教会
詩誌に載せる原稿が、年1回の発行だけど、6月末で締め切りだ。下書きの積りで書こうとしている。十年以上欠かさず投稿しているのだが。やらなくては。タヒチにて、22歳。タヒチの詩より。教会 Cathedrele 教会のまばゆき光を背に 影濃く はにかみて笑う 謎の仕草は とまどうばかり 異国にて育ちし美しき混血娘 聖書から 厳かな聖堂から染まりし いらぬ生真面目さをひらかしたりせぬ なんでその純情さにまさりたるか このまま静かに別れるのは 余りにもそっけなさすぎる さりとて懺悔の後に この静かな 暑さ去った夜半を 嬉々と過ごすには 身が引ける 目元ほほえむ さわやかな乙女に 小さく捧げよう ボンソワールと 彼女もすぐさま答えました ボンヌイと 。 私は、教会に興味はあったが、なぜに必要かわからなかった。見える、打ち解ける自然が、やさしさと慰めてくれるものと思っていた。その自然界も、神、主が造られたと納得できたのは最近のことだった。ただそれは、自分の安らぎだった。主は語り掛けてくれない。キリストを通さなければ、主を知ることできないのべられている。旧約のヨナ記に惹かれた主と友のように語っている。私はなぞっていくしかない。主はニネベに行けと言った。彼はニネベが嫌いだ私は、心に背いて進路を変えた。船に乗ってどこかに行こうとした船は主の怒りで、海は荒れた原因はそれだから、手足を縛られて海に捨てられた。嵐は収まったが、大きな魚に飲まれた主に祈ってお願いして、なんとか生き延びて魚の腹から吐き出された。私は自由な時となり、元の教会に戻ろうとしたみことばを学び、礼拝に欠かさず、奉仕したニネべのような教会は4年間 私を受け入れてくれなかった私はふてくされて作ってくれたとうごまの陰で憩ったが枯れさせられてしまい怒るがその教会の人をどうして惜しまずにおられるかと言った。そして私は、やや離れた牛久の教会に通い教会員にしてもらった