10月 21日 2020年

神戸三ノ宮 22:00 発
東京行きの 夜行バス に乗り、
父の住む 福島への旅が始まった。
一昨日、神戸に帰ってきたわたしだが、旅中は、
最後まで父と喧嘩する事なく、どちらもへそ曲げる事なく、気分良く過ごすのが、絶対目標であった事と、
父の家は殆どスマホの電波がわたしは入って来なかったため、
ツイートやインスタという、" なう "的投稿は無理だった。
それにこういうご時世、一人暮らしで、家を空けてまーすと言っているような事は避けるべきというのもある。

毎度のことながら
時間の逆算がグダグダのわたしが、
3日以上、猫を残して家を開けるのは
前回アメリカ カンザス へ行った以来の
およそ2年ぶり。
コロナ渦、GoToにも縁遠い生活を送る
基本 引きこもりのわたしは、
荷物と、ペットシッター さんへの張り紙



を、
出発 4時間前に完全完了。
と、思いきや、
22:00 を、
20:00 と読み間違えていたため、
最終確認で気がつき、6時間前に完了。
こんなことはよくあることで、
バンドをしていた時も、大人の係り、全般を担ってくれていたドラムちゃんにも、
ライブの集合時間は、事実を告げずに、
その2時間前をわたしに知らせて欲しいと注文していた。
しかし、それを自分が頼んでいるのだから、
勿論、その2時間前だということは理解しているのであまり効果はない。
遅刻魔というか、ルーズというか、
普段、自転車移動が常だが、待ち合わせ場所、到着場所、どこでも自転車に乗れば2分で着くという
大いに間違った思考をわたしは持っている。
電車や地下鉄、新幹線やバス、地上を移動する乗り物は全て、
三半規管がイカレちまって、乗り物酔い、人酔い、音酔いするし、
天性の方向音痴で、道に迷うのは、もはや当然、
それらを踏まえて、
家を出る時間まで下痢と知恵熱は悪化し続け、
コントみたいなマジな話、
道に迷う前に、行くかどうかで直前まで迷う という為体。
実際、これで、外出事態、
行くかどうかで迷った挙句、『行くのをやめる』という選択になる事は、10回に1回あるくらいの頻度で充分起こり得るのが
わたしなのだ。
わたしの家族は、昔から全員そうだった。
時間は守れない、方向音痴、そして、喧嘩勃発。
昔から、家族で旅行や外出する前夜に父が、
母、姉、わたし、妹 に、
「明日は絶対 9:00 には家出るぞー!」
と言うが、
全員(父含む)、9:00 に起床するのが普通。
家を出るのは、予定の2時間後というのは、もはやそういう文化だった。
そして、出発前から、
ヤレ、誰が一番遅かった、
ヤレ、誰のせいで遅れた、
という しょーもない責め合いが毎度毎度
はじまるわけで、乗っけから暗雲しか立ち込めない、滅多にない家族旅行は始まっていた。
そして、父と母、どちらもかなりの方向音痴、
ホテルや目的にまともに着くはずもなく、
ヤレ、あの道を曲がったせいだ、
ヤレ、どちらが正解だった、
と、どう見ても、どっこいどっこいの口論が始まり、更に車内は殺伐とする。
母は、
後部座席の、姉とわたしと妹に、
「今の聞いた? 酷くない?」
だの、
「信じられん、」だのと、母への賛同を無理強いしてくるし、
父は父で、
「今のはお父さんのせいと違うよねえ!」と、怒鳴りはじめる手前のヤバい声量へと変わってゆく。
