そうして、
わたしと、ミーモは、出逢って、
初めての物理的な別れ を 経験した。

わたしは、4歳の時の、
前触れのない 構築してきた全ての 無くなる瞬間
を体験してから、
「死」というのは、
こういう事なのではないだろうか、
保証されているものなど何一つ無く、
突然、二度と会えない 人や、景色、
帰ることのできない 場所 を持ちながら
今でもわたしは 存在する感覚
というものへの恐れから、
極力、明日は無いものだ、
という心構えや、
心が高ぶった時にも
本当の心の奥まで通達しないよう、
自制していた。

だから、ミーモが砂場で見せた、
あの表情は、しばらくの間、
わたしの奥のわたしが
「考えたらダメだよ!」
と、言っていたのだった。

新しい学校は、田舎の学校の15倍程の人数が居た。
わたしは、ここでもまた、
始まるし、いずれ、別れるから
という気持ちで過ごした。

声が出なくなったり、
田舎とは違い、不気味がられることもなかったが、
変に気に入られたり、
担任の教師に神童的扱いをされてしまう事もあった。
姉の登校拒否の手伝いをして学校に行ったり、
親にも新しくできた友達にも
本当の気持ち を 隠しながら、
時が経つのを待っていた。
ピアノを習えることになったのは嬉しかったし、
算数は、考えても解らないと、
さっさと 諦めたり、
それなりの日々を過ごしていた。

そんな日々の中、ずっと、ミーモからの手紙や
時々、電話での交流は続いた。

ミーモとの 文通の中で、
二人だけの文字を作り、
中身の無い、ただ ただ、ふざけて
その年齢相応の くだらない下品なペンネームなどを名乗っていた。

わたしは、田舎の学校や暮らしが恋しくもならなかったが、
新しい学校や暮らし にも、思い入れも持たなかった。

手話の勉強を独学でやり始めたのも、その期間で、
一日中、誰とも話さない日 も、よくあった。
早く、時間が過ぎて自由になりたい。
自力で住みたいところに住み、根を張れるまで
わたしは、何に対しても
一定の距離を保つと同時に、
来年のわたしと、去年のわたし に、
「来年のわたし! 今どこに居ますか? 今、楽しいですか?」
と、初詣の時に見かける 木にメッセージを飛ばし、
「去年のわたし!わたしは今年もここを通っています!大丈夫だよ!頑張って!」
と、心の中で数カ所の 木々や、
建造物など を介して、
過去の自分を励まし、勇気づけ、
近い未来の自分に、本音を送信していた。

そんな余裕なフリをして
いっぱいいっぱいだったわたしのいつもの怠惰から、
手紙の返事を出せないで居ると、
ある時、ミーモ から
「杏ちゃんから、手紙も電話も来んかったから、杏ちゃん 死んだんやろか と思うた。」
と、手紙が来た。
わたしは、ミーモはとっても楽しく、
以前と変わらず 暮らしていると信じていたし、
夏休みや、冬休みには、
父の実家でもある 田舎に帰省しては、
ミーモ の お家にお呼ばれして、お泊りしていた。
毎回、お泊りの度に パンツを忘れるわたしに、
ミーモのお母様は、
「ええよ ええよ、ミーモ(本名)の、履き〜」
と、笑ってくれた。
ミーモのお母様は、
わたしが田舎で 干されていた幼少期にも、
「自分の好きな人は、相手も自分の事を好きで、自分の嫌いな人は、相手も自分の事を嫌いなんやで」と、わたしに優しく言ってくれ、
お泊りにも
「来て 来て〜 杏ちゃんオモロイから好っきゃわ〜」
と、言ってくださっていた。
わたしのことを、「可愛い」と言う大人の人は他に居なかったし、
親にも祖父母にも、失敗だ、と言われていたので
嬉しさという 気持ちは湧かず、
不思議さが優っていたのが 正直なところだ。
ミーモのお家へ 電話をかけると、いつも、
ミーモのお母様が出て、
喋るのが遅く、テンパるわたしが、
「あ、もしも(し、、)」ぐらいで、
「はーい、ちょっと待ってね〜、“ミーモ(本名)〜、杏ちゃんから電話〜)」
と、なっていて、
最後まで言えた試しがない。


