欅坂46 8thシングル『黒い羊』発売まで、
今日であと一週間となった。

音源やMVが解禁されてからというもの、さまざまな考察が飛び交ったこの曲について、あくまで私なりの解釈で、ここに書いていきたいと思う。



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『黒い羊』が解禁された当初の、神経を張りつめるような感覚を覚えているだろうか。
誰もがそうではなかったかもしれないが、少なくとも私は、たかだか5分程度のこの曲を聴くたびに体力を使い、精神を抉られたような気分になっていた。
MVの場合は特にそうだ。
苦しくて、何度も何度も聴くことが出来なかった。


さて、この感情は一体なんだろうか。

例えば『不協和音』の「欺きたいなら僕を抹殺してから行け」などのように、鋭利な刃物も同然の歌詞があるわけではない。
曲調も激しくはないのにも関わらず、グサグサと心に刺さってその棘が抜けない。苦しくてたまらなくなる。胸を掻きむしっても治らない。

なぜか。


それは、『黒い羊』の〝僕〟が、ついに大人になる手前まで来たのだと実感させられるからではないだろうか。


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欅坂46の主人公〝僕〟は、1stシングル『サイレントマジョリティー』から一貫して同一人物であることをまず頭に入れて考える。

静かな大衆の中に紛れ、社会に反感を覚え 拳を突き出した〝僕〟が、どこかでそんな世界の優しさを知り、過ぎ去っていく 今 という儚さを知り、そして、再び社会の闇に揉まれ 感情のままに反抗する。

ここの〝僕〟が、欅坂46を語る上では見逃してはならない『不協和音』の〝僕〟だ。



『不協和音』の〝僕〟は、極端である。
0か100しか知らない。周りに同調して裏切り者になること(0)と、自分の主張を曲げず貫くこと(100)しか頭にない。間なんて存在しないのだ。

だからこそ、1度や2度聴いただけではなかなか『不協和音』の世界にのめり込めない。
〝僕〟があまりに真っ直ぐで孤独で、悪く言えば 幼稚で協和することを知らないからだ。
自分の意思を貫けないことを悪だと信じて疑わず、そんな自分を説得しようとしてくる仲間にさえ“撃たれる”と思ってしまう。

実際、『不協和音』の〝僕〟のような人物が自分の周りに居たらどうだろうか。きっと、苛立って堪らなくなるはずだ。なぜなら、周りに一切合わせようとせず、そうするくらいなら死んだ方がマシだと言っているようなものだから、だ。
ハッキリ言って社会に適合しないだろう。

にも関わらず、『不協和音』が一定のゾーンを超えると心に染み込んでくるような気がするのは、私たちが〝僕〟の考えにほんの少しでも共感するところがあったというか、曲げずに死ぬまで貫き通す〝僕〟を、いわば 少し「かっこいい」と感じるからだと思っている。
一度それを感じたら『不協和音』の世界には誰でも入り込めるだろうと、勝手な確信がある。
あえて語弊のある言い方をするが、〝僕〟に洗脳されるのだ。

(少し話が逸れるが、興味があれば『不協和音』だけを数日間聴き続けてみてほしい。
これは私が体験しただけの話なのでなんの根拠もないが、あまりに引き込まれる。抜け出せなくなる。思考が何もかも暗くなり、まわりのもの全てが不信感に濡れ、疑心暗鬼になってしまう。
これを自分が主人公となり表現しようと思ったら、センター平手友梨奈と、彼女の代理でセンターを務めた菅井友香が「帰って来れない」ような気分になるのも、分かる気がする。)


さて、その暗黒の『不協和音』を抜けると〝僕〟の心情は急にコロッと変わる。
「そんな生き方も悪くはないんじゃない?」なんて、〝僕〟が言うと誰が想像しただろうか。


そして、心の中に燻っていた思いを爆発させぶつける『ガラスを割れ!』へと移り変わる。
「今ある幸せに どうしてしがみつくんだ?」なんて歌詞があるが、〝僕〟はどこかで、ほんの少しだけ愛に甘えていたのかもしれない。

ここで気になるのが、『不協和音』との対比だ。
散々書いたように、『不協和音』の〝僕〟は、妥協を知らずあまりに尖った主張の仕方だったのに対し、『ガラスを割れ!』の〝僕〟は、一回り逞しくなったように見えないか。
自らの主張をぶつけていることには変わりないが、少しばかり 理性が本質的に備わっているような気もする。今までずっと自分を「僕」と呼んでいた主人公がここでは〝俺〟へと変化したあたりから見ても、主人公はわずかに成長している。


