うーむ
多くの人たちが持続的に自分の過去を(まるで上空からずっと眺め続けてきたかのように)書いている文章を目にする度に、私は驚く。深く驚く。単に一般的な記憶力という能力なら人並みのはずなのに、自分自身の過去となると、ありありと濃密にいつでもその場に帰ることのできる少数の場合と、概括的に年表的事実のようにしか思い出せない多くの日々に、はっきりと分かれている。つまり私の過去は、無残に切れ切れと隙間だらけだ。
ということについて茫々と考えているうちに、こんなことに思い至る。いまから振り返る私自身の記憶力、想起力が問題ではなくて、そのときそのときの体験の質そのものに違いがあるにちがいない。意識の表面の日常的な層でそのときは正常に行動し他人とも話し合っていたはずの多くの普通の日々と、不意に世界の思いがけない感触と出会い溶け合った謎めいた内面の時と。
意識の表層と深層との明確な境界があるわけではないけれども、表面的な意識で単に生活していただけの時は、多分脳波はなだらかに安定しているのだろうが、刻々と流れ過ぎ去ってゆくだけのように思われる。逆に何らかの仕方で深層に直に触れた時ーーー多くは不安と憂愁の時、そのときが言葉の深い意味で、現在すなわち現に在ることであって、だから同じように心ざわめくどのいまとも通底している。時計と暦の時間ではどんなに遠い過去のことであっても、つねに現在となる。現在とは刻々の数秒のことではない。そのときそのとき露出した深層の震えが、通常の知覚と意識を越えて、現に在る状態を形づくっている。
過去と現在というのは、実は時間的概念ではなきのだろう。世界と意識が表面的に対応したか、より深層で触れ合ったか、といういわば空間的概念と考えることもできる。多くの正常な日々は初めからすでに遠くにあったのだ。表面的でしかな事柄も経験も、どこかへ消えたのでなく、初めから意識の地平線に見え隠れしていただけなのである。反対に現に在るものはつねに眼前にある。覚えているのではない。いま見えるものである。
多分この世界を生きるということは刻々に流れさるひとすじの流れないし物語のようなものではなく、つねに甦る現在が少しずつ増えて膨らんでゆく奇妙な球体のようなものにちがいない。歪んで、隙間だらけの。
日野啓三:台風の目から
ということについて茫々と考えているうちに、こんなことに思い至る。いまから振り返る私自身の記憶力、想起力が問題ではなくて、そのときそのときの体験の質そのものに違いがあるにちがいない。意識の表面の日常的な層でそのときは正常に行動し他人とも話し合っていたはずの多くの普通の日々と、不意に世界の思いがけない感触と出会い溶け合った謎めいた内面の時と。
意識の表層と深層との明確な境界があるわけではないけれども、表面的な意識で単に生活していただけの時は、多分脳波はなだらかに安定しているのだろうが、刻々と流れ過ぎ去ってゆくだけのように思われる。逆に何らかの仕方で深層に直に触れた時ーーー多くは不安と憂愁の時、そのときが言葉の深い意味で、現在すなわち現に在ることであって、だから同じように心ざわめくどのいまとも通底している。時計と暦の時間ではどんなに遠い過去のことであっても、つねに現在となる。現在とは刻々の数秒のことではない。そのときそのとき露出した深層の震えが、通常の知覚と意識を越えて、現に在る状態を形づくっている。
過去と現在というのは、実は時間的概念ではなきのだろう。世界と意識が表面的に対応したか、より深層で触れ合ったか、といういわば空間的概念と考えることもできる。多くの正常な日々は初めからすでに遠くにあったのだ。表面的でしかな事柄も経験も、どこかへ消えたのでなく、初めから意識の地平線に見え隠れしていただけなのである。反対に現に在るものはつねに眼前にある。覚えているのではない。いま見えるものである。
多分この世界を生きるということは刻々に流れさるひとすじの流れないし物語のようなものではなく、つねに甦る現在が少しずつ増えて膨らんでゆく奇妙な球体のようなものにちがいない。歪んで、隙間だらけの。
日野啓三:台風の目から
Medeski, Martin & Wood
2009年一発目のLIVE音源が出ました。
http://bt.etree.org/details.php?id=521469
音質が中の下なのが惜しいですが、かなりヤバい。深くてどっぷり。
MMWの2008年のLive音源はキレイすぎていまいちという方は、ぜひ。
メロトロンとアコースティックピアノなし。
http://bt.etree.org/details.php?id=521469
音質が中の下なのが惜しいですが、かなりヤバい。深くてどっぷり。
MMWの2008年のLive音源はキレイすぎていまいちという方は、ぜひ。
メロトロンとアコースティックピアノなし。
