Keep goin' slowly

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My lovely days to days.

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私事ですが、今年5月に大病をやらかしまして
(今でも原因ははっきりとわからない)
腎臓の片方を摘出しました。一時は「命が危ない」と
お医者さんに何度も言われ、本当に怖くて怖くて不安で、
死を覚悟したんですが、家族の支え、友人の励まし、何より
「ぜっっってーーー生きてやる」という気力で見事生還。
あの時支えてくれた皆さんにはほんと感謝してもしきれない
ですが、入院中に直輝から励ましのラインが来た。

「直美さん、僕は直接励ましに行けませんが東京から祈ってます
早く良くなりますように!僕も頑張ります!」

高校卒業後、直輝は明治大学へ。東京の学生寮に住む彼との
交流はたまーにしょうもないことをやりとりするくらいで、
それでも年一回は帰省時にうちへ顔を出してくれる。
その時はラインのタイムラインを見たらしい。
私は本当に嬉しくて「無事退院できたら直輝の応援しに行く!
箱根駅伝にも行くから!」と返事した。

日々生きる中、私は後悔しないようやりたいことはやり尽くして
きたし、したいと思ったら迷わず飛び込んできた。仕事も恋愛も
私生活も何もかも。いつ死んでもいい、それが口癖だった。
それでも死の淵に立ったときは「あれもこれもしたいもっと
生きたい、生きたい」と切に思ったものだ。

あの時の私の生きる目標はたくさんあったけど、そのうちのひとつが
直輝の応援に行くことだった。駅伝を生で見、初めて沿道で応援した
のが忘れもしない第61回全国高校駅伝だった。
(写真は62回、61回は残ってなかったので)その時の上野工業
(現・伊賀白鳳)のメンバーは現在富士通、元駒大主将の中村匠吾
くん。(中村せんぱいと呼んでいるw)現・トヨタ紡績、元東海大の
中川暸くん(中川せんぱいと呼んでいるw)現・駒大の西山雄介くん
元中央大の清水清輝くん、元東京農大の土井久理夫くんなどなど

この時直輝は5区を走った。

なんせこの頃既にエースだった中村せんぱい。
1区を走るがまさかの足の故障で40番台。
第2中継所付近でのんびりぜんざいを食べながら店のテレビ中継を見て
いた両親と私全員が絶句。慌てて店を飛び出したことを覚えてる。

あの時のこと、後日談。
名将・故町野監督は散々「監督の不行き」だとか「采配ミス」だとか
言われていたが、前日の選手エントリーで選手全員が「1区は中村
くんに走らせて欲しい」と監督に頼み込んだそう。この時すでに中村
くんの足は不調だった。監督ももちろん知っていた。

その後追い上げて23位。
あの時の中村くんの食いしばった顔、町野監督の背中、その後必死で
追い上げた選手みんなが一丸となって走る姿は今でも忘れられない。

と、話がだいぶそれたが、
そんなこんなで私の駅伝デビューは都大路だった。

直輝が走る姿を見たい、テレビじゃなくて現地で応援したい…
そんな些細な目標も十分生きる気力になった。
そして無事生還し、この全日本大学駅伝で見事目標を果たした。

病床の頃の私、自分で言うのもなんだが本当に死ぬ気で頑張った。
クッソ痛い手術も、キツい抗生剤も、毎日ガンガン上がる熱にも
術後の例えようのない痛みにも、苦しかったリハビリ期間にも
ただひたすら「絶対に諦めない」と多分人生でいちばん頑張った。

この頑張りは直輝の頑張りにちょっと似てたかもしれない。
ケガに泣き、思うような結果が出せず苦しんでも絶対に諦めず
ただひたすら頑張る。
彼には「どれだけ苦しくてしんどくても投げ出さない、諦めない」
というのが、きっと私の知らない幼少の頃から板についていた
んだと思う。


全日本が終わったあと直輝にラインを送った。

「私無事退院できたら絶対直輝の応援に行くって目標やってん。
叶ったわぁ、嬉しい、ありがとう!箱根にも絶対に行くから!」

『高田家に少しでも恩返しが出来て良かったです』

直輝。
君の頑張りが誰かを救ったり頑張ろうって力になるんだよ。


つづく。