もうすぐ来る、、カウントダウン、、、始まる、、3、2、1、、
階段の下から、一際響き渡る
「杏ちゃーーん!!」
の声。。
さいっっあくや、、めっちゃキレてる、めっちゃ声でかい、かなりキレてる声色。
わたしは泣き腫らして死んだ目を連れて
「はい-」と、とぼとぼ階段から降りて、リビングへ。
完全に罰金の紙を持って、ヤバい方のしんとした空気の母と目を合わさず、
「ごめん、ソレ、、」
とわたしが言いかけたとき、
「警察も誕生日くらい多めに見ろや!!」
という、母の怒号が飛んだ。
それは、わたしに叱り付けているのではない、まるで極道のようなブチギレ方の母の予想外の声に驚いて固まっているわたしに、
「ねぇ、杏ちゃん。」
と、普通のトーンで言ってきたので、わたしは
「あ、、。うん。。警察も"誕生日か"って言ってた。」
と言うと、
更にブチギレた母は、
「はぁあ?!! ほんま、アイツらぁ!!」
と、警察にブチギレ、罰金の紙をテーブルに叩き投げていた。
その時は姉も進学していたし、高校生の妹と単身赴任中の父は高知市内で二人暮らし、
母と2人の誕生日は、たまに出る母の怒りの矛先がバグっていてくれたおかげで
普通に食べたケーキが何だったは覚えていない。
まぁ、今となっては、すごくいい思い出の誕生日になっている。
その2年後、神戸で原付の免許の更新を忘れていて、帰省した時に、
母に免許更新を忘れたことに気づかれたときは、
普通に母はわたしにブチギレ、
「ほんとにバカ!!この子はほんとにバカ!!」と、何度も叫んで、わたしは漫画のようなゲンコツを頭にくらったけど。

だいたい転校やら、新学期やら新入で祝われたりというか、知られもしない"がっかりバースデー"だというのもある故かもしれないけど、
結構この誕生日には慣れてはいるものの、20代のうちは、それなりに何か素敵なことでもあって欲しいなという気持ちはあったんだろうなぁ、、。
と、今では思えるのも経たなぁ〜。
19歳の時は、神戸で進学して、特待生だったのでなんだか生徒代表挨拶?みたいなのんを学校から頼まれて、
そういう立場であるはずのないマネをして疲れて入学式を終え、帰宅した一人暮らしの部屋で
別に寂しいとか、ホームシックなどではなく、寧ろ、解放感の方が大きかったのに、
なんとなく、母からの「お誕生日おめでとう」のメールと、
夕陽に照らされている何もないテーブルを見て、よくわからないけど虚しさから、涙がちょっと出た。
一年後、20歳の誕生日は、その時転がり込んできて気づけば、わたしのお金とか持っていってたよくわからないけどたぶん付き合って?いた人に、
誕生日の時刻など終わった真夜中、酔っ払って帰ってきて、日付変わって賞味期限切れのケーキを貰ってきたことに拗ねてみたところ、
めちゃくちゃ逆ギレされて、そのケーキを外のゴミ捨て場に投げ捨てられてしまい、わたしは勿体無くて泣きながらゴミ捨て場のケーキ食った。
23歳の誕生日には、色々あって、仕方なくケーキが無かったわたしの誕生日の事をCoral Cell(当時組んでたバンド)のスタジオで話したから、
ベースボーカルの たまちゃんが、
「誕生日は、丸いケーキやんなぁ!!」
と言って、ライブの時に、少し遅れて楽屋で準備している時に手作りのケーキを作ってきてくれて、サプライズで ドラムのドガちゃんと3人で祝ってくれたのは、嬉しい思い出。
24歳の時には同棲していた人が、いつも通り、帰るから待っててと言って帰って来ず、
連絡もつかなくなったので、一応近所を探してみると、家のすぐそばの北野の坂道で泥酔して転がっているのを見つけ、
「ねぇ、何やってんの?」
と、言ってみると、
「あんり〜、おでな〜、ケーキ買えへんかってん〜、せやからな〜、帰られへん〜」
と、わざとなのかわからないが泣いて喚いて全然立ち上がろうともせず、めんどくせぇわ、疲れてるわ、寒いわで、憤慨するわで、
「わかったから、ええから、誕生日終わってるし、寒いから早く帰ろうよ、ねえ!」
と、深夜の北野の急な坂道を、グッダグダの酔っ払いの駄々こねを重くて担ぐことも引きずる事もできず立ち往生し、
「おでな〜、あんりが眩しすぎるねん〜」
と言って泣いている人を2時間ほどただ見ているという、FMLな気分で過ごした。
というのも、23歳の時に愚痴った誕生日は、
ただただ、わたしのたまの休日、誕生日を、その人がただ食べたいものを食べ歩きするのに付き合うだけという事を
まだ、可愛げのあったわたしが、その誕生日の翌日目覚めた時、
眠いし、バイト行きたくねぇし、プレゼントもねえし、なんだったんだ、みたいな気持ちになって
朝から「ケーキが無かった〜。」と、泣いてしまったからなのだが。
25歳の時は、バイト先の2軒目のSMBARで、
ママさん達や、4つも歳下のめっちゃしっかりしたAZちゃんというスタッフと、お客さん達で、
「auneが25歳なるんwwwww」
と、爆笑して頂けた。
が、わたしのポンコツさと年齢に関して笑われて貰えていたのもピークだった。www
誕生日はとにかく色んなものが忙しなく、働き詰めで、ぶっ壊れ続け、よく覚えていない。
ただ、母から届いたバースデーカードだけがあった。


