望月─里─

その日の昼時、智の許に参ったは、下働きの者にございました。潤士郎は、明日の出立に向け、忙しゅうしておるとのことにございました。


いつもは並んで座る縁に、独り座り居り、一匹の赤蜻蛉の、つい、と、飛び、秋風の庭に遊ぶを見るは、何とも侘しく、小春日和に心持ちの良い陽射しなども、自分がお天道様だと申したその人を、却って思い出さずにはいられない有様で、胸の詰まる想いにて、あまり食も進みませんでした。



昼間ですらそうでありましたものを、陽の傾き始め、空の茜に染まりて、竹林もざわざわと梢を鳴らし、烏などが、一羽きりで鳴き飛ぶ様などは、本当に、永らく忘れていた孤独を思い出させる風情で、智は、何をする気にもなれず、袿(うちき)、指貫(さしぬき)姿の寛いだ格好にて、只、縁に座っておりました。



その、小さき丸い背の影が、長く家の中に伸びてございました。



ふと、遠き風の音(ね)に、笛の音(ね)の混じるを聞いたような心持ちが致しました。智は顔を上げ、耳を澄ませましたが、聞こえてくるは、笹の鳴る音ばかりにございました。


「潤…翔の君…」

別れゆく人々の名を口に乗せ、智が溜め息致した次の時、今度は、はっきりと笛の音がいたしました。
それは、間違う(まごう)かた無き、翔の君の笛、己のこさえた笛の音にございました。


そして、縁に座る智の前に、翔の君が、お姿をお現しになられたのでございます。




翔の君は、沈みゆく陽に向かいて、緩やかなる調べを奏でておいででした。


その面(おもて)を朱にされて、笛をお吹き終わりになられましても、空の色の、紅、藤、藍、へと移りゆき、今日の陽の、最後をお見届け為されるかの如くにいらっしゃいました。





やがて、夜の帳のそっと降りて参りましても、ずっとそのまま、西の彼方をお見据えになり、庭に佇んでおられました。



月の登りて、妖し気なる光をば、投げかけ始めてございます。


幾日か振りに、やっとお見えになられたというに、横顔をお見せになったままの翔の君に、智の心は、不安に駆られまする。

けれど、それは皆、翔の君のお考えの内にございました。
逢瀬を重ねた上でのつれない仕打ち、また、顔を見せても易々とはお声を掛けぬによって、心を操る隙を得る由にございました。