後部座席では、わたしは元々三半規管が弱く、すぐに車酔いをして、気分が悪くなり、脳貧血の発作も相まって、
しょっちゅう 車内で吐いていたわたしは、
頭部を下げ、出来るだけ安定させるために
我々三姉妹の座る、後部座席の狭い空間でも、
出来るだけ小さく丸くなって、頭を下げて、ギリギリ横になった。
姉は、そんなわたしを、昔から、
「あんたは 我慢が足りない」だの
「あんたのわがままでみんな迷惑してる」だの
「杏(わたし)が 邪魔」だの
と、
責め立てるのだが、こちとら、ギリギリの意識で上(口)からも、下(下痢)からも、出るものを堪えるのに必死で、反論や、返事をする事すら出来るはずもなく、
出来るだけ、面積は座っている状態とほぼ変わらない様に小さく丸くなって、酔いに、ひたすら耐えた。
どうせ吐けば吐いたで、誰も心配してくれるどころか、迷惑だと罵られるし、
どの道、罵られるのだから、吐かない様にする事が優先だ。
姉は喘息やアトピー性皮膚炎が有り、虚弱体質、
「杏(わたし)は、男の子みたいに活発で、身体が強くてお姉ちゃんの気持ちなんかわからんやろ」
と、言い聞かせられてきたのだから、
洗脳とは恐ろしいもので、
わたし自身、自分が、もしかしたら姉よりも虚弱体質なのではないか?と気づいたのは
20代も後半になってからだった。
『バカでわがままでブスなどうしようもない残念な妹を持ってしまったがために、損ばかりしている、美人で体の弱い優秀な姉は不幸です』
という、設定は、
姉本人だけでなく、わたし自身もそう思い込み、姉のその心理誘導にされるがまま、
活発でバカで元気な子として、まんまと姉の企てに加担していたのだから、仕方がない。
車酔いで、なるだけ小さく丸まって横になっても、ずっと遠のく意識の向こうから聞こえる姉の声にも、
「・・ごめん」と、吐きそうになるので小さく言うのが精一杯で、
ずっと、二十歳を超えても、わたしは自分が我慢できない人間だと自負していた。
社会に出て、19歳の時に、キッチンホールのバイト先でぶっ倒れ、
搬送された病院で、自律神経失調症と診断された。
そして、血液は非常に健康で、平均的な女性の血液でも珍しいほど鉄分が足りており、
「貧血ではない」と、ようやくわかった。
小さい頃から、わたしは自分の体の不調をうまく伝えられず、病院に行ってもその殆どが、
「精神的なもの」
で片付けられてきた。
わたしは昔からよく突然ぶっ倒れるので、母には、
「杏ちゃん(ワテ)は、貧血があるから ほうれん草いっぱい食べなさい。」
と、家族の夕飯で、鍋などの際には5人分のほうれん草はほとんどわたしが食べていた。
サラダも、なんでも、ほうれん草が出れば、わたしに回ってきたし、
わたしは、肉より野菜が、ただ元々好きだっただけで、ほうれん草はいっぱい食べられるわ、
子供は野菜嫌いという、変な固定概念から、大人達には、野菜を好き好んで食べるだけで、勝手に褒められるのだから、ラッキー極まり無し。
ただ、姉は野菜や、好き嫌いが多く、それら、姉の食べ残した緑黄色野菜は、漏れなくわたしに回ってきて、平らげる事で、
いつのまにかわたしは「食い意地の張った子」というレッテルが着いていた。
多分そのおかげで、血液も鉄分が豊富だったのだろう。
脳貧血は血液の循環が悪いのだから、ほうれん草を食べまくっていた事とは無関係だとわかったのも、つい、10年程前だ。
、、今思えば、わがままなのは姉である。(小声)

