今年、
わたしは、成人して初めて、
ゴールデンウイーク を、
ゴールデンウイーク っぽく過ごす
事に、なっていた。
わたしのような、人間には、
世の中の、イベント、休日、連休、盆や、正月 こそが、働き時だった。
バイトも、たくさんしたが、
だいたい、皆が休みの時ほど、シフトに入れた。
なので、成人して、
初めての、ゴールデンウイーク、
の、はずだった。

2011年の、震災後
土木建築士の わたしの 父 が、
被災地の福島県へ、働きに出た。
わたしは実は、その時、
やっと、ハッキリと、父が何の仕事をしている人間なのか、が、
わかった。
思い返せば、わたしの幼い頃から よく、
家族で外出時、
車中 
「あの橋、お父さんが 作った」
「あの道の、あの部分、お父さんが作った」
等と、誇らしげに語るのだが、
当時のわたしには、
父のいう、「作った」が、
どの程度まで何をしたのか、
わからなかった。
父のよくわからないままの、仕事上、
我が家は、しょっちゅう、
転勤や、転校、
或いは、父のいない生活(単身赴任)
を、繰り返していた。
三姉妹の 中間子の わたしは、
姉や、妹と比べ、
比較的、父と、暮らしたり、過ごした時間が少なかった。
姉は、予備校時代、単身赴任先の父と、生活していたし、
妹は、高校時代、単身赴任先の父と、生活していた。
父は、
仕事のことなら、いつも専門用語ばかりで、
流暢に喋る。
測量だの、川が氾濫したらどうだのこうだの。
一度だけ、父の職場を見た事がある。
7~8歳くらいのときだろうか
縦横にスライドする定規のくっついた机が、
父の席にあったのを覚えている。
そして、父は、
文字をまともな形を成して書くことが、
極端に苦手で、
誤字脱字 という 言葉を使っても、
圏外だった。
小学校に、上がる前の人間が書いたようで、
そのうえ、間違いレベルではない、
文字?の羅列が 常軌を逸していた。
なので、父は、
年賀状をまだ、手書きで書いていた頃、
送り先住所、氏名、諸々全て、
文字は、2つの三角定規を駆使して、
漢字も、ひらがなも、カタカナも、数字も、
全て、2つの定規を
ものすごい速さで 動かし、
直線で、文字を全て書いていた。
それは それは、まるで 犯行声明文 。
それを、
「気持ち悪いわぁ~、、」と、
母には、白い目で見られていた
のを、覚えている。

話は戻り、父は、
2012年の春、
福島県へ、単身赴任で、働きに行った。
道中、神戸に住むわたしのところに寄り、
父と、夕食をし、
その後すぐに、
大阪に住む妹のところに寄り、一晩泊まって、福島県へ行った。

それから、わたしは徐々に、
父と、話せるようになってきた。
昨年の年末年始は、
成人式以来、初めて、
福島県から、高知県の実家へ向かう道中、
父の車に拾ってもらい、帰省した。
幼い頃から、父の車で、二人きりで、
良いことはなかった。
「杏(わたし)は、言うてわかるバカ じゃないんや!!」
と、大声で家族の喧嘩での、父の大声に、
自分の部屋で、しくしく泣いていた。
父は、幼い頃から、
何度か、わたしを車に放り込み、
真っ暗な、田舎の山奥に捨てに行こうともしていた。
父と、二人きりの、車中では、
何度も、
「杏、一緒に死のうか、、」と、
雨や霧の日に、ものすごいスピードを出し、
「このハンドル切ったら終いや」
と、言う父に、
わたしは、
「うん、いいよ」
と、応え、
父は、
「やっぱり無理やあ~!!」
と、泣いて、
わたしは、はいはい、もう、そんなんええねん。
と、シラケるようになっていた。
昔から、無理心中をはかられたことは、
何度もあったから。
父は、
「杏は、大人になったら生きていけん!」
と、家族喧嘩で、
何度も叫んでいたのに、
わたしには、
「高校までは、面倒みちゃる。高校出たら一人で生きていけ」
と、教えこまれてきた。
幼心に、生きていけないのか、生きていかせるのか、よくわからないが、
とにかく、この家族から、わたしは、早く、
居なくなることを、せねばならないのだ。
と、いうことは、
よくわかっていた。
なので、特待生で受かった
デザインの専門学校のおかげで、
神戸に出て来ることができ、
もう、これで、家族や、身内とは、縁を切ってあげることが出来た
と、思い込んでいた。
しかし、わたしは、父のいうとおり、
社会で生きていけない人間だった。
専門学校を一年で 中退し、
昼も、夜も、内職もしながら、
最終的に、落ちるところまで落ちた。

話は またまた最初に戻るのだけれど、
32歳になって、ようやく、
わたしは、穏やというものが、
なんとなく、理解出来てきて、
父の車で、実家に帰るプランを、
今月の、わたしの誕生日に、
父からの電話で、提案され、
わたしは、そうすることにしていた。