ミーモ も、以前と変わらず ハイテンションで、
学校の話はお互いしなかったが、
夏休み、田舎に帰れば ずっと遊んでいた。

小学4年生の頃に、
ミーモと、同じクラスの友人数名と、わたしの妹や友人の妹 達で、
「大吉」という 安直な名前の 基地を作った。
正確に言えば、完全に他人様の土地に勝手に基地を作っていたが、
田舎だし、多分、子供なので許されてはいた。

そして、わたしは
その基地のメンバーで、
「うんちのマーチ」という、これもまた幼稚な下品な歌を作って、
わたしはオルガン伴奏で
みんなに歌わせた音源を ラジカセで収録、
その カセットテープ を
焼き増しして、大吉メンバー 5〜6人に配布、
「失くした人は、罰金 千円ね!」
と、言ったわたしが
いの一番に 失くして居たが、黙っていた。

そして、わたしの予想していた通り、
小学5年生になる 春休み、
転校 が やってきた。
わたしは、次はどこだ?
と、思っていると、
ミーモの居る、田舎に戻るとの事だった。

出戻り という 展開は予想していなかった。

わたしが出戻って、田舎に戻ったとき、
ミーモのお母様が、わたしの母に話していた事を母から聞いた。
それは、わたしが転校していた3年間、
ミーモは学校にも行きたがらず、登校拒否がちになっていたから、杏ちゃんが帰ってきてくれて、
学校にも行くようになって本当に嬉しい
と、いう内容だった。
わたしは それを聞いたとき、
正直、母は、なんでそんな事わたしに話すねん
と、思いながら、
そんな事も、そんな素振りも 一切見せなかった
ミーモの明るさ に、なんという気持ちなのか、
痛くて、泣きそうな気持ちになった。

以前と同じ学校だが、
以前とは、全く違っていた。
わたしは、ちょうどその時期のからかわれるにちょうど良かった。

「変な奴が来た」
とか、
「高知弁わからんけん高知帰れ」
とか、
喋っていないのに言われたり、
休み時間の度に、隣の学年から入れ替わり立ち替わり
わたしをからかいに来た。
わたしは、そういうものに対してしょんぼりしなかった。
足を引っ掛けて転ばせようとされたら、
その足を踏んづけてやったり、
クラスの男の子が雑巾を投げてきたら、
木で出来た代本番を投げ返したりして、
ちょくちょく、PTAの会議で問題児として扱われていった。

その間も、ミーモとは、学校以外で
よく遊んだ。
大吉 という基地では、
凡ゆる社会の 縮小版をやってみた。
畑を作ったり、
駄菓子屋で買った5〜6本入ってる長いパンに、
チョコベビーを詰め、
チョコチップパン だっつって、
一本 ¥500- で、近所のおばさんなどに売りつける商売をしてみたり、
腹を抱えて、涙出しながら笑ってばかりいた。

だんだんと、大吉 のメンバーも 散り散りになり、自然消滅していった、
わたしが問題児 だったことも大いに関係はあると思うし、
だんだんと、思春期を迎えた周囲には、
「アイツ、マジの やべえ奴じゃねえか?」的な雰囲気が増していっていた。
事実、わたしは、思春期をちゃんと迎えていなかったのではなかろうか。と、
未だに思う。
そして、最終的に、ミーモだけが残った。