家族で遠出するイベントでは、わたしの車酔いと下痢が、
なかなか公衆トイレのなかった、コンビニもなかった当時の高知の田舎道では、
結果、わたしの下痢の波に、家族全員で
「次のトイレまで我慢できる?」という話題に一点集中し、
「うん、喋ったらヤバい。」
「あ、今波おさまった、、、でも声出したら無理、」
「あ、ヤバい、、来た、最悪、野糞する、、」
と、青ざめて声を出したら漏れそうな
わたしの下痢のおかげで家族は笑いが取れたのだから、わたしの三半規管のバグも多少の価値があったと思っている。
家族の食卓でも、早食いのわたしは一番に食べ終わり、すぐに「うんこ出る」と言い、
便座に長時間座るのが嫌なわたしはかなりの早さで排便を済ませ、
あまりの早さに、便秘気味だらけの家族からは
「早ぁ〜!!」
と、笑われ、
夕飯がカレーならば、家族全員、ここぞとばかりに、うんこの話をして爆笑、
「うんこの話しながらでもカレーも食べれるよね〜」と言って、全員、「うん うん。」と頷いて笑える
という、沸点の低さ、
うんこ と、屁 に関しては、馬鹿みたいにすぐ笑い、結構引きずって笑える幼稚さのおかげで、
家族のピリピリしている車内では、
わたしがすぐに、便意をもよおすことで緩和されるという点で、良い働きをしていたのだ。
後部座席では、基本的に、
「杏(わたし)は 真ん中ながやけん、真ん中に座りよ。」
と、窓側に座られせない姉の底維持の悪さ炸裂の謎のルールで、姉と妹に窓側を奪われ、
最も車酔いを悪化させやすい嫌な定位置を設定されるのだが、
わたしが発案した " ジャンケン "というシステムを導入することは、後に許されるようになった。

つまり、
そんなこんなで、わたしは生まれ育った家族そのものが、
”時間" ひいては "時感" に対して 非常にテキトーであり、
" 方向音痴 " なのは、どちらをとってもDNAに刻み込まれている。
ナビを聞きながらでも、右と左がわからなくなるほどバカだし、
母の教えで、「わからん時はヒトに訊け」の通りに、
わたしは、地図を見てもわからない、角を曲がればわからないのだから、
他人様に道や、わからないことはすぐに訊ねる能力だけが卓越しつつある。
不思議なもんで、そういう時に適した人材というのが、寄ってきてくれたり、
初めは怪訝そうでも、
最終的に、
「Have a good travel ‼︎‼︎」
「Thank you So So much !!!!!」
「「 Fooooooo !!!!!」」
からの、ハイタッチ という流れを作る、頼り上手になってしまっている。
わたしには、そう言った面での "恥" や、" 意地"という概念は、結構人生の早い段階から、もはや皆無なのだ。

今年初めに、わたしが手を出したUber eatsの仕事も、両親からは
「ウーバー?聞いたことない。何それ、大丈夫な仕事? わけのわからない(聞いたことがない) 仕事はせられん‼︎」
と言われ、猛反対を受けたものの、
そもそも、駅の女子トイレでさえどこから入ったか道に迷う程な、
極度の方向音痴なわたしにとって、不向きでしかなかった。
Uberを最近知った、我が両親は、過去の己達の無知を すっかり忘れ(または、お得意の棚に上げ)、
今では
「時代の  よみ方は 良かったんやけんどなあ!」
と言って 笑っているといった有り様。

昔話が長くなってしまったが、(いつもの事)
今回、8年前から福島県、現在は南相馬市に住む父のもとへ、
ようやく家族で初めて、"どうせいつでも暇 野郎"こと、確かにそれを暇と言えば暇な わたしが
行くことになったのだった。
夜行バスで、神戸 三ノ宮から、東京駅へ、
東京駅から、バスで福島県いわき市へ、
そして、今年3月に、9年ぶりに全線開通した、
常磐線に乗り、父の住む南相馬市、原町駅へ。

夜行バスには、過去にも
10年程前、夜行バスで 実家に帰省するといった際に、
いつも、家を出る際に(時感がバカだから)、
ワタワタして忘れ物をして脳貧血の発作が起こり、ドタキャンするというわたしの日常に考慮し、
高速バスは、チケット代は支払っているし、
ドタキャンなどできない時に限って勃発させてしまう遅刻ドタキャンとは別のパターンのやらかしをやらかしている。

準備、身支度を早々に終え、その為に前日から余り眠れておらず、疲れ、ただ時間を待つ。
あとは家を出るだけ。何もする事がない、家を出なければいけない2〜3時間前の、油断の空白
こと、デンジャー タイム がある。