26歳のわたしはひとしきりぶっ壊れた後の、人生が終わるか終わらないかの危険な時期にいた。
一人になって、東京のフリーペーパー"EZ"に、作品記載の依頼や、バンド活動、そして、絵がわたしの命を繋ごうとしていた。
なのに、この世界の無情さと無秩序を思い知り、キャンバスに描いていたのは、ただ、雲の中の景色ばかりを、油彩で、雲の中の一枚をずっと描き続けていて、わたしは一人、もがきにもがいて新しく暮らし始めた元町のアパートに居た。
そのアパートは変な現象が多く気味が悪かったのだが、
住み始めて半年足らずなわたしの誕生日の日、
何故か誰がなのか、何なのかわからないが、
わたしの部屋の郵便ポストに、サビッサビの 10円玉が入っていた。
その日はその後、心配する妹と母が来てくれて、3人で丸いケーキを囲って祝ってくれたのだが、わたしは途中からバイトに行かねばならず、まだ住み始めたのできれいな方だったわたしの部屋で一夜を過ごした母と妹に、部屋を物色されており、その中に、知人から頂いたものの、まだ読んでいなかった『DDT』という、丸尾末広さんの漫画を見つけた二人が、
わたしがバイトから帰宅した朝方、ものすごく血の気のない顔で、その漫画を差し出し、
「、、杏ちゃん、、こんなもの読んでるから心病むんよ?」
と、真剣にドン引きされた。

実はそのバイト先で、わたしはその時、
"そらちゃん"だった。
お金のためだけに顔を会わすだけのスタッフさんから、丸いバースデーケーキをもらうとは思ってもいなかったので驚いたが、
2人がいる手前、そのケーキを隠した為に、翌日食べようと出した時には半分崩れていて、
色んな意味でなんか変にホッとしたのを覚えている。
27歳は、個展の直後、Coral Cell のドラムのどがちゃんが、ケーキで祝ってくれ、
最後のライブになった、ヘラバラウンジにて、元メンバーのたまちゃんが来てくれ、キノコポットのチョコをプレゼントしてくれた。



29歳の誕生日は、世界には秩序などないという暴力の餌食になった者は、それを利用され、一生詰んだまま、出ても地獄、いつ殺されても仕方ない簡単にプチっと無くせる存在として覚悟をしながらも生きなければならないことを宣言させられた。
ストーカーによる誕生日のカウントダウン、血の手紙、法の名の下の無法、
この世界には、殺して生きている人間と、それらを守るためだけには、わたしの生命など どうとでもできる。ただ静かに黙って死ぬまで朽ちることを命じられたから、
わたしは、誰かに誕生日を祝われることへのトラウマに変わったのかもしれない。

