絵を描いてゆく
という、生き方を、
社会との接点として真摯に向き合っても、
第三者の、
架空の肩書きであれ、
「専門家」
という、人間の何かしら「評価」が無ければ、
芸術 に、関して、
多くの人間は、
自分自身の感動にすら、
素直にはなれないように感じる事は、
わたし自身、少なくないのが日常である。

ここで、わたしの日常、また、
ニコ生配信 という場所を通して、
よくご質問を受ける、
いや、おそらく、その問いかけ に
そこまで重要な回答など望んでいないだろう、
質問 を幾つか紹介し、
わたしの回答、持論
を、
何度も答えるのが面倒なので、ここに記そうと思う。
それほどに、頻繁に訊ねられ、
頻繁に、応えている、
あくまで、わたしの見解を述べる。
以下、Q.=質問
※=わたしの心情
A.=わたしの見解、返答、回答

今回は、その中の一つ、
「デッサン」と、「デッサン力」
について、述べようと思う。


Q.「デッサン を、描く意味 はあるのですか?」

※この質問は、非常に多い。絵を描く ということの、質問の中で3番目くらいに多い。 
特に、近年は多くなっているように感じる。

A. 先ず、「デッサン」と、「デッサン力」の認識である。
仮に、「デッサン」が、その画人のゴールであり、
「デッサン」と、呼ばれる画面が、作品の完成であるなら、
それは、「デッサン」ではなく、「作風」である。
その点に関して、
「デッサン力」というものへのトレーニングとして、
「デッサン」を指すのであれば、それが単なる通過点であり、
物質を捉えるのに鍛える目的として、向き合うことが、
「デッサン力」を鍛える基礎となり得る。
ということである。
つまり、「デッサン」と、「デッサン力」の違いを、
例をあげて説明する。
「デッサン」が、ゴール、完成形、
「作品」である場合、
例えば、サッカーで、リフティングを練習する
と、する。
リフティング が、物凄く出来るようになり、リフティングを競うという大会 の為に、リフティングをする ならば、
それは、リフティング がゴールであり、
リフティング の選手ということであれば
つまり、「デッサン」でいうところの、「作風」なのです。
早い話が、土俵が異なると言う事です。
そのどちらが優秀であるか、などという話ではなくなるという事です。
「デッサン」ではなく、「作品」となるわけです。
それは、一枚の、絵画 なのです。
そして、リフティング というトレーニングを活かし、
サッカー という実践で、リフティング のトレーニングが役立つ。
これが、「デッサン力」に相当するのです。
つまり、鉛筆、木炭 で、デッサンをすることにより、
空間、物質 の認識力、光の抜け方、通り方の描き表せるトレーニングとして、
それらが、基礎 と呼ばれるということです。
然し、ここで、「基礎」と、「能力」が、
皆、同じ段階が必要であるか?
という事は、「基礎」の捉え方に最も重要な点となります。
例えば、いきなり絵の具(色を駆使して)で、キャンバス(画用紙でも何でも良し)に、絵画を描いたとして、
そこに、「デッサン力」が、あるか否かは、
例え抽象的であれ、写実的であれ、見抜けます。
敢えて、「デッサン力」を見せないようにしても、画面に嘘が無いかどうかは、
見えるのです。
これが、「デッサン力」の意味です。
「デッサン力」があるならば、
「デッサン」をさせても、
ゴールさえ定めればそれなりの「画面」が出来るのが、形として理解出来るのです。
然し、絵の具を乗せることがゴールであれば、
「デッサン」=「作風」であるならば別ですが、
わざわざ、鉛筆、木炭で、トレーニングするのは、大した意味が無いという事は、全然あり得る話なのです。
逆に、トレーニングとして、という目的であれ、デッサン力を備えた作風で、デッサンを描いても、面白くはなると思います。
しかし、描き手、本人にとって、それが楽しいかどうかは、別です。
楽しい=やり甲斐 という意味です。
わたし自身、デッサン、クロッキー、下描き
と、いう呼び名と、その目的を知る前に、
絵の具を使用しており、
画面に起こすツールとして、絵の具から入った人間には、
デッサン力 というものは、必然的に、自覚無くしても、通過してそれを取り入れていました。
事実、高校生の時、それまで「デッサン」という形でトレーニングをした事は、ほぼ、無かったのですが、
ゴールである「作風」に対し、美術部顧問の美術教師の方に、
「デッサン力 は、あるわね」
と、デッサン力に関して、評価されました。
また、ギャラリーの社長さんには、わたしが20歳だった当時、
「もう少し、無視している デッサン力にスポットを当てた方が良い」
と、アドバイスを、受けました。
このように、「デッサン」というものの意味、「デッサン力」とは、何たるか
という事は、
実践に役立てる為の、筋トレ、表現という完成形のクオリティにおいて、
その力の調節、選択して「作風」に響く為の通過点が、
絵画をゴールとした、トレーニングの
「デッサン」の意味であり、
無いものは、使うことも、崩すことも、また、取り入れることも出来ません。
有れば、崩すこと、持ち出すこと、使うことの選択肢として、作品を描きたいように描くために出来ることや、見ることに於いても、活用出来る。
という目的なのです。
デッサンを、下する事がトレーニングとして有効かどうかは、
一概にはそうであるとは思いません。
デッサン力が有れば、逆にやるだけ無駄な事かもしれません。
他の方法で、デッサン力を身につける事が、各々、何が基礎や、トレーニングになっているかは、
千差万別なのです。

そして、初めに述べたように、
「デッサン」と、呼ばれる形が、完成形、
つまり、「デッサン」を、超えて「作風」
という土俵であれば、
それは、もう、通過点では無く、ゴールなのです。
リフティング大会 の、選手 であれ、サッカー選手であれ、どちらが良い
というものでは無いのです。
それが、ゴールであり、ツールであり、
ベクトルが違えど、どちらもプロなのです。

ここで、備考として、ついでに
Q. 下描き、または、デッサン までは、上手く行くのに、色を塗ると、駄目になってしまう。

という、ご意見は、よく耳にします。
本当に、よく聞きます。
わたしには、
「それなら、色を塗るという行程が必要無いのでは?」
と先ず、思います。
または、
「色付けするという行程を前以て見ているのならば、色付けするための下描きを見た方が良いのでは?」
と、思います。
つまり、これこそが、「デッサン」と、「デッサン力」という、ものがあるという、
認識なのです。

今回は、「デッサン」と「デッサン力」というものにスポットを当てて、
お話しました。

{E4A5C4B9-D67D-417E-9A2B-9C453D4110C2}

{C3637B2C-9D46-48CA-A101-E6ACC9234F42}

{5362F583-AD93-4C1E-B572-A9C79AB7A562}

次回は、
「画面に嘘をつくな!」について。
と、
「ピカソ や、ゴッホ の、何が凄いんですか?」について。
を、取り上げて行きますね。


aune
2016.08.25