美術館ラヴ

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短距離走者の孤独@「佐伯祐三展」大阪市立美術館

佐伯祐三展に行ってきた。
大阪市立美術館に行ったのは三年ぶり。広大な公園の中に位置する、いかにも美術館、博物館という感じの昭和初期の建築が威風堂々とそびえているけれど、そのまわりでは青空カラオケや靴が片方づつ売られている露天商店が立ち並ぶワンダースポット。
美術館と周りの雰囲気とのギャップの凄さは、日本屈指(もしかしたら世界)だと思う。

佐伯祐三が、三十歳でこの世を去るまでの作品が時系列に展示されている。
十代の頃から、渡仏した時、健康の問題で帰国した時、もう一度フランスにわたって死に至るまで。110点も並べられているので、十分に作風の変化が見て取れる。

十代から二十代前半の彼の作品は、デッサンは上手いけれど、繊細な感じで胸を打つものがない。
パリに渡って、モーリス・ド・ヴラマンクに絵を見せたときに、作風を「アカデミック!」と一喝されたのも分かる気がする。このころの彼の絵は上手に、穏便に、ものを表面的になぞっているような感じだったから。

そのショックから立ち直るための苦しい足掻きのようなものが、それ以降の作品には噴出していて、見ていると息苦しくなった。
筆致は激しく、苛烈。幾重にも塗り重ねられた絵の具は静かにうごめくようでいて、その震えのようなものが胸に迫ってきた。

 この後もかなり短いスパンで作風が変化していくのに驚いた。ユトリロの影響も受けたといわれていて、確かにそう思える部分もあるけれど、ユトリロの酒の澱が溜まって濁っているようなどんよりとした筆致とはまったく異なる激しさと速さが感じられた。

ブラマンクの筆致も激しい。彼の描く空を切り裂く稲妻のような木の枝の表現には圧倒される。それがそのまま、彼の描く対象に切り込んでいく姿勢にも見えるけれど、彼の場合はそれをパターンとして様式化してしまって、何度も同じスタンスで描き続けているようなところがある。
一方で佐伯祐三は、一つ一つの作品で新しい試みをするかのように描いているかのようで、ひとつ終わらせる途中で、というか同時並行で違う描き方をしていたんじゃないかと思う。
彼を特徴づける、街のポスターや看板のリズム感のある鋭いアルファベットが踊りながら浮き上がってくる描き方と、もう一つは建物の量感を全面に出す描き方。

この飢えるように貪欲な創作への執念は、やはり彼の短い人生によるものなのだろうか。常に死という隣人にプレッシャーをかけられていたから、全身の力をすでに見えているゴールに向かって燃やし尽くす短距離走者のように常に全力疾走できたのかもしれない。

佐伯祐三は先にあの世にたどり着いて、八十歳を超す長寿でやっと到着したヴラマンクに今度は彼が「アカデミック!」と怒鳴りつけたんじゃないだろうかと思った。

美術館の跡は、ワインの熟練者の皆様とご一緒して、新世界で二度漬け御免の串カツをハイボール片手に頬張り、三軒梯子してずっとワインを飲んでいた。最後に立ち寄ったお店で、店の奥からテラス席を望むと、闇の中に客が去ったあとに取り残されたワイングラスが冷たい光を放っていた。

佐伯祐三のカフェを描いた作品で、客の去ったあとにひとつだけ残されたグラスが描かれていたのを思い出した。グラスを囲む闇は重たく力強い。白い絵の具で細い筆づかいで描かれたグラスは、それに比べて大変脆く、今にも漆黒の闇に呑まれてしまいそうだった。

わたしの手にあるグラスは、冷たいけれども、白熱灯の光で金色を帯びていて、注がれた赤ワインは温もりを帯びた赤褐色でしっかりとした手ごたえがあった。

やっぱり人生は短距離走よりも長距離走の方がいいな、と佐伯祐三の描く闇の濃さと孤独に震えながら、グラスにすがり付くように、その硬いグラスの手ごたえを感じ、ワインでひたすら血を温めた。





http://osaka-art.info-museum.net/special020/special_saeki.html





グラスに寄り添う@グルナッシュ飲み比べ

先週金曜日の夜、ワイン会に行ってきた。

週一回のお習いごととなっているワイン会。今回のお題は「グルナッシュ」
「グルナッシュ」とは品種の名前。
よく行く立ち飲みのバールで頂いているワイン。でも本日はそれよりもっと高級なものを頂けるとあって、興奮しながら久々の神戸の地に向かった。

