篝火(かがりび)

雅紀の傷は癒えましてございます。されど、次第に、塞ぎ込むようになっていったのでございます。


「きっと、都が恋しくて、心が塞ぐのであろう」

と、翔の君が仰って、都に戻ることと相成りました。



その、最後の宵、別れを惜しむ宴が催されることとなり、そこで、智が神楽を舞うことと相成りました。



邸の庭に、翔の君をおはじめといたしまして、和也、雅紀、国司、更に潤士郎、皆が顔を揃えてお出ましになられました。

暮れ時から篝火を焚き、一番星が輝く頃、厳かな雅楽の流れゆく中、白装束に身を包みましたる智の登場に、その、常ならざる雰囲気に、皆、一様に息を呑みました。



「田舎雅楽にて、都のお方には見劣りましょうが、此度の縁(えにし)惜しむ心にて、存分に舞いとう存じまする」

智が口上を申し奉りて、面を上げますと、翔の君は、感嘆の息をお漏らしになられました。




智の舞は、たゆたう音色を纏う如くに緩やかに舞うたかと思えば、射貫くが如く眼差し中空に、力強く大地踏み、荒々しくも舞い、その身から、神も、また、鬼も湧き出だす程にて、その姿は、篝火のゆらめくに照らし出され、妖しくも麗しく、片時も目が離せないのでございます。

笛の高く鳴るを合図に、雅楽がぴたりと止みますと、静寂が降りて参りました。


時折、薪のはぜる音の、乾いて小さく鳴る中、智の澄んだ声音が詠(えい)を謡(うた)い、清らかに、朗々と聞こえ及ぶと、皆の胸は震え、感涙を禁じ得ないご様子なのでございます。



そして、良き時間は瞬く間に過ぎ、智が舞の袖を翻し、緩やかに音の止む頃には、皆、袖を湿らせておられました。


殊に、翔の君におかれましては、尚一層、智への執着が増されたのでございます。



都でも、これ程美しい舞人は稀でありましょう。
見目だけでなく、卓越した舞の技術、姿勢、指の先、目に至るまで、隙のない気の入りようで、その上に声の美しさ、心地良き低き音も、張り詰めて澄み渡る高き音も、激しく胸を揺さぶらずにはおかないのでございます。


このざわめく胸を鎮めようと、胸にお手をお当てになられますと、そこに触る物がございました。

翔の君は懐から笛をお出しになり、下がろうとしていた智に申されました。

「智、そなたの良き舞に、わしもひと節、この、そなたのこさえた笛で吹いてみとうなった。今宵の思い出に、合わせてみてはくれぬか」

「は…はい」



こうして、翔の君の唇より、嫋やかなる絹の如き調べが奏でられますと、智もそれに合わせ優美に舞ってみせ、ふたつは、まるで、糸を撚り合わせるが如く、ぴたりと合致して繰り広げられましてございます。


笛を口になさる翔の君も、袖を揺らす智も、得も言われぬ心地良さを感じおりました。
双方が、互いの息に感じ入り、高まり合う、またとないひとときでございました。



翔の君が唇から笛をお離しになられても、智は、暫しその場を動くことができず、高鳴る胸に頬を熱く致しておりました。


「美しい…」

そう呟いたは、潤士郎にございました。智の他は、何も見えぬ目を致して、一心に見詰めておりまする。


長い年月、共に過ごしてきた潤士郎ですら、そう申すも無理からぬこと。
智は、本来の見目の麗しきに加え、額から伝う汗が篝火にきらめき、仄かに染まった頬をして、おぼこの様な無垢なる顔にて佇む有り様は、今までにない程に神秘的にございました。