1984年 高知県 生まれ
             三姉妹の 次女 中間子


・2~3歳 の頃、絵を描き始める。
歩き方が変、
すぐ居なくなり迷子センターの常連、
言葉の発達が遅れ気味(か行→た行・さ行→た行、ら行→あ行 等。)、
癇癪持ち、
奇行が目立つ、
過度のこだわり、等
諸々の事情により、部屋でじっとさせる為に、
母が、絶えず、大学ノートと、クレヨンや、ペンを与え続け、
言葉が通じなかったもどかしさから、
絵を描けば、大人のヒト達が話を聞いてくれることに気づく。

・3~4歳 
神隠しもどきに会う。
1988年 突然の引っ越し。
保育園入学。
姉が、小学校 入学。
父方の祖母と、田舎暮らしになり、近所では、「狐憑き」「変な子」「気味が悪い」
等 噂をされる。
姉の図画工作の、宿題の影武者となる。
隣に住む、祖母の妹さん家族の、お爺ちゃんに、ほぼ、毎日、「絵を描きに来て」と、呼ばれ、
お爺ちゃんの取っておいてくれた広告の裏に、絵を描きに行く。
保育園のお誕生会で、将来「ベビーキョンシーになりたい」と言い、笑われ癇癪を、起こす。
毎日ベビーキョンシーのコスプレをする。


・5歳
誕生日プレゼントに、水彩絵の具セット と、スケッチブックをプレゼントされる。
絵の具で絵を描き始める。
初めての著作「まるまるきにのってゆくぞ。」を制作。長編絵本。ダンボールで製本。
保育園のお誕生会にて。今度は笑われないように、「将来の夢はヒヨコになりたい」と言い、また笑われ、癇癪を起こす。

・6歳
主任の先生が、画風を全て指示する為、保育園を特に多く休むようになる。
便所に引きこもる。
姉の宿題の図画工作で、どんな絵が受賞しているか、判るようになる。
周りの大人のヒト達に、「将来、絵描きさんになるのかな?」などと、言われることが増えたため、↓
保育園の、お誕生会にて。「将来の夢は、絵描き」と、言ってみると、笑われなかったため↓

・7歳
小学校入学。
入学式にて。「小学校では、どの科目を頑張りたいですか?」との担任からの質問に、
一人一人応えを発表させられ、
「図画工作を頑張ります!」と言って、父兄の方々や教師に笑われ、癇癪を起こす。
「将来、大工になる」と、言い出す。
母に、小学5年生になったら、近所の川辺に、友達みんなで住む家を建ててもいい?
と、訊ね、母の「いいよ」を信じて、目標にする。(後に、全然よくないことに気づき挫折)
テレビで観た宇宙人の絵を描き、祖母に「こんな気味の悪い絵を描くもんじゃない!」と、捨てられるも、怖いもの好きの近所の幼馴染みが、「欲しい!」と言うので差し上げる。
庭に、拾ってきたお地蔵さんにそっくりな石で、お地蔵さんを作り、祖母に、「こんな気味の悪いもの作るもんじゃない!」と、踏み壊される。
算数の繰り上がりが全く出来ず、みんなも、先生も、答えも間違っている と、思い込む。

・8歳
夏休み、突然の転校。
新しい学校にて。算数の答え合わせがどうしても合わないので、算数を、辞める。
新しい友達の家にて。学校ごっこ なるものをし、友達数名と、絵を描き、アニメや漫画のタッチで描けなかったため、人生で初めて、「あんりちゃん(わたし)の絵、気持ち悪い」と、言われ、憤慨して泣きながら家に帰るといった事件以降、
自由帳に、まるまる王国という、絵を描き始める。
姉の図画工作の宿題の影武者としての絵 と、自分の絵 を、分けるようになる。
自分の絵は、他者に見せなくなる。
4歳から頼み込んでいたピアノ教室へ通い始める。

・9~10歳
姉の図画工作の影武者としての絵に、姉からの「上手いと学校で授業中バレる」との要望により、左手(利き手は一応、右手)で描くよう強制され、姉の宿題は、左手で描かさせる。
小学3年生、4年生の担任の教師に、絵が気に入られ、何かと助かる。
悪夢にうなされるようになる。

・11歳
4~8歳まで暮らした田舎へ引っ越し、また転校する。
変な奴 として、意地悪されたり、クラスメイトの男の子と、喧嘩をする。
担任からも、目を付けられる。
PTAにも、わたしと遊んではいけない発令が、蔓延する。

・13歳
中学校入学。
学校、地域ぐるみの、激しいイジメを喰らうようになる。
自宅で夜な夜な誰にも見せない絵を描く。
姉が高校進学し、芸術科目で美術を選択しなかったため、図画工作、美術の影武者の依頼はなくなる。
新聞配達のバイトを始める。
学校で支給される絵の具が無くなったため、文房具屋で間違えてアクリル絵の具セットを買い、魔法の絵の具を手に入れてしまった!と、運命の出逢いをする。
学校での絵は、絵の具を、買い直し、自分の絵はアクリル絵の具に変え、アクリル絵の具にハマる。
学校での美術の授業に嫌気がさし、受賞をする事に強い反抗的なものを提出するようになる(反抗期)また、美術は、体育教師が受け持っていた。
エレアコのギターを買う。