それからのわたしは、誕生日
とにかく嫌な気分になりたくない、心静かに穏やかにただ自分で噛み締めておきたい日として、
もう7年間はそのように寝てダラダラして刺激のない1日を心がけて過ごしてます。

でも、いいこともあったよ、一昨年はNかまんさんに江戸前寿司奢ってもらったし、
Yヨ先生には、Bluetoothのヘッドホンをおねだりして頂いちゃったりした。

相変わらず、お互い、3歳と4歳からの親友であるミーモちゃんとは、未だにこの30年間、欠かさず誕生日を祝い会ってきた。
わたしの誕生日がどんな時でも、学校が離れても、お互いにどんなことが起こっていても変わらないかのように。
あぁ、中3の、15歳の時は、人生で初めてだったな、
ただでさえ何かしら良くも悪くも浮いてしまうのに転校生という、そらそうなるわなっちゅー、
わたしは完全に干されてた田舎で、干されまくっている真っ只中なのに、
多分きっと、ミーモの呼びかけで、昼休み、テニス部の部室に目隠しされて連れてかれてクラスメイト数人がサプライズで祝ってくれた時は、
正直、
「あぁ、こんな日に限ってボコられるんかなぁ、、やっぱ厄日だ」
と思っていたから、目隠し取からの、すげえハイテンションでサプライズされて
気持ちの落としどころがわからず、なんだか申し訳ないくらい無反応をしてしまったから、集めてくれたクラスメイト、ミーモ含め、本当はわたしのことを干してなどいなかった友達は、ちょっとガッカリしただろうな、、。
いざ、一度されてみたいくらいに THE・誕生日の祝われ方をされたらされたで、わたしはやっぱりこの日に生まれた人間の色があるんだというのは、悲しいことなんかではないし、
、うん、、なんやかんやで、いいこともあったなぁ。

それに近年は本当に穏やか。
一人、猫と一緒に妙に気負わず平和な1日を過ごす事が何よりだと噛み締める。
嫌な言葉も聞きたくないから人前には出ない。
なんとな〜く、絶対笑える冒険しない鉄板のお笑い動画を観て、
なんとなく長い1日の時間の中で、よくわからない涙を流して、日付けが変わって終わったら、
「あああ〜、、よかった、終わった〜、ふぅ〜。」と、気分を害さなかった無難な1日の終わりに安堵する。

やっぱよ、誕生日って、一年で唯一、
嫌なことがあったら、最も刻まれてしまう記憶に残らされてしまう。
とにかく出鱈目でも、現実でも、時間なんてあってないようなもんでも、誕生日は誕生日。

期待はしたくもない、変に派手だと気持ちの整理も面倒だし、忘れられるほど忙しいわけでもなければ、覚えておいて欲しい人達に囲まれて生きてるわけでもないから、それがわたしの誕生日。

さて今年は、37歳。
もう誰も、何周も回って笑うに笑えない、
「相変わらずやなぁ」
と、
「まだ生きてたんか」
と、言われ続けるし、
それはそのままそうゆうこと。
今年はピークの3日目の月経で体調最悪というのは、
今のわたしに、ちょうどええかもしらへん。

なーんにも要らない。
ただ、ムカつくけど無視できない日、無くてもきっと、生まれてきた人間には自分の日を持たない人間など居ないと思う。

一応、ベタに、自分の誕生日の空は見るけどね。笑
そして、ベタに特別に感動してなんとなく涙を流して、深く呼吸して、
誕生日の日の空気の味を人知れず静かに心奥深く味わったりするけどね。

あー、口内炎も出来てて痛えなぁ~、、
早く終わってくんねえかなぁ、明日。質量が重い1日。

嫌なことあったら365倍傷つく日やからなぁ。
絶望すればするほど、見せつけられるのかもしれないね。


aune
2021/04/10