、、あと2時間か〜、、
ちょっと横になろう、、ちょこっとだけ、ちょっと、一瞬、目を閉じるだけ、、、、

からの、次に目を開いた瞬間、バスの発車時刻を指す時計が目に飛び込んだ瞬間、真っ白になった頭で飛び起き、
完全にもう手遅れなのだが、
遅刻決定の目覚めの時特有の、あの、足のガクガクガクガクの震えで、数秒立ちすくみ、足の震えはクレッシェンドしてゆく、
その震えを誤魔化すかのように、部屋をぐるぐる彷徨き、頭をモジャくり返しながら、何も頭に浮かばない。
そして、泣きじゃくりながら母に電話。
完全にパニクッているわたしは、
「もういい!!もう帰らん!!」
と言って、おんおん泣き、煙草を一気に3本ほど一気に吸って落ち着く。
母が、
「新幹線代、出しちゃるけん、帰っておいで」
で、なんとか話は纏まり、
新幹線を乗り継いでその時は実家に帰った。
そのわたしのマヌケ話は、あっという間に家族に伝わり笑い者になった。
日頃、家族内の話は、わたしだけ全然回ってこないのに、わたしの "やらかし"は、瞬時に知れ渡り笑いのネタにされ続ける。

今回も、家を出る2時間前(厳密には間違えていて4時間前)に、油断の デンジャー タイム を迎えてしまったわたしは、
猫達と、暫しのお別れも散々し尽くし、
空腹だとバス酔いしやすいため、
バスの中で食べる為に用意した、
お魚ご飯と、だし巻きと、梅のおにぎり
の、余りを試食がてら食べたせいで腹を下し、
知恵熱が出てきて、時間を持て余し、
熱があってはバスにも乗れない事態に不安になりながら、
なかなかこない出発の時刻待ちにとうとう疲れ果て、畳んでおいた布団をまた広げ、横になり、
部屋の灯りを消した。
不眠症で眠剤を飲まなければ眠れない癖に、こんな時、眠りの門番がすんなりわたしを招き入れようとする。

大丈夫なのか(すべての意味で)⁈ と心配する父と母からの連絡に、
一応、寝過ごさぬよう、目覚ましの依頼を出し、
なんとか、寝落ちせずに
準備疲れで、既に知恵熱が出て、変な時間に腹を満たしたせいで腹を下し、睡眠不足で時間酔いをして吐きそうではあったが、
なんとか出発時刻を迎え、予約しておいたタクシーに乗った。
22:00 を 20:00と読み間違えていたせいで、
三ノ宮のバス乗り場で、2時間半ほど待機する羽目になったが、その間、
母が、わたしが眠らぬよう、LINEでチャットをし続けてくれた。

いよいよバスに乗り、心配していた知恵熱も難なく通過、バスに乗ったことを両親に告げ、
めちゃくちゃ狭い、ぎゅうぎゅうのバスの中、
出発した瞬間、眠剤をキメ込んだ。
マスクの下では鼻水よだれを垂れ流し放題で、眠りに吸い込まれたが、
すぐに目が覚め、トイレ休憩で、持参したおにぎりを食べ、二度目の眠剤投入。
次にバスの中、尿意で目覚めた時にはもう、日付け変わって10月 22日 早朝の東京駅だった。

そこから、歩いて、いわき行きのバスへ乗車した。
2時間ほどバスに揺られ、途中、トイレ休憩を挟んで、福島県いわき市へ到着した。
下車で もたつき一番最後にバスを降り、運転手さんに常磐線への道を訊ね、
意外とすんなりいわき駅へ到着した。
原町駅への電車まで1時間以上あり、煙草を吸ったり、耳に入ってくる人々の話し声の訛りに、
" 旅に来てる感 " にほっこりしながら、
12:13発 常磐線、原町方面行き に乗車した。