小学5年生のある夏、わたしとミーモが、
近くの川か、海にでも行こうか と、水着で散歩していると、
「らんかん」と呼ばれる、小学校の近くの橋で、
ミーモ兄と、数人の男の子達が遊んでいた。
小学生の間では、
その、らんかん から川に飛び込めたら一人前だ
という文化があり、
ミーモ兄がいた事で、ミーモが絡まれてしまった。
男の子達が、
「お前ら、飛び込めんやろ!」と、冷やかしてきた。
わたしは、“嫌だなぁ、早く去りたいなぁ”と思っていたら、ミーモが、
「飛べるもん!!」と、食ってかかった。
わたしは、
「えぇ〜、、」と、思い、
コソっと、ミーモに、
「ねぇ、やめようよ、飛んだ事無いやろ?行こうよ、」と言うが、
「嘘言うな!! 飛べるなら今飛んでみろ!!」
という 男の子達の冷やかしの声は止まず、
ミーモは、
「杏ちゃん、一緒に飛ぼう」
と、わたしに言ってきた。
わたしは、「わかった。」
と言って、ミーモと、並んで らんかんの橋の向こう側に立った。
気絶しそうな程怖かったが、男の子達の野次に、
完全に闘志が煮えたぎっているミーモは、
「せーの、 で、一緒に飛ぼう」
と言い、わたしも腹を括った。
そして、「ビビりー!!」「早よ飛べや!!」という野次の中、わたし達は、
「せーの」で、手を離し、川に飛び込んだ。
5〜6m?ほどの高さか、もっとか、わからないが、
当時のわたしには、相当高く感じた。
そして、一拍わたしがズレたのか、
当時のわたしが ガリガリだったからか、
空中で、ミーモが わたしの真下に来た。
「あ゛!危ない!」と 思った瞬間、
着水し、水面の深くまで落ちて行った。
水が苦手だったわたしは、必死で遠く上に見える水面めがけて登った。
川から顔を出したら、ミーモも、顔を出していた。
そして、男の子達の、
「おおーー!!! やったー!!!」
という 声が聞こえ、
ミーモと、
「やったー!!スゲー!!飛んだ!!!」と、喜んだ。
それ以来、二度と、飛び込んでいない。

2人で始めた次の遊びは、
新聞作りだった。
学校が終わると、ミーモの家へ行き、
新聞を作った。
どれだけ、嘘の変なニュースが書けるか で、笑い転げた。
そして、学校で、クラスの友人に見せて 一緒に笑っていた。
たまたま、わたしがテキトーに作って書いた殺人事件の記事の名前が、
担任の先生のお母様の名前だった。
その担任は女性で 既婚者だったし、旧姓も聞いたことなどなかったし、
本当に本当の偶然だったが、担任が、その新聞を見て驚き、
わたしは更に問題児となってしまった。
その事件以降、新聞作りも消えていった。

それでも、ミーモとは 目的がなくとも
次の遊びは 自然に生まれた。

わたしは
自宅から片道4〜5kmある ミーモの家まで、
その頃わたしがハマっていた
ローラーブレードで、行き、
帰り道の大きな長い坂道で、後悔したり、

わたしが敢えてミーモの部屋のベッドに潜り込み、
そのまま眠ってしまったりしても、
ミーモは、
「杏ちゃん 夜型やろ?気持ちよさそうに寝よったけん、よう起こさんかった」
と、笑ってくれた。
もし、わたしがミーモの立場なら、
きっと憤慨するだろうと思うと、
優しさ とは何か
を、考えさせられた。

そしてとうとう、わたしが既に、
自ら「失くしたら 罰金 千円ね」のカセットテープを失くしていることがバレた。
その時は、ミーモの部屋で、
過去の文通を見て笑ったりしていて、
ポロッとカセットテープが出てきた。
そして、
ミーモが、「あ!これ、失くしたら罰金千円やっけ!杏ちゃん まだ 持っちょう?」
と、訊ねてきた。
わたしが、その瞬間に 自覚なくした表情からか、
すぐに、
「失くしちょうやろーーー!!!」
と、言って笑われた。
わたしは、言い訳も 嘘も 通用しないので、黙っていた。
そして、わたしが既に失くしているという事は
多分、内密にしてくれた。