3度目の荒波をくぐり抜け、次に主人公は迷いを抱く。周りや将来を見据え、そうしなきゃいけないのは分かってるけど…でも自分はそうしたくない、と葛藤する。
そしてここでも、〝僕〟の一人称が〝私〟へと変化する。繊細な感情を持ち合わせた、思春期の少女らしい部分も垣間見られたりする。
『不協和音』の〝僕〟とは別人のようだ。
〝僕〟は無自覚なのかもしれないが、主人公は確実に成長しているのだ。



そうしてやっと、今作『黒い羊』へと辿り着く。


さてここで、欅坂46の表題曲を一言で表すならどうなるだろうか。
正解なんてないが、『黒い羊』は「絶望」や「諦め」の色が強いように思う。

そう、〝僕〟は絶望している。
社会や人間のいろいろな面を見て、時に反抗して時には笑って、〝俺〟や〝私〟にもなって、そして今になって、絶望している。
大きすぎる社会の前に。
自分が異端なのだと、厄介者なのだと初めて気付き、蹲って苦しんでいる。

「 そうだ僕だけがいなくなればいいんだ 」

誰より孤高だった〝僕〟は、社会と、多数という名の正義の元に殺されたのだ。
生死の話ではない。
歌詞にもあるように、「僕は僕じゃなくなってしまう」、それはまさに〝僕〟の死を意味する。

〝僕〟の死、つまりそれは。

主人公は、ここに来て初めて、「大人になる」ことの意味を知り、絶望して立ち竦んでいる。


「 白い羊なんて僕は絶対なりたくないんだ 」

周りと同じなんて嫌だ。飲まれたくない。
けど、ならなきゃいけない。

〝僕〟は、それが分かっている。

そして、私たちも、心の内側でそれを理解できるからこそ涙があふれる。
大人になるってこういうことだ、と痛感する。

MVを見れば分かるように、〝僕〟は それぞれの“黒い羊”(=厄介者)に手を差し伸べ、救い、最後には糾弾する。

「 自らの真実を捨て
     白い羊のふりをするものよ
     黒い羊を見つけ指をさして 笑うのか?  」

大人になりたくない。同じ色に染まりたくない。
自分の目の前にいる大人も、かつては自分と同じような厄介者だったのだろうか。
そして大衆に染められた今、黒い羊を見て指をさして嘲笑するのだろうか。

それなら僕がいつだって、ここで悪目立ちしててやる。
〝僕〟の悪あがきだ。
いずれ染まらなければいけない運命を遠ざけたくて、もがいている。


あまりにも苦しい。


「大人たちに支配されるな」と拳を振りあげた少女は今、大人になろうとしている。
ならなければいけない事に、諦めの色を滲ませながら、僕は僕でいたいと叫んでいる。


だからこそ悲しい。
ただ反抗しているだけではない。
〝僕〟が心のどこかで諦めてしまっていることが分かるから、悲しい。




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2期生も本格的に加入してきた今、『黒い羊』こそが今までの欅坂46の集大成だろう。
その最後で、主人公がたどり着いた結末はあまりにも悲しい。
立ち直れない。どうしようもない。


しかし、欅坂46はまだ終わらない。

先のことなど分からないから、これからも欅坂46の曲の中にある主人公が変わらず〝僕〟なのか、それ以外なのか、〝僕〟はもう大人になってしまうのか、そうではないのか。

予想はできても、まだ何もわからない。
だからこそ、次が怖いような楽しみなような、そんな気持ちにさせられる。
欅坂46はすごい。いつだって私たちを虜にする。
たかだか数分の曲で、涙が溢れて止まらなくなる。
彼女たちに出会えて良かったと心から思う。



さて、数日後にはテレビでの『黒い羊』初披露も迫っている。
そうすればまた、新しいものが見えてくるだろう。

欅坂46は私たちをいろんな世界へ連れて行ってくれる。いろんな景色を見せてくれる。

欅坂46の主人公は、アニメや漫画の主人公のように強くて揺らぎないように見えて、誰よりも人間くさい。だからこそ共感できる。救われる。

最後まで見届けたい。

〝僕〟は、この先どうなるのだろうか。

目が逸らせない。





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白い羊なんて 僕は絶対なりたくないんだ