(↑わたしの防犯方法の、「この荷物盗見たくねーな、これの持ち主と揉めたくねーな、なんかある意味恐ぇーな」と、思わせる仕様。これが、わたしの生きる術である。)


斜め前には、ものすごい勢いで弁当に食らいついているお爺ちゃんが居て、
電車が出発すると、どれも外壁が新しい家々や、団地。
長閑な田園風景に似つかわしくない、色褪せてもない民家や建物ばかり。
ショベルカー、工事現場、たまに走っている線路の横に近づいてくる錆びついて埋まりかけの使われていない線路が見えた。

およそ9年と半年前の、2011年3月11日、この場所に起こった事が、
画面の向こうからは感じられなかった生々しさを感じ始めた。

あの日は、26歳だったわたしは目前に控えた、
島田ギャラリーさんでの、4月2日からのデビュー個展へ向け、これから画家としての大きな転換期へと着々と準備を進めていた。
ギャラリー島田さんとしても、こんなに名の付いたバックボーンも、バックグラウンドも、受賞歴も、所属も、学歴も無い、
正式な場では、無名 以外の何者でも無い、
極めてアウトサイダーで、26〜27歳そこらの、しかも女流画家、という事はなかなかの、新たな試み、実験的な意味も大いにあった。
それが、結局、実験データとして全く役に立たなかった結果に終わったことは、言うまでもない。

2010年 10月に、デビュー個展の本契約をした日以降も、
わたしは搬入ギリギリまで "わたしの一番新しい‼︎"を、描き続けていたところだった。
作品点数は、足りていたし、現在公表しているわたしのオフィシャルページ(現在、2013年以降のアップロードを怠っている)にある、わたしの絵画作品の軽く6〜7倍は、作品があったが、
本当にプロの領域に入るのだという事で、プロデューサーが、
「これは傑作、これはあっち過ぎる、これはギリギリこっち、、」
と言った具合に振り分けた。
オフィシャルウェブも、変な4コマ漫画や、変なブログ、変なコラム記事、など、変なものは取り除き、
その個展からのために、スッキリ全て作り直したのだった。
(aune official web↓) from 2005
http://auneweb.com/

そのぐらい、意気込んでいた。
(title : タリラッタ aune    2010年 12月 作)
(title : ラリラッタ    aune  2011年1月  作)

2011年、3月12 日に、わたしのデビュー個展、
『affection aune 〜愛の波動〜』
の、DM が出来たら、
それを持って、神戸のいくつかの新聞社に行くよう、プロデューサーからも言われていた。

そして、3.11 東日本大震災が起きた。

わたしはその日は寝ていて、母からの電話で起き、テレビを付けた。
上空からの津波、見たこともない、わけのわからないその映像から、わたしは、正直、
『全てが終わった』
と思った。

次の日、原子力発電所は水素爆発をした。
わたしは、ギャラリー島田さんからDMが出来たとのご連絡を頂き、
こんな時でも個展はあるのか、と、ギャラリー島田さんへ DMを受け取りに伺った。
既にDMの絵は決まっていたが、余りにもタイミング的に困った事になり、
失笑。。
(title: Etheria        aune 2009年 作)

後に、このDMに使われた作品(ギャラリー島田さん所有)、震災前に、連作で描いた「タリラッタ」「ラリラッタ」などが、当時、
『予知画』
といったご感想へと結びつき、その結果、昨年のマレットジャパンオークションで、ギャラリー島田 社長さんが、わたしの紹介文に
「画家、音楽家、作詞家、デザイナー、モデル、または霊視家。」
といった、非常に本人(わたし)にとっては全てが不本意である " 霊視家 " なる異名がくっつくキッカケとなってしまったと考えられる。
わたしは、視神経脳機能の研究といった、自分なりに科学的視点から画面を構築していたのだから、
予知 や、霊視 などは、真逆の思想だった。
しかし、どのように見えるかだけは、人々が感じる事。
芸術という名の元に、科学も霊視も宗教も、垣根はないのだと知った。

2011年3月12日〜数日間、
ダメ元で、一応、ご助言通り、DMを持って新聞社を回ったが、
どこもかしこも「タービンたてや」という言葉しか飛び交わず、

こんな大変な時に 絵なんか描いてんじゃねーよ!
芸術なんかしてんじゃねーよ!
それどころじゃねーよ!
不謹慎だ!!