・14歳
イジメが激化。
家で人知れずアクリル絵の具で絵を描き、姉に、「お姉ちゃんが、あんたの絵の精神鑑定するから見せろ」
と、言われ、姉には見せるようになる。
姉から、将来、姉が描いているていにして、その影武者をしないか
と、持ちかけられる が、断わる。
姉に、将来、一緒に吉本興業に入ろう 姉がボケで、わたしがツッコめ と、持ちかけられるが、断わる。
欲しい洋服が売ってなく、型紙無しで洋服を作るようになる。

・15歳
イジメが終わる。
学校の美術の課題に、
反抗的な態度で描いた、
「こんな学校あったらいいな」という絵のコンクールで、文部科学大臣賞を受賞してしまう。
母と、広島県のホテルに呼ばれ、表彰される。
中学美術の成績が、初めての「5」を付けられ、更に美術の授業というものに嫌気がさす。
成績も部活も、何も取り柄がなかったため、一学期の終わりに、母を呼ばれ、担任に「行ける高校がありません」との宣告を受け、母が泣いたのを機に、
新聞配達のバイトを辞め、夏期講習から、初めての塾に通う。
理解ではなく、記憶のみで、偏差値が役50伸び、塾歴代の伸び率を見せ、姉と同じ進学校に入学することになる。

・16歳
学校の美術の授業不信にあったため、芸術科目( 美術、音楽、書道 )から、書道を、選び、
美術は、部活のみ、在籍。(嫌だったら辞められるため。)
美術部の教師に、「あなた、ひょっとしたらひょっとするかもしれない!」と、
言われ、
毎日のように家で描いてきた絵を、こっそり美術室の教卓に置き、休み時間等に、呼ばれ、
「どんどん描きなさい。キャンバスは高くて間に合わないから、これに描きなさい」
と、ベニア板を与えられ、地塗りのペンキを塗っていたところ、
「あなたは天性の塗りの才能があるわ!」
と、言われ、
いざとなったら塗装業に就こう。と、決意。
美術部の部活には参加せず、毎夜、与えらたベニア板や、買った張りキャン(張られた状態で売られているキャンバス)に、絵を描いて、提出。
美術を、選択しているクラスメイトから、絵の依頼等を受けるようになる。
文化祭では、絵を描き過ぎ、教室の2つあるうちの1つが、わたしの個展のような光景になる。
成績は、ほぼ、オール赤点。
実質学年最下位。なんとか留年を免れる。

・17歳
文化祭で、一般来場者から、わたしの絵を10万円で買いたい との、相談を美術教師から受けるも、その教師に「これは、今、売らない方が良い」と、言われ、断ってしまう。
成績は学年最下位。留年の追試で、絵を描く時間が取れなくなり、
美術教師に、「どうして美術を、えらばなかったの!平均点上がったでしょうが!!」と、こっ酷く叱られる。
部員が数名しか居らず、美術教師に、「あなた部長ね。名前だけで良いから。」と、美術部の部長という肩書きを押し付けられる。
ピアノ教師では、先生に、「音大は行く気はあるの?」と訊かれるも、
「手が小さいから、ピアニストにはなれないけど、」という言葉がキッカケで、
音大進学は選択肢から外し、ピアノ教室を17歳の発表会を、最後に辞める。
高校で、度々、絵が持ち去られる(盗まれる)事が増える。

・18歳
美術教師に、「あなた、美大とか芸大に行く気は無いの?」と、休み時間や、放課後に呼ばれては言われ、
しどろもどろするわたしに、
「誰か!この子の通訳してくれる!⁉︎」と、言われるなどして、進路に迷うも、
卒業も危ぶまれるほど、成績は悪く、
大学進学などは考えた事もなかったため、
万が一、美大、芸大の進学の可能性を示唆し、
自分の絵 と、とりあえず、静物、風景、人物、動物、等の写実画を一晩で、一枚描く。
担任の教師の勧めで、隣町の絵画教室に通うも、先生である画家と、こじれ、3ヶ月足らずで絵画教室を辞める。
両親は、
「美大、芸大 なんかどこの金持ちのつもりや!そんなところを出て何をして生きるつもりか!」と、言われ、納得し、
美大、芸大、ではなく、手に職を付けたく、取り柄は、絵ぐらいしかないので、
それを活かして、好きなインテリアのデザイナーを、目指そう と、ネットで、専門学校を探し、神戸のアートカレッジ神戸(旧 芦屋芸術学院)の、
インテリアデザイン学科 ではなく、
グラフィックデザイン学科 の、体験入学をし、普通試験ではなく、
一芸試験?のようなものに、それまで描いた絵を持って行き見せて、
特待生で、合格。
危ぶまれていた卒業も、ギリギリで卒業。
卒業アルバムの、美術部の写真に、わたしは写っておらず、いつ撮ったのかも、わからなかった。
(一応、部長だったはず、、)
絵を描くことをバカにしていた父も、バカで出来損ないの姉を悲しんでいた妹も、心配していた母も、「特待生」という言葉に踊り、入学金、一年間の授業料、全額免除
ということで、浮かれ気味で、進学させてくれた。

