箱根の旅 二日目
雨音と鳥の声
深い霧
天気予報は雨
今日は美術館めぐりです
ポーラ美術館
「THE IMPACT OF VAN GOGH 」
解説文はHPからお借りしました
パリ
パリで画商として活躍していた弟であるテオのもとにゴッホがやってきたのは、1886年のことです。この年には最後の印象派展となった第8回展が開催されており、点描技法を駆使したスーラやシニャックの作品が話題を呼んでいました。芸術の都で印象派や新印象派といった新しい絵画の潮流に身を投じたゴッホは、最新の技法による実験に明け暮れ、色彩にあふれた作品の数々を制作します。画家にひときわ影響を与えた日本の浮世絵に慣れ親しんだのも、この都市においてのことでした。
ポール・セザンヌ
「プロヴァンスの風景」
1879年から1882年頃
フィンセント・ファン・ゴッホ
「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」
1888年
アルル
1888年、陽光と色彩にあふれる南仏のアルルに到着したゴッホは、自らがユートピアとみなしたこの土地で、精力的に絵画制作に励みます。この地で制作された《ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋》では、画面の大半を占める空と運河の青に対して橋と土手には部分的に黄色が、土手に生い茂る草や橋上の低木林の緑のなかにはアクセントとして赤が置かれています。ゴッホは、自らの得意とした補色の効果を確かめようとしていたのです。「耳切り事件」ののちにゴーガンとの共同生活が破綻すると、ゴッホは失意のなかでアルルを去りました。
フィンセント・ファン・ゴッホ
「草むら」
1889年
サン=レミ
たび重なる精神の不調から、ゴッホは南仏のサン=レミにあるサン=ポール・ド・モーゾール療養院に入院しました。何週間ものあいだこの敷地のなかに留まらなければならなかったゴッホは、いくども発作を起こしながらも、病状が落ち着いた際には療養院の庭での戸外制作に取り組んでいます。さまざまな諧調の緑を用いて描かれた《草むら》はこの庭で描かれた作品であり、範囲を限定して庭の一角を取り上げることで、色彩の効果や草むらそのものの存在感が高められています。
フィンセント・ファン・ゴッホ
「花とアザミのある花瓶」
1890年
オーヴェール=シュル=オワーズ
1890年にゴッホがオーヴェール=シュル=オワーズに移り住んだのは、精神科医であるガシェによる治療を受けるためでした。ゴッホが亡くなるおよそ1ヵ月前に制作されたのが《アザミの花》です。画面の中心にはあざやかなアザミの丸い花が配されており、ここからアザミの鋸歯(のこぎりば)状の葉や麦の穂が、放射状の広がりを見せています。花瓶には同心円状に、そして背景には縦横に交差するかたちで、ゴッホ特有の細長い筆触が施されており、その描写は活力に満ち溢れています。ゴッホはオーヴェールの地で、自らの胸にピストルを発砲し、その2日後である7月29日に亡くなりました。
フィンセント・ファン・ゴッホ
「ヒマワリ」
1888年
陶板による再現
ゴッホがアルル滞在中に友人のポール・ゴーギャンのために描いた「ひまわり」シリーズの一部
かつて日本の収集家が所有していたが、1945年の米軍による芦屋空襲で焼失(終戦のわずか9日前)
かつて日本の収集家が所有していたが、1945年の米軍による芦屋空襲で焼失(終戦のわずか9日前)
クロード・モネ
「睡蓮の池」
1899年
「睡蓮の池」
1899年
モネは、1883年からパリの北西70kmの美しい村ジヴェルニーに移住し、ここに家を建て、庭を造成します。家の前には色とりどりの花が咲き乱れる「花の庭」を造り、1893年には家の敷地の道路を隔てた隣の土地を買い、「水の庭」を造りました。「水の庭」には、池を作り睡蓮を植え、池の上にはモネは好きだった日本の浮世絵に描かれたような日本風の太鼓橋が架けました。そして池の周りには柳、竹、桜、藤、アイリス、牡丹などさまざまな植物が植えられました。この自分がつくり上げた幻想的な庭で、モネは睡蓮の池と橋の風景を描いていますが、この作品は18点の連作のうちの1点です。
岡田美術館
様々な展示品の中、なぜか強く惹かれたハニワ
子供が乗れそうな位大きくて、実物はもっと可愛いです
(写真はHPからお借りしました)

「埴輪 飾り馬」古墳時代 5~6世紀
足湯カフェから見える巨大な風神雷神図
帰りは箱根登山線


























