私は10年以上前、現地の日本語学校で高等部の教員をしていたことがある。

 

 

その当時の生徒の1人(アメリカ生まれアメリカ育ちの全くアクセントのない英語を話す両親ともに日本人の生粋日系アメリカン)が、帰国子女として日本の大学に行き在学中に欧州バックパックトリップをやったのだが、

 

 

彼曰く、

 

 

彼の風貌(超日本人)で、流暢なアメリカ英語は不思議がられた

 

 

 

との事。

 

 

 

 

英語圏でももちろんそれぞれの国に微妙な言い回しの違いや発音の違いなどがある。



ジムのサウナで一緒になって痴話話をする程度の顔見知りでも、ブリティッシュのアクセントの英語で延々と話されると、「聞き取りにくいな。。。」と思うし、オーストラリアのそれは更にである。推しだったYouTuberがオーストラリアの青年で、若者だから喋るの早いし、アクセント違うし、言い回しも結構違っていた。イケメンじゃなかったら登録解除していたに違いない(嘘)

 

 

カナダで思ったのは、トイレをWashroomと呼ぶこと。案内表示にもそう書いてある。またUniversityとCollegeの明確な違い。(キャンプでほぼ全員のカナディアンから今年度大学シニアである長女、高校シニアである次女共に進路や進学先などを聞かれていたから。。。)

 

 

それでも英語圏である。英語は英語。基本一緒。

 

 

私は、アメリカに来る前に既にいろんな国に仕事で行っていたのだが、仕事の特性上ほぼ現地通訳がいた。それでも最低限の現地語は習得しようと試みたので言語で苦労したことは多々あるけど、一番苦労した言語は、

 

 

 

生まれてから一番初めに覚えた言語である関西弁を、新潟弁に変えることだった。



結局日本語が一番難しかった。ショボーン

 

 

 

今でもこれは笑い話ならぬ実話として、どの国の人にも話す。涙なしには語れないくらい苦労したし、今書いていても泣けるしえーん虐められたし、習得するために努力したし頑張った。

 

 

 

毎日毎日、

 

 

 

「だっけさー」

「そういんてー」「そうなんてー」

 

 

 

と、日本語なのか?助詞なのか?接続詞なのか?助動詞なのか?も分からない言葉を風呂の中で繰り返し繰り返し唱えていたことを思い出す。

 

 

 

 

関西圏でも何度も引越しし、隣の府県でも関西弁ながらも少し違いはあるものの、近畿独特のイントネーションは基本残っていて(私が思うに)、関西圏の中で転校しても「言葉によって」虐められたことなどなかった。

 

 

 

それが、

 

 

 

川端康成じゃないけど、

 

 

「トンネルを超えたら雪国だった」(←だっけ?)

 

 

トンネルを超えたら別の国だった。

 

 

 

新潟に来てから、その後も転々としたけど、何十年経った今でも思い出せるあの苦い日々を思い出したくないから、私は関西弁の一切を封印した。



脳内は今でも関西人だと自負しているが、今でも世の中で私が実際に関西弁を話すのは最愛の兄にだけだ。兄も同じように苦労したから。あとはすべての人に標準語。関西人の名残で早口だが、関西出身と言葉の端から当てられた事は一度もない。あんなに頑張って覚えた新潟弁すら話さない。

 

 

 

それが、大学に入ってサーフィンのサークルに所属していたのだが、その飲み会で三重?和歌山?あたりの出身の奴と隣の席になった。(同期)ひどく酔っぱらって絡み始めたその男は、私に暴言を吐き始めたのである。しかも触れてほしくなかった私の関西弁についてである。

 

 

「お前は関西人のクズや。ムキーッ

 

 

 

みたいなことを言われた。今でも言われた言葉のすべてを覚えているが、ここには書かない。泣けてくるからだ。(ってか、今も泣いているえーん)あの日からずっとそいつの言葉をことあるたびに思い出してきたからだ。

 

 

 

要約すると、関西人は関西弁を話すことに誇りを持っているのに、お前は「たかが」「ちょっと」虐められたくらいで新潟弁を習得しようと思い、それから関西弁を封印してきたなどアホや!という内容。確かにその通り。ただ、今とは時代が違った。テレビのひな壇を埋めるような関西出身の芸人すら出ていなかったし、ダウンタウンすら上京していない時代だ。昭和50年代後期の話だ。

 

 

新潟に引っ越すときに、寄せ書きとカセットテープにクラスメートがいろいろメッセージをくれた。その中に、「新潟は豪雪地帯で被ってんねんて」みたいな小学校の社会科授業で習った情報をそのまま書いてくれる奴もいたくらい関西人にとって新潟のイメージは豪雪だった。市内ならそう余り降らないのに。

 

 

SNSはおろかコンピューターだって一般普及していなかった頃。日本国内でも西と東では大きく違うし、北と南でもそれは一緒。国際協力で同じ班だった医学部の岡山出身の学生ボランティアに、新潟に住んでいると言ったら、「裏日本やね。」と言われた。新潟から見れば岡山が裏なんちゃうん??と思うのだが、それはどこを中心に考えるかだろう。今はその新潟さえ、政令都市と言うのだから。

 

 

 

あれから四半世紀以上の時が経った。今では日々の生活で日本語を話すことすらなくなり、英語とスペイン語が入り混じった南部の町で日本や他の途上国にいた以上の時を過ごしている。

 

 

 

今でもふと、そいつの言葉がよみがえることがある。特に地方アクセントのある人、他の国のアクセントがある人と話すたびに言霊のように振り返ってくるのだ。

 

 

だから、最初は標準語で書いていたこの日記も数年前から、私の脳内言葉でつづるようになった。きっかけは多分有名なカナダのYouTuberである関西弁のCAさんの動画を見たことだったように思う。

 

 

 

私は関西人としての誇りを持っている。それは一度も薄れたことはない。

 

 

いくつもの学校を転々とし、同じ学校で入学卒業したことは一度もない。校歌もそのたびに変わった。

だが、40年以上経った今でも全歌詞が歌えるのはこの小学校だけである。
 

 


画像は奈良市教育委員会のホームページよりお借りしました。