わたしの部屋は、当時から、
足の踏み場という概念もなく、
壁も、机も空間なく、訪れる友人は、
「うわ〜、、、すごい、、、」
と、言われる状態で、
毎日 母に絶叫され、叱られても
そこまで酷いという自覚すらもまだなかった。
ミーモは、そんな部屋に、
普通に入ってくるのだが、
気づいたら さりげなく整理整頓をしてくれながらも
「片付けろ」と言わなかった。
「なんか、やってあげたくなるだけやけん」と、、。

そして、次に始めたのが、
ラジオ収録の遊びだった。
わたしの家で、ラジカセ二台 と、マイクをつなぎ、
「ラジオのDJになりたい!」
と、ミーモが言ったので、
じゃあ やってみよう ということになった。

台本も作らず、全部即興で、
テキトーなニュース番組や、音楽番組、
学校から帰ってきたわたしの妹を ゲストに、
インタビューをして、リコーダー を披露させて、
ラジオドラマなども 録った。
どっちが相手を笑わせるか で、
笑いをこらえきれなくなったら、
ストップ ストップ!と、中断し
悶えて爆笑した。

そんな、保育園児の頃から変わらず、
おおらかで優しいミーモだが、
たまに、鋭く切り込み、
わたしが考えたことも無かった概念に、新たな着眼点を見出してくれる時がある。

例えば、
わたしは、なんとなく、誰に言うでもなく、
誰に言われたでもなく、ただ、なんとなく、
ブルマーを 履くのが好き だった。
ブルマーを履くと、なんとなく、ルン♪とすると言うか、大して述べる程でも無いが、
そういうところがあった
ある日の 体育の授業 の着替えをしている時、
ミーモが、
「なんで、男子は短パンで、女子はこんなもん履かないかんわけ?! ブルマーなんかよ、パンツ2枚重ねて履いてるのと同じやん!!」
と、不満を漏らした。
それを 聞いたときのわたしは、
まさに 青天の霹靂 と言うやつで、
“ うわぁ!! ほんまや!!! パンツ2枚重ねてるのと同じや!!”
と、ハッとさせられた。
どうして、自分はこれまで何の疑問も持たずにブルマーを履き、
そして、どうしてなんとなく 自分のブルマー姿が好きだったのか、とても恥ずかしくなった。

そうして、わたし達は、中学生になった。
中学生になると、
わたしの吊るし上げは、加速気味になった。
今では廃校になっている 中学校では、
強制的に テニス部 か、バレーボール部 に所属せねばならず、
わたしも ミーモ も、テニス部 を選んだ。
わたしは、新聞配達のバイトをして、
学校に行けば眠り、
お昼ご飯の頃に 起き、お弁当を食べ、
掃除をサボりたいがために、放送部で音楽を流した。

先輩達から、わたしは学校ぐるみ、
地域ぐるみで、
嫌がらせ を受けていた事実はあったが、
わたしは、ただ、面倒くさいだけで
いじめられっ子 という惨めな気分にはなれず、
こんなくだらない事の巻き添えにはしたくない
という
わたしの自分勝手な思いから、
クラスメイトからも、ミーモからも、
どこかで
距離を保つようになった。
嫌いになったわけでも、救いを求めたわけでもなく、
この小さな集落で、
自分のせいで 一緒に気分悪くなって欲しく無かったからだった。

しかし、その事が、かえって、ミーモには辛かったようだ。

高校で、ミーモは市内の看護師の高校へ進学し、
わたしは 別の高校に通っていた。

高校2年生で、お互いケータイを 持ち、
先ず最初に 連絡先を登録した。
ある晩、ミーモからの着信があり、
わたしが電話に出ると、
ミーモは、泣いていた。
「何?! 何かあった? どうした?!」
と訊くと、
ミーモは、泣きながら、
「あのよ、ずっとよ、思いよったがやけどよ、 中学校ん時、あたし、杏ちゃんに何にも出来んくて、ごめん、、」
と、言った。
わたしは、その時初めて、
わたしが良かれと思って取っていた姿勢が、
ミーモ に、そんな風に思わせて 苦しめていた事を知った。
もちろん、何かしてくれなかった などと思うわけもないのに、
突然の ミーモ の言葉に
涙が誘発され、わたしも泣きながら
「もう、そんな風に思った事ないよー、泣くなよー バカ〜」
と、ひとしきり 泣いた 事がある。

