前回、模型の収集と人の執着心について話をしました。

 

人は、どんな時に自分の愛した物を捨てるのか、ということを話したいと思います。

 

映画に「愛と死をみつめて」というのがあります。これは、1964年に公開された吉永小百合と浜田光夫主演の映画で、実話を元にしています。女性は顔の軟骨肉腫という難病を患いながら、病院で知り合った男性と付き合い、文通を続けます。

女性は病気が再発し、顔の半分を取らないといけなくなりますが、男性が彼女を支えるというストーリーです。

 

あるとき、女性は病院の庭に出て行き、燃やす作業をしている人に、これを処分して下さいと、持っていた自分の私物を燃やすよう依頼します。

その時の、吉永小百合の無感情さが何とも恐ろしく、それが最も印象に残っています。

(ずいぶん昔に見たので、実際の映像とは違うかもしれません)

 

死を覚悟していたでしょうが、なぜ女性は私物を燃やすことにしたのでしょうか。

そこには、生への執着を断ち切るという意思よりも、そもそもの執着心が希薄になってきたところがあったように思います。

仏教の四苦八苦にあるように、多くの苦しみは執着から出て来ます。十分苦しみ抜いた女性は、苦しみからの解脱の準備を始めたのではないかと思います。

物というのは、人に対し実は強い影響力を持っています。我々は故人の手紙や写真により、深く偲ぶことができるのが、一例です。

 

充実して生きているときには、自分の名を後世に残したいと思う人は多いかと思います。

しかし、死に近づいた人は、自分の名が残ることにそれほど執着するでしょうか。むしろ無名のままで死にたいと思うのかなと思います。

 

森鴎外は、森林太郎として死にたいと言ったと言われています。

森鴎外は森家の期待の星として、厳しいスパルタ教育を受けています。森鴎外は、期待通りに軍医になり、また文豪としても名を残します。

しかし、彼の努力は家のためです。家制度の歯車として働いた彼には、家を離れた「自分」というものを持つことができなかったのではと思います。

他人のための人生など、虚しいだけです。軍医という名誉、名作の数々、それらは自分にとっては愛着のあるものではない。それらと結びつけられるのを嫌ったのでしょう。

それで、森林太郎で死にたかったわけです。

 

 

自分という意識に執着しているために、死の恐怖を持ちながら我々は生活しています。それが苦の原因ですが、生きている以上執着をなくすことは困難です。

この苦しみは、過剰な意識を与えられた人間の宿命、としか言いようがありません。

 

だが、いつかは物への執着はなくなり、そして自分への執着もなくなることを、私は望んでいます。

私は孤独のうちに死にたいのか、家族に囲まれて死にたいのか。

親の干渉の強かった時は孤独で死にたいと思っていましたが、その内その選択にも執着はなくなるでしょう。

 

ところで、私が死んだら私のコレクションはどうなるでしょうか。

後に残された者が悩まないように、処分していきたいとは思っています。

 

多分、余命6ヶ月と宣告されたら、私が処分する前に、家内がコレクションを処分するのを率先してやるでしょう。

私の遺産や不動産をどうするか、葬儀や遺骨をどうするかなど、私が生きているうちに決めるよう、要求するでしょう。

 

「夫が死ぬまでに夫にさせる100のこと」という本が出るかもしれません。