と、一喝されっぱなし。
「ですよね〜、、わたしもそう思います、。」
と、わたしは衝撃の中、
当時は絶対口に出来なかった、
『持ち前の間の悪さ』という言葉を飲み込み
数年経ってからようやく、
「不謹慎ですみません。」
を添えて、なんとか、
自分の"間の悪さ"を 半笑いで嘆くことができるようになったが、
「音楽ならまだしも、絵なんか描いてんじゃねーよ!」
という、風潮がピークの中、
世間の白い視線を浴び、どこの新聞社のどんな小さな枠にも取り上げられることもなく、
ギャラリー島田さん史上、最も来廊者数の少なかった1週間 (2011.4/2〜4/7) に、
密かに開催されていたのである。

わたし自身、溜め込んでいたお金で、個展が終わったらオランダへ移住しようと、
震災直後から、オランダ大使館へ、オランダへ亡命したいとのやり取りを交わしていたのである。。
しかし、オランダの方が、日本より海抜が低い事と、その時のオランダ政府は、移民を母国へ返す政策が進められており、
何故オランダなのか?という点で、わたしの邪な理由がモロバレしてしまった。

あの時は、本当に、日本が終わった、芸術は終わった、わたしも終わった、お先真っ暗だ
と思った。
そしてそんな私情、言えるわけもなかった。

絵を描いてるだけで、個展をしてるだけで、たまたまその時だっただけで、
罪悪感を抱かずにいられなかった。
ミュージシャンは、元気を与えに行けても、わたしのような感度に逆にやられてしまうような役立たずなだけの者は、
沈黙する他なかった。そういう時代だった。

初めて行った福島県、
初めて目にする風景からは、
震災前を知らずとも
そこにあった人々の暮らし、
ある日突然無くなった生活と風景、
それから9年の年月の経過を感じるに、わたしにはあまりに充分過ぎる風景が車窓から見え続けた。
おそらくわたしに、震災があった事、被災地だという前情報が無くても、
長閑で風情ある風景や、きっと歴史ある家並みと生活がもっと美しくあったのであろう、
西日本では見ない、樹木たちの醸す情緖からは、まだ異質を感じる真新しい外壁の建物たち、
均一に枝の生えてない、松の木々や、生命力の厳ついセイタカアワダチソウに浸食された田畑、









人によっては、これらを、霊感とか、感受性と呼ぶのだろう、
わたしはそのように自覚もしていないが、
何が不謹慎で、何がそうでないのだろうか?
何もかも無くなって、また、何もかも語り継がれてゆかねばならぬとされる。
でも、どこで何があっても、其処には全てが移ろう時間が流れているし、
どんな事を経験しても、自分の視野からは一生出ることなどできない。
誰もが必ず、人生という全てを、命という一纏めにして終わることは確定していて、
いずれ肉体という家を失って、何にもなかったかのように、残った者たちの数だけ真実の情景があり、人の数だけ語り継がれる。
渦中にあれば、限られた残りの時間に、持つべき欲を持って生きなければならない。
そんな事を思いながら、動画を撮り続けていたわたしは、
いわき駅を出発して間もなく、
電車内で下痢のピークを迎えた。
電車では、地下鉄、何線、何処 問わず、腹を下す。
トイレ付きの電車っぽいと気づき、ヨロヨロと、揺れる車両を跨いで、意識もギリギリ、
持つか持たないかで、車両内トイレを見つけ、
乗車時間の4分の1を、電車の中のトイレで揺られながらようを足した。


福島への旅 ② へ 続く。






aune
2020/10/29