・19歳
アートカレッジ神戸 グラフィックデザイン学科 入学。
夏休みの課題で、幼馴染みのクラスメイトの父親で、画家をされている方に、話を聞く。その方は、「普通の生き方を、してたら画家なんかなれない」と、仰られ、わたしは、普通の生き方をしたいから、画家にはならない。と、思ったのだが、現実には、自分は、デザインには不向き であることを思い知らされる。
キャンバスの貼り方を学ぶ。
神戸トアウェストの、古着屋の屋上で、「anry.展」を、する。
デッサンの先生に、よくしていただき、大阪のアメ村辺りのギャラリーに、作品を展示して頂く。

・20歳
アートカレッジ神戸 退学
なんやかんやあって、アルバイトをしながら絵を描くことを決意。
古着屋のアルバイトの面接にて、オーナーが、画商もやっていることから、
ギャラリー島田 を紹介される。
ギャラリー島田 にて。島田社長から、「こんなドロドロとした、情念の絵は、要らない。絵描きはやめたほうが良い。」
と、言われ、
試しにその年の「ミニアチュール神戸展」に、作品を並ばせて頂き、ホンモノとの違いを痛感。
その後、昼は古着屋、夜はSMBAR で、働きながら絵を描くようになる。
「ドロドロとした情念」を、如何に画面に持ち込まないかを、追求し、
視神系脳機能科学の、仮説 という観点から、「図説」という形で、
絵を描くようになる。
「ヴァギナA(アー)」というユニットで、パフォーマンス、音楽制作 ライブ活動も始める。
「ヴァギナA」音源「uu と aa」発売。
地下喫茶AENIMA で、数回の便所個展。

・21歳
昼のバイト先の古着屋で、古着にペイントし、販売。
「auneコーナー」を用意していただき、委託で、内職も始める。
ガールズバンド Coral Cell(コーラル・セル)も、始める。
バンド内での名前を、「aune(オーネ」にし、絵での作家名も「aune」で、統一。
auneとしてのホームページも開設。
http://auneweb.com/

・22歳
バイト先の古着屋の店舗が不景気のため閉店。
古着ペイントの委託の内職と、昼はアジア雑貨の販売員のバイト、夜はSMBARを掛け持ちながら、
絵を描き続け、隠れ家喫茶 カタカムナ にて、「aune個展」をする。
「4コマまんが アモスくん」を、忙しいバイトの間、暇つぶしに描き、
少年ジャンプに投稿。落選。自主販売などする。
SMBAR 閉店。

・23歳
アジア雑貨の店閉店。
隣の店のオーナーにスカウトしていただき、販売員のバイトをしながら、
バイトの無い日は、近所の、異人館周りに座り込み、作品のレプリカなどを販売(露店)する。
絵は描き続け、バンド活動も続ける。

・24歳
販売員のバイト クビ。
絵を描き続けながら、
古着ペイントの委託の内職、
ラブホテルの受け付け、内部の仕事のバイトと、
露店 をするも、お金が足らず、
数々、夜のバイト先を探すが、ことごとく落ちる。
以前務めていたSMBARの知人づてに、
SMBAR で、雇ってもらえることになる。
ラブホテルのバイトを辞める。

・24~25歳
週末の 昼はインド料理屋、夜はSMBAR
古着ペイントの委託の内職、
平日は、露店 
絵は描き続け、バンド活動、音楽制作活動をする。
露店にて、自作フリーペーパー「月刊 もうてん」を配布(2008.12~2009.06)。
「ヴァギナA (アー)」改め、「VaginoA(ヴァギノア)」音源 アルバム「 ae 」発売後すぐ解散。
なんやかんやあり、
25歳の年末、全てを、失う。

・26歳
内職委託の、古着屋のオーナーが、引っ越しを手伝ってくださった際に、
6年間描き溜めた絵を見て、再度、ギャラリー島田 へ、作品を持ち込む。
トントン拍子に、企画個展が決まる。
古着屋オーナー が、プロデューサーとなる。
auneデビュー個展 に備え、プロデューサーの指示を受け、auneホームページを改設。
http://auneweb.com/

バンド Coral Cell (コーラル・セル) 音源
「音導ーotoshirubeー」発売。

・27歳
auneデビュー個展 「affection aune 愛の波動」@ギャラリー島田
が、開かれる( 個展タイトル、紹介文、プロデューサーより)。
2011.04.02~04.07

ニコ生 auneの11ッチャンネル 放送開始。

・28歳
現在に至る。