中学に上がる前の子のいる家庭に送られてきていた
「中一時代」とか「中一コース」の勧誘はがき。
うちには来なかったんです。
みんなのうちにはハガキが来てなんか貰えるという。
どうして私のとこには送られてこないのか、、、
、、、なぜか
、、、なぜか、、、
なんでうちには来ないのぉ〜〜
私は小さな胸を痛めました。
なんで差別するんだよぉぉ、、えーん。😭
小学生の子には悲しい仕打ちですよ。
でもね、私 親に言えなかったの。
皆んなの家に送られてきて万年筆だかなんか貰えるそうだよ。
私も欲しいって。
リカちゃん人形が欲しかった時も言えなかった。
学校で貧血で倒れた時も言えなかった。
ちっちゃい頃から胸の内を家で話さなかった。
どうしてできなかったのだろう。
そんな子でした。😌
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父は気が小さくて体も小さくて細くって大人しい人でした。
その反動で、お酒を飲むとグダグダと母を虐めます。
こんな子を産んで、、、とかだと思います。
酒屋さんの立ち飲みでたくさん飲んで、
よく帰ってこれたねというほどグデングデンで
家に着くなり潰れてゲーゲー🤮。
母が自転車で30分かけて医者に往診を頼みに行って
医者を呼ぶ。
その頃は自転車しかなかった。
電話も無かった。
、、今は便利になりました。
酒飲んで荒れる
そんな日々がしょっちゅうでした。
もっとしっかり家族を支えなさい!!
その頃の父に叱咤したいわ。
父は自分の辛さしか感じられなかったんです。
きょうだいで小学校の時
弟の駆けっこを見た子が私に弟のことを何か言ってきたんです。
私は恥ずかしくて涙が出てきました。
よその方で兄弟に障害を持ってる方で
「なんとも思わないよ」
という方もいると思います。
ですが
私も父もすごく恥ずかしかったんです。
そんなこともあり、
私の体もガリガリで引け目を持って生きてました。
今思っても くら〜い 悲しい 幼少期でした。
この世に誕生したのは 昭和の30年代。
まとまった賃貸住宅の町内に八百屋さん、お菓子屋さん、床屋さん、美容室
お好み屋さんが点在していた。
六畳二間の小さい家でした。
まだテレビ📺も電話📞もありません。
近所の原っぱで枯れ草で基地を作って遊んでました。
素朴ですねぇ。
新潟県から来た父と母。
私か生まれ2年後に弟が生まれました。
弟が歩き始めるところから周りの家庭とは違ってきました。
弟は 小児麻痺 でした。
両親はとても辛かったでしょう。
そこから父の苦しみが始まります。
未来ある自分の長男が障害を持った子であると
いうことはすごくショックだと思います。
父は大酒を飲むようになってしまいました。