いらないと書いたが、世間が余りにもコミュ力を重視するので、その反発としての記述である。相手の話を聞いて適切な返答やアドバイスができる、自分の意見を分かりやすく説明できる、行き届いたプレゼン能力、などあれば嬉しいに違いない。
だが、今まで人を見て思ったことは、この能力はある程度先天的なもので、努力によるカバーはできるものの、個人差が大きいということである。
私はもちろん、コミュニケーション能力を5段階評価で言えば、せいぜい2程度だろう。プレゼンの時も、予め準備しておかないとうまく内容を伝えることができない。自己分析すると、他人がどう思うかを気にしすぎる、そのくせ相手の意図を読み取ることが苦手である、という点がある。
研究者なのでプレゼンは何度もしたし、大学で授業をしたこともある。それでも、苦手なものは苦手なのである。他人のプレゼンを聞く機会は多いが、驚くほど上手に自分の研究を説明し、意地悪な質問にも流暢に答える人がいる。相手が何を聞きたいのか直ぐに分かってしまうのであろう。
採用時には、こういう人は有利になる。一方、いい研究をしていてもプレゼン能力が余りない人も割といるが、どうしても採用時には不利になる。
研究能力とコミュニケーション能力にはほぼ関係が無いが、唯一他人とコミュニケーションすることによる情報交換では有利になる。
私のかつての上司が言っていたが、一緒に仕事するなら「人柄」のいい人である。曖昧な表現であるが、他人を尊重する人と言えるだろうか。
私はコミュ力もなく社交性もない。そのような私が、何かの集団に出会った場合、直ぐ目にゆくのは輪に加われない人たちで、ポツンと静かに壁際にいたりする。
教育の場で、輪に入れない子供が必ずいる。彼らに注意を向けられる教育者が必要である。私たちは、コミュ力の高い人よりも、心情を理解して寄り添える人物が必要なのである。
求められるのは、積極的に輪に加わるように勧めることではない。多くの低コミュ力の人たちは、輪に加わるにはハードルが高いという心情を持っているが、「ぼっち」と思われたくないというプライドも持っている。周りは彼らに積極的に関わらなくても、いつも気にかけていればいいのである。
私が、「ぼっち」なことが気にならなくなったのは、割と最近のことである。
人間関係などどうでもいいと思うようになると、一人でいることが気楽である。レストランも旅行会社も、お一人様歓迎を前面に出して欲しいものである。
若者よ、堂々と学食で一人飯を!