ワイン五本を、ブルゴーニュとボルドータイプのグラスで飲み分けながら頂く。
恥ずかしながら初めて知ったけれど、ころんと酒を注ぐ部分が横長に玉ねぎのように丸いのがブルゴーニュグラスで、おしりの丸みを保ちながらもしゅっと先に向かってタイトに締まっているのがボルドーグラス。

 このふたつのグラスで飲み比べてみようという、試みに胸が高鳴る。

 同じ品種なのに、育てられる方法、土地でまったく味が違う。
 その差異に感覚がついていかない。その温かさと、力強さにわずかに共通点を見出しながら、時には粗野でますらおぶり、時には優美でたおやめぶりな味わいに振り回されるばかりだった。

 でも一番おどろいたのは、同じワインがグラスの違いによって、まったく異なる表情を見せること。

 おしりが丸いけれどきりっと体に沿う、タイトなオフィススーツの印象なボルドーグラスで飲むと味が凝縮され、引き締まった感じに。
 反対に、まるまると南瓜のようなシルエットの芳醇な、イタリア映画の女優を思わせるグラマラスなブルゴーニュグラスは華やいだ香りの広がりを感じ、いつまでも匂いに鼻孔をくすぐられ続けたいような倒錯した気分になった。

注がれたグラスによって、ここまで表情を変えることができるワインを素晴らしく思った。

わたしは、今までの人生、自分の手で選択してきたことに、ある種誇りを抱いていた。
自分で選んだ学校、自分で選んだ職業、自分で選んだ友達、恋人、本、服、お酒、食器・・・自分で選んだからチョイスに失敗しても、選んだのは自分だと納得して受け入れてきた。人生とは何かを選び、勝ちとっていくものだと思っていた。

でも30歳を目前にして、自然と与えられたものをいかに受け入れて生かして行くか、というところに難しさと束縛を感じる以上に、魅力を感じるようになった。
 毎日200%頑張っていても、決して思い通りにはいかない。どちらかというと、儘にならないことが多すぎるぐらい。

 でもいろいろ学んで、親戚のおばちゃんからもらった古風なデザインのアクセサリーを上手く装い、たまたま出会った20歳も年上の人と共通の話題で盛り上がったり、振られた苦手な仕事をいかに上手くこなしたりということに面白味を感じるようになった。

 もっと進んで、注がれたグラスの形によってそれぞれことなる魅力的な姿を表現したいと思った。

 引き締まったなグラスの時には洗練された貴婦人に、膨張したような丸いグラスのときには熟れた娼婦のように・・・とはいかないまでも、与えられた環境にしなやかに寄り添いつつも、忘れ難い個性を匂わせるワインのような女性になりたいと思った。

ちなみにワインは保存の仕方、栓を抜くタイミング、注ぎ方などでも味わいを変えるとのこと。

上手く扱って欲しいと思うのですが。

計算高い女

日曜日に本屋に行った。

特に目的もなく、というのがいつものスタイルだけど、今日は目的買い。

新書コーナーに行って、目的の本を手にとってほくほくしていたら、ふと、ある本が目に付いた。

「夫婦の格式」という本。

家族にまつわる、ねちっこい人間関係を描いた「渡る世間は鬼ばかり」のドラマの脚本を書いた橋田壽賀子の著作だ。

帯には
「「男を立てなさい。女はもっと利口になりなさい」
と書いてある。

微妙な大きさの食べ物を口に入れるのを戸惑うように、言葉を理解しようとしていたら、その本を手にとって隣にいた初老の男性が何を思ったのか

「計算高い女は大嫌いだ。」

と吐き捨ているように言って、去って行った。

そのおじちゃんの、過去は知らない。

でも、おじさんが計算する分まで、計算してくれる女がいたのだろうか。
おそらく、おっさんが計算するよりずっと、素早く、正確に計算できる女だったんだろう。

おっちゃんは計算されることを良しとしなかったのだろうか。

モリス発、うちの台所着@「アート&クラフツ展」京都国立近代美術館

京都国立近代美術館でやっている「アート&クラフツ展」に行ってきた。19世紀後半にイギリスで興ったデザインの運動と少し後に日本で始まる、柳宗悦を中心とした民芸運動とを関連付けた展示。共通するコンセプトは「生活と芸術」

 日々の暮らしの中で目と手に触れるものを美しいものにしようというもの。会場にはいってすぐに見えるモリスの、用のないもの、美しくないものは部屋の中に置いてはいけない、という言葉に、思わず姿勢を正してしまう。

