雅紀の傍らに座した和也は、雅紀の手を取り、申します。


「雅紀…聞こえてるか?それから、この薫り。わかるな?ここは翔の君様の寝所…そこに、雅紀は居て、そして、もう一人、居るんだよ。烏帽子の君が。雅紀の待ち望んだ…」

和也は、雅紀の唇に、そっとくちづけました。



雅紀の顔を見下ろす和也の目が曇り、潤みましてございます。


和也は、つい、と、立ち上がり、戸に手を掛けますと、それを開け放ちました。

冷やりとした風が流れて参ります。庭の隅からは、虫の音も致します。空には、白く、大きく輝く望月が、こちらを見下ろしてございました。


「翔の君様ぁ…なぜ戻られないのです…」


和也は、自分が、翔の君の代わりになれる筈もないことは、わかっておったのでございます。さすれども、もしやの、一縷の望みを託し、今日一日、奔走致して参ったのでございます。
けれど、恋に心を閉ざした者を呼び戻すこと、叶わなかったかと、暫くが間、恨めし気に月を見上げ、途方に暮れてしまいました。




やがて、和也が身動ぎ、体をずらした折でございます。
それまで影になっていた雅紀の顔に、月の光が当たり、瞼が眩(まばゆ)そうに眇められました。そして、それはゆっくりと、開いてゆきました。



その、開いた眼(まなこ)が見たものは、月を眺むる烏帽子の君の、後ろ姿にございました。



強い光に、影になりてようとはわからぬでも、ここに御座(おわ)しますお方は、お一人しかいらっしゃりませぬ。



「翔……我が君…!」


半身を起こした雅紀の、全身全霊で求むる声にございました。



驚いたは和也にございます。
弾かれた様に振り返りますと、起きる気配のなかった雅紀が、玉の涙を零(こぼ)し、泣き顔のような、笑い顔のような面をして、なよなよと横になったまま、片肘着きて、こちらを見上げておるのでございますから。


けれど、和也は躊躇いも持ちました。
近づけば、翔の君ではないことがわかってしまう。さすれば、また倒れ、もう二度と目覚めぬかも知れぬと。



戸口で佇み、二の足を踏む和也に向かいて、雅紀は、必死になり手を伸ばしまする。


「翔の君様ぁ…!」


その姿に、和也が体は、勝手に動き出しておりました。
慌てて歩み寄りますと、その細い体を抱き起こし、深く抱擁を交わしておりました。


「雅紀…もう目覚めないかと思った…!」

「俺の方こそ…もう帰っていらっしゃらないのかと…」

「そんなこと…!いや、そのようなこと、あろう筈がない」

和也は小さく呟くように申しました。雅紀が気付かぬ間は、和也は翔の君なのでございます。




和也の背なを抱く雅紀の腕が、やるせのう弄(まさぐ)りて、抱擁の次を望んで催促致すようにございました。

その心持ちは、和也は、分かり過ぎる程に分かるのでございます。もし、自分だとしたら、と、思いますと、その欲は無理からぬこと。只、それに従うことは、翔の君を裏切ることに他ならないのでございます。


けれど、首筋に、雅紀の苦し気な吐息を聞けば、我知らず、体が応えてしまいまする。


「…我が君…」


背なの手が、緩やかに落ち、そして、雅紀の不安気な声聞かば、和也が心は、とうとう、己の色欲にも負け、おずおずと体をずらしては、唇を重ねていってしまったのでございます。