当初の、今回のプランは、こうだった。
まずは、父の車で、途中、拾って貰い、
そのあしで、実家に帰り、
4泊5日、その間、実家の隣の市に住む
姉の子供、
即ちわたしの、甥っ子、姪っ子たちと、
正月ぶりに、
存分に遊び、5月4日から、
わたしと母と、福島県へ戻る父の車で、
福島県へ行き、
見るべきものを、3泊4日で、
見に行く という、プランがあった。

それが、4月19日、
突然の、母からの電話。
いつもなら、LINEで、
「今電話大丈夫?」と、あってから来るのだが、、
わたしは、少し手が離せなかったし、
きっと、今度のゴールデンウイークの話
だろう、
と、思っていた。
今年の正月帰省で、わたしと大親友になった、甥くん(5歳)が、
保育園?の日と、わたしの帰省がかぶるので、
わたしは、
「そんなん、休ませたらええやん!」
と、先月、
甥っ子、姪っ子、甥っ子の、
姉の3人兄弟 に各サイズ、贈った、
パンダの着ぐるみと、
わたしのパンダの着ぐるみで、
パンダだらけになって遊ぶことを、
帰省が決まってから、ずっと想像し、
ニタニタニタニタ、にやけが、止まらなかったわたしは、頭の中は、
そのことでいっぱいで、
心弾ませていた。

しかし、
母からの電話 は、ショッキングなものだった。
福島県に居る 父が、職場で、
体調を崩し、
眩暈と、吐き気で 倒れ、
病院で、脳梗塞の疑いがあるため、
その日から、検査入院する事になった
なので、今回のプランは、
一度、全部キャンセルの、予定で、
というものだった。
わたしは、とても衝撃だった。
あたまが、真っ白になった。
その日の朝、父と、電話で喋った声が、
生々しく耳から脳内で、
リフレインした。
即刻、父に電話をすると、
「へへへ、大丈夫よ、」と、
いつも通りの、
全くあてにならない情報。
ヘラヘラして、
「大丈夫よ、」と、しか言わないので、
父に福島県の事情を訊ねても、
何にもわからない。
いつも、ヘラヘラ、大丈夫よ
しか言わない。
その時も、そうだった。

翌日、検査の結果、
脳梗塞の疑いではない
と、
母から、そして、父から、
続けて電話があり、
しかし、母とも、今回のプランは、
白紙に戻すことを決めたので、
父からの電話で、
それを告げると、
父は、
「え、でも、杏ちゃん(わたし)、友達と会う予定があるんやろ?」
と、
父は、まだ、少し帰省するつもりでいた。
わたしは、
「うん、、まあ、、でもどうせ、元から わたしと会いたくない ヒト 多いし、別に大したことじゃないから、そんなことは、どうでもいい」
と、言うと、
父は、
「へへへへ、そっか。」
と、いつものように、わたしの哀れみを、
嬉しそうに笑っていた。
それよりわたしは、
「仕事は?この際やけん、病院、2箇所ぐらいで、徹底的に診て貰って。
最終的には、実家に帰った方が絶対、ええよ。
帰らないかんよ。」
と、言うと、
父は、
「でも、お父さんが居らんなったら、みんな困るもん」
と、言う。
わたしは、
「それは、わかるけどよ、妻も子供も居らん人間なら、一人、野垂れ死に覚悟でええよ。でも、父になった責任があるんやから、家まで建てておいて、その責任も、持ってよ、死ぬなら、ちゃんと実家で死んでよ!」
と、言うと、
「へへへへ、大丈夫よ。」
と、それしか言わねーのか?
と、いつ通り、返答があった。

そうして、わたしの、成人して初めての
ゴールデンウイーク は、
例年同様、無くなった。


昨晩、わたしは、
甥君と遊ぶ夢を見た。

夢の中、
青、橙、黄、桃、白色の
カラフルなヒヨコを
7羽くらい 甥くんが 飼っていて、
そのヒヨコ達を連れて
実家に遊びに来ていた。
わたしが、甥くん達のはしゃぐ声で、起床し、
実家の自分の部屋から一階に下りると、
和室に 甥くん がいて、
「杏ちゃん見て見て~!」と、
甥くんは、相変わらずの
ハイテンションで、ヒヨコ達を
わたしに見せて、
「はい、杏ちゃんは、これ」
と、
わたしは、黄色のヒヨコを
甥くんに渡された。
甥くんは、橙色のヒヨコを持っていた。
トミカのおもちゃと、ヒヨコで、遊びながら、
わたしは、
「⚪︎⚪︎(甥)くんは、何色のヒヨコが好きなん?」
と、訊ねると、
「男の子も、女の子も、嫌いな 黄色が好き。」
と、応えた。
わたしは、とても、幸せな気持ちになった。
そして起床。


さてさて、本日、
auneの11ッチャンネル は、
お絵かき放送 を予定。
20時 頃から、放送 開始 予定です。


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