ぽた、と鼻先に雨が落ちた。
思考回路の沼に溺れていたところを呼ばれたようで、縋るように空を見上げたけれど、曇った灰色は当たり前に何も喋りはしなかった。

胸の奥の方に霧が立ち込めた気がした。

なんだか1人になりたくて飛び出してきたけれど、ただぽたぽたと量を増していく雨粒に遠回しに帰れと言われた気がして、被害妄想癖のある閉塞感に縛られた。

足は動かない。動けない。

両耳にぶら下がっているイヤリングから、控えめな雫が落ちた。


息苦しいな。思いっきり息がしたい。
くるしかった。




「…なにしてんの?雨だよ」


「…、…まなか」


無気力に振り返ると、折り畳み傘を差してこちらを見つめる愛佳がいた。

笑えてきた。なんでいるの。


「…なんでいるの」


「え…普通にコンビニの帰りだけど」


「…そっか」


機械的に吊り上げた口角に、彼女は違和感を覚えただろうか。


「ぬれちゃうよ。帰らないの?」


愛佳が歩み寄ってきて傘を半分差し出してくれた。まだほんの少ししか濡れていないのに、もう全身ぐっしょりになったような気分だった。


「まだいいや。ありがとね」


雨にふやけた思考で、ゆるゆると返事をした。


「…」


何を考えているか分からない綺麗な猫目にじっ、と見つめられた。


「……すき、?」


「…え?」


「…すき、がほしい?」



何を言われたのか分からなかった。
『好き』が欲しいのか、と、そう聞かれたんだと、数秒経ってから理解する。


「…なんのこと、」


「なんかさみしそうだから」


さみしそう、か。

そうだね。さみしい。


「…そう、ね」


目の前の彼女は、何もかも分かっているのだろうか。
単なる思いつきで言ったんだろうか。
時に無性にさみしくなる時に、一時的なものでも、偽りのものでも、愛に縋りたくなってしまうこと。
そこに理屈などいらないから、ただその言葉に爪を立てて胸に抱えて、 離したくなくなってしまうようなこと。



「……ほしい、すきって、言って」


蚊の鳴くような声で囁いても、愛佳はろくに表情も変えずに、そっか、とだけ言って、手の力を緩めた。

ゆっくりと後ろに倒れていく傘に目を奪われているうちに、唇に冷たい温もりが触れた。

ぶわ、と鳥肌が立って、手が震えた。
寒くてたまらない夜に、温かすぎる缶コーヒーを持った感覚に似ていた。


瞼も閉じずに、ただ数秒が経って。

唇が離れる時の、雨にかき消された小さな音を私と愛佳だけが拾った。


雨はじわじわとひどくなってきていた。
自分の顔を滴るものが何か分からないくらいには。


「……あいしてよ、」


喉が震えて掠れた声を、風に煽られた木々のざわめきが消した。


「……あいしてるよ」


愛佳がそう言い終わらないくらいに静かに目を閉じると、微かに濡れた唇がまた押し付けられた。
うまく力の入らない手で、愛佳の肩あたりの服を握りしめた。

ふと何かが動く気配がして薄目に世界を見ると、愛佳が白く細い指で、私のイヤリングを外すところだった。

落ちていくイヤリングがスローモーションのように見えて、やがてそれは、かしゃん、と濡れた地面に叩きつけられた。


唇は塞がれたままで。
思考もふやけたままで。


おもむろに、同じように、愛佳のピアスに手をかけた。
けれど、イヤリングとはまた勝手が違うそれはうまく外れてくれなくて、ただ控えめに指が彼女の耳を彷徨うだけだった。

ふと、息継ぎのように唇が離れた。

浅い呼吸で息を吸ううちに、愛佳がピアスを外して、それを指で持ったまま、私の耳元へ手をやった。


なにするの?の一言は、冷たい吐息の中で消えた。


また真っ黒になった世界で、私の左耳をやさしく撫でた指が、主張せずに開いていたピアスホールに器用にピアスをつけた。
愛佳の指とピアスから伝わった雫が、また冷たく肩に落ちた。

全神経が左耳と唇に集中して、そこにだけ確かに、温もりをもっていた。


「…あいしてるよ、」


一瞬離れ、囁かれた声に私からキスをした。
黒いもやに覆われた寂しさを埋めるように。
左耳と唇だけが持っている温もりが、全身に伝わるように。

両腕を愛佳の背中に回し、指先に当たる短い髪の毛をくしゃりとゆるく握った。


雨は止まない。


止まないでほしい。今だけは。

滲んだ感情と灰色で、今だけは私たちを隠して欲しい。


今や全身に伝う雨粒は、寒気と確かな温もりに発生した結露のようだった。



「…まな、か、…すき?」


「すき」


「…ふ、私だけ、?」


「りさだけ」


唇が微かに触れ合ったままの問いかけは、顎に伝って流れ落ちた。





どうしても息苦しくて、さみしかった日に、雨の中でゆるく抱き合いキスをした。

左耳につけられた金属が、その時差し出された愛は一時的でも偽りでもないと、静かに訴えてくる気がした。


指先の感覚がなくなってしまうまで、ただやさしくて激しい愛に、降られていたかった。



「…あい、してる、」


もうすっかり湿った背中に腕を回し抱きついて、涙に濡れたキスをした。