たとえば、道端のでこぼこ。木の幹のこすれた跡。木の根元の小さな穴。猟師さんたちと森の中に入るだけで、ひとりでは絶対に見逃していたであろう、そんな小さな痕跡が急に意味をもちはじめる。すべては森からのメッセージだ。森は動物がどこにいるのか、いないのか、そっと語りかけてくれていることを知った。
そして、ついに猟師さんが前日に仕掛けてくれた罠にイノシシがかかっているのを見つけた。そこからは、イノシシ対猟師さんの1対1の真剣勝負。最後の最後まで突進してくるイノシシとスキをうかがう猟師さん。それはまさに「命」を懸けた戦いだった。
そして、命が消える瞬間をみた。
よしもとばななの小説で命は消える瞬間にピカーッと光る、という記述があるのだけど、まさにその言葉通りだった。息絶え絶えのイノシシは最後に全身で光ってその命を終わらせた。
イノシシはそのあとみんなで解体して、わたしはその心臓をおうちでいただきました。はじめて自分の手をかけたお肉をだいじにだいじにいただきました。
前にある友達と「自分は動物を殺せるか?自分は殺せないのに、他の人に殺してもらったお肉を食べるのはすごい不自然なことなのではないか?」っていう話しをしていて、私はどうだろう、ってずっと考えていたんだけど。
今回、週末ハントに参加して、意外だったのはうしろめたさとかを全く感じなかったこと。むしろ、すがすがしさが残った。というのは、今回はイノシシと対等に命をはっている猟師さんの姿をみることができたから。千春ちゃんの言葉を借りるなら「フェア」だと感じることができたから。
先住民の教えでは自然の中では人間も動物も植物も空気もすべて対等に存在し、同じレベルで繋がっている。どちらかが管理したりされたりするものではない。すべては共に存在していくために同じ「権利」と「責任」がある。私が昨日の感じたのはまさにそういう命のありかただった。
そういう意味では、「家畜」というのは私の中の「自然」という定義から少し外れる。とはいえ、私はベジタリアンではないのでこれからも牛や豚の肉をいただくだろう。でも、もし自分が狩猟できるようになったら、そっちのお肉はもういただかないだろうな、と直感的に感じた。だから、やっぱり私は近いうちに狩猟免許とるようになると思う。(そのときはTRACKSのみなさんお世話になります。)
前も少し話したけれども、いま私がシェアハウスをやっているのは生きていくうえで、共同生活をしたほうが「自然」だと思ったから。「住」の部分をある程度かたちにできたら、次は「食」にすすみたいと思う。きっとそれがきたる2014年の目標になる予感*
※私がいう「自然」とは心のあり方の問題であって、その多くは先住民の教えによります。