といっても、中学の頃も、
全く 絶縁だった というわけでもない。

わたしのだらしなさから、
わたしの部屋で、カメムシの死骸を
机の本棚で見つけ、
わたしはそれを処理できず、恐くて放置しているせいで、
帰っても自分の部屋に入れない 事情を漏らせば、
「ええよ、あたしが取っちゃる」
と、笑って、わざわざ学校の帰り道、逆の方向なのに
その為にわたしの部屋へきて
カメムシの死骸を 放ってくれたり、
わたしが、中学生ぐらいになったら自然とバンドとか組むものだろう
と思って、購入したギターも、
バンドどころか、噂でギター買った事を
からかわれていたのだが、
ミーモは、
「えー!すごーい!!あたしもギター弾けるようになりたい!! 杏ちゃん ギター教えてー!」
と、
言って、ギターを教えてみた事もある。

それに、中学3年になれば、
厄介な先輩方も、居なくなり、
嫌な気分になる事も なくなり、
お弁当を食べ終え、
昼休みに「メディカル チャージ」
という、
変な遊び を 編み出し、ふざけて笑っていた。

小学生の頃ほど、お互いの家を行き来する事は減ったが、
わたしの中で何かが変わった事はなかった。
中学3年生の夏休みから、
それまで疎かにしていた 勉学や学校生活のツケで、
わたしは、進学できる高校が無く、
教師も、成績に 1を点けるのは、色々と面倒な事があるらしく、
本来、1であるはずの 2だらけだと
三者面談で告げられた。
そこから、わたしは強行突破で、
姉の高校受験の参考書を全部 問題と答えを丸暗記するだけ
という手段で、理解もせず、考える事をやめ、
敢えて自分を機械化させる事によって、
半年で 偏差値だけは あり得ない上がり方をした。
学校では、担任から
この成績の伸び方は異常なので、この辺までの高校にしとけ
と、言われ、
塾では、もう少し上を狙ってもいいのではないか
と、言われ、
しかし、わたしは 自分の行なっている方法は、
単なるダミーであり、
何にも理解などしていない ズルいカンニングと同じだと解っていた。
だから、周りが 「やればできる」と驚くのを見て、
罪悪感と、“でも、仕方ないんです、今だけ許してください”という気持ちはあった。

学校での数学の授業で、テストを返され、
問題をわからなかった人には、正解している人が教えてあげて
と、いう時、
わたしは、ミーモ に どうしてそんなに勉強ができるようになったのかと訊かれたので、
罪悪感から、正直に 誰かに話してしまいたかったのだろう、
「あのね、実はね、何にも解ってなくて、カンニングしてる」
と、話した。
ミーモは、ビックリして、
「え!!カンニングって、どうやって?」
と 訊いてくれたので、
「問題見るやん? そんで、その答えを見て、その繰り返しで、同じ問題が出たら、脳みその引き出しから出して、ここ(右斜め上)ら辺に書いてるのを見ながら それを書くだけ。」
と、言った。
すると、ミーモ は、笑いながら
「杏ちゃん! それはカンニングじゃなくて 暗記やん!」
と言ったので、
わたしは、
「暗記って事でええんかなぁ? ほんまにそれでええと思う?」
と、まるで 神に許しを請うかのように 訊くと、
「うん。ええと思う。」
と、ミーモが 言ってくれたので、
わたしも、じゃ、いっか!
と、踏ん切れた。

一時的なものだし、その後の人生へ行く為の単なる切符に過ぎないと、
入った 進学校で、わたしは完全に場違えた!
と、思い知るのだが、、。

ミーモは、高校で マザーテレサ の心を学んだ だとか、
相変わらず、突拍子も無い事をたまに話したり、
いつのまにか、
毎年 誕生日を祝い、
約1ヶ月間だけの 同い年やね というフレーズで、祝い合った。


〜 続く 〜


2019.04.28
aune