 産業革命以降、大量生産された生活用品のデザインの低下に憤慨してモリス商会を設立してインテリアを手がけたが、中世を理想とした唐草模様の中に動物や果物が絡まる様を見ると、イタリアで嫌というほど見た中世からルネサンス自体の教会や貴族の邸宅の装飾と似ているが、やっぱり違う。

当時の人々がこれを見た時には、斬新さを感じるとともに、ある種の懐かしさを感じたのではないかと思う。
伝統のあるデザインは人びとの潜在意識の中に潜んでいる。
それは自分たちのルーツにつながるものだからそこに落ち着きを感じる。なおかつ自分の生きている時代の要求に適応したかたちになっているので、なんの違和感もなく精神と生活の両方に滑り込んでくるのだろう。モリス商会の製品自体は高価で一部の富裕層にしか広まらなかったらしいが、その精神は国や時代を越えて日本にもやってきた。

 柳宗悦も影響を受けたらしいが、体系的に日本の手仕事を調査し、民藝として思想化したところは凄いと思った。しかもそれがきっちりと受け継がれて、わたしの家の台所にも転がっている宗悦の息子の柳宗理のキッチン用品たちとなっているのが面白い。

 柳宗理のキッチン用品が好きなのは使えば使うほど「用の美」を体感できる使い勝手のよさと形そのものの美しさ、佇まいの気品、というところもある。でも一番魅力的に思っていたのは、シャープなラインで形成されているのに、柔らかに心を刺激して懐かしい気分にしてくれること。そしてそれが感傷的な表面上のものではなく、骨太さや重みを感じるものであること。

 この展覧会を見てその懐かしさが、モリスから脈々と続く、人間性への回帰にもつながる手仕事の価値の再確認と、それを宗悦が日本特有の歴史の中で深化し、発展させたコンテクストから由来したものなんじゃかいかと思い至った。


 見に行った日がちょうど誕生日だったので、友達からカーサブルータスの柳総理の特集を貰った。
素晴らしいタイミング。素晴らしい友に感謝。

 展覧会と特集雑誌の相乗効果で苛烈な物欲が湧いてきて・・・この続きはまた。


京都国立近代美術館「アート&クラフツ展」
http://www.asahi.com/ac/index.html

誕生日前日のピッツァ

 祝日に生まれたので、誕生日はいつもお休み。勝手に誕生日休暇として前日にお休みを頂いた。
 ただの身分証明書としか機能していない、免許書の更新をして、誕生日月には三割引きになる某イタリア輸入商社でたんまり買い物をして、万博公園で民芸館と博物館に行こうとかなりハードに遊ぼうと思っていた。
 しかし、色々とトラブルに絡められてどれも果たすことができなかった。こんな厄災に見舞われることもまずない。

しかし混乱の中で、兵庫県庁に行った時点でお昼のランチはピッツァの名店ピノッキオで取ることができた。ここは戦後間もなく開業した神戸で元祖ともいえるピッツェリア。村上春樹のエッセイにも出てくるところ。実はそんなこと知らずに最初は行ったのだけれど。

古びた内装の小さな店内に老若男女、お一人、ファミリーの区別なくなだれ込む店内でピッツァを頂く。イタリ滞在中に国中のピッツアを食べたけれど(お金のない場合の外食は必然的にピッツァになる)ここのピッツァは独特。決してイタリアの本格派でない、洋食的な部分が衒いなく前面に出ている。神戸にいたら、このバタ濃い味がどこか骨身に染みてしまう。
外界を真っさらに受け止めて、素直に自分のルーツに溶け込ませてしまうしなやかさ。店の名前の付いたピッツァはその店が一番に自信をもっている味。それがクリームソースのピッツァなことに深く、深く神戸の洋食の味を感じた。いつもは分けっこして食べるピッツァを一人分食べるのはかなり苦しい。

でも何故かしらここのピッツアは残せない。ピッツァの皿の中にある三角の白い紙のせいか。その紙片には「これからあなたがお召し上がりになるピッツは、当店創業以来1,152,118枚めです。」と厳かに宣言されている。村上春樹が「辺境、近境」で記していたのは958,816枚目。

数値的な彼との距離、あからさまな彼との時間の隔たりを感じた。一方で彼が処女作「風の歌を聴け」を書いたのは二九歳。わたしが数時間のちに踏み込む世界だ。

 数値の正確さは絶対ながら、対象との距離を短くしたり長くしたりする揺れのようなものを持っている。
 二〇代最後の年を二九という数字に背筋を正しつつ、さりとて雁字搦めにならずに迎えようと思った。
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