選別 | § Unconscious Control §

§ Unconscious Control §

xxx FREEDOM SIDE xxx


みなさんこんにちは。

今日は安息日ですね。

ユダヤ教では今日は仕事はおろか食料の買い物すら禁止だそうで。

皆さんもしっかりエネルギー蓄えてください。



という事で久しぶりのブログ。自分の言葉で綴るのがね

最近はほとんど書く事がなかった。(何もないわけじゃないけど)

自分的にブログっていうのは単に起きた出来事を書いていても自分的にはしっくり来ないっていうのがありましてね。

どういうわけかタイミングがあるんですよ。

強いていうならヒントとインスピレーションが降りた時。
自分の内面の声が囁いた時、または刺激を受けて何か言いたそうな時。

でも 今回の内容はきっと周りの人からすると本当に大した事ではない
事だろうと思いますが。

わたし的には本当に大した事ある内容です。

それが選別です。




何が?って話だと思いますが

これは自分のより深い部分。
の質を改善する事により今より良くなる為の個人的な
心の浄化作業です。






簡単な質問ですが、あなたは自分が好きな物と嫌いな物が分かりますか?

わたしはずっと分かりませんでした。

まずこの時点でスタートラインがだいぶ違うと思うのですが・・・事実です。
単純に子供の時好きだったものなんですか?

おもちゃ?
サッカー?
野球?
鬼ごっこ?
ゲーム?
友達とのじゃれ合い?
おしゃべり?
ハンバーグ?
カレー?
美味しいデザート?

まあ笑 何でもいいのですが・・・


実際私はわかりません。

確かにハンバーグを食べれば美味しいと思います。
美味しいものを食べれば美味しいと思います。

ただ食べ終わっても、食べる前と何も変わっていないのです。
別に満たされたとも思いませんし、幸せだとも感じません。

ただ単に『味が美味しかった』という感想が残るだけです。

これは、食べ物に限らず何においても同じ感覚でした。


日常において満たされるという感覚がほぼ皆無だったのです。



この原因が私の人間性にとても大きく影響を及ぼしていた。のか
または生まれた時から元からこのような感覚の人間だった。のかは
わかりません。


が、
その原因が今の私という人間を形成して来た。

と言うのは現実ですし、その原因によりこれまでのストーリーが形成されて来たのです。



その原因というのは


『自分の好きなことを嫌いになり、嫌いなものを好きだと思う。』


これですね。


よく意味がわからないと思いますが。
じゃあこれ今からあなたやってください。
どのぐらいの時間があれば出来ますか?

どれぐらいの期間これ続けられます?





まあ、その答えは興味ないですが。



私はほぼこれをして来ました。


うっすら(本当はしっかりと)自分の意思はあるんですよ。
このがんじがらめの指令で固められた頭の中に物凄いロープや鎖で縛られた。
とてつもない自分のエネルギーっていうものがあるんですよ。

ただその意思はその意思自身の願望を忠実に満たす事は許されていません。
それはしっかりとした恐怖で震え上がらされている状態です。
鎖を今にもちぎって大暴れするだけのエネルギーが封じ込められています。

イメージできましたでしょうか。


そのがんじがらめになっている縛られた意思が例えば温泉に行きたい。
と思うとします。


当然叶うはずも無いわけです。
なぜならそれは禁止されているから。
ルールです。


じゃあどうするか。

簡単です。それ以外の事をすればいいのです。
それ以外のしたくもなかった事をしたかった事だと思い込ませれば良いのです。

そうしているうちに温泉に行きたかった。
という自分の意思は無かったんだと思うようになります。
(本当は思えていないのだけど)


じゃあ、例えば自分では温泉に行きたいと思った。
そしていつも通り行ってはならないと自分に思い込ませた。
しかし人が段取りまでしてくれて全て用意してくれたので現実的に行く事になった。

この場合どうなるのか。



この場合実際に温泉に行っても何も感じません。

いや厳密にいうと温泉は気持ち良かったと言うでしょう。
しかし。行く前と何も変わっていないし、行った事によって幸せだとも思いませんし。
満足感もさほどありませんし。残るのは空虚感だけです。



これがあらゆる事でおきます。


恋愛においても起きます。


人を好きだと思った。(多分だけど)←これは本当にわからない。
※厳密に言うと本当に人を好きだと言う感情がわからない。

それと同時に多分これは好きだと思ってはいけない。と言う意思が働く。

打ち消しがすでに起きているのだ。

この作業に迷いはないし、葛藤もない(意識レベルでは)
無意識レベルでは当然あると思う。←これは制御できるが常に胸が苦しい原因でもあり、私の人生にとっての障害そのものだ。



昔、(と言っても私が人生に打ち砕かれ闇をさまよっている時)※精神と肉体の限界まで至った時。正しくは時期は覚えていない。


真言宗の高野山で修行したと言う僧侶の元を訪れ診てもらった事がある。

その時に言われた事を思い出したのである。

僧侶『あなたは好きな人に好きって言えないだろう』

この時私はこう思った。
(全然言えるし・・それは違う)と

ただ今思えばそれが全てだったのだ。




じゃあいつからそうなのだ・・・・



それがわからない・・・・




好きなものはそもそもあったのか・・・・



私の幼少期はこうでした。ありとあらゆるものが禁止され何も与えられず、私と言う個の存在としての人格は尊重されず興味を持たれる事は無く、外向きの家族のステータス用の子供になる為にしたくもない習い事をいくつも掛け持ちしながら怒鳴り声の中で厳しい言いつけを守っていた記憶を思い出すと、そこにはすでに疲れ切って無感情でノイローゼ気味になっている自分が容易に思い出せた。家族との血の通った会話は皆無でしたし。

完全に人として死んでいたなと。冷静に思う。

しかしその状況をどうにかしないといけなかった。


これが全ての始まりだったと思う。
全てを逆に思うしかなかったんだし、それしか方法がなかったんだととても納得できる。


家族との事は、今はもう色々経て今に至るまでに色々あって、別に隠す事もないし、自分の身に起きた事実や感情を家族にも全て話しているし(大変でしたが)自分としてもこの過去の事実を今更、感情任せに何か恨みだとか言うつもりもないとこまでは来ているし。そんな事は今はデータとしてでしか意味はない。


大事なのは今の自分にとって、頭では理解できていても立派に人格に盛り込まれてしまっていることの方が問題。突発的な状況で起きる無意識の判断がまだそこに既存していると言うことだ。

それまでの過去は原因がわからない事での苦しみだったが、
事実が明らかになり、ほぼ原因も特定できている状況の中、現存の後遺症というか性質として残ってしまった過去との付き合い方を常に求められている状況は、もう辛い過去を乗り越えたと思っている当人からすると改めて現実を見つめなければならないので、これはまた違う辛さがあるのだ。


ただ問題というものはある程度時間が解決してくれる。
という言葉があるように。

ある一定の時間が訪れると、『タイミング』というものが訪れるのだ。

このタイミングを逃さないためにしておく事はただ一つ。
自分を安全な状態にしておく事だ。

できる限り。

この意味がわからない人はきっとタイミングが来ても逃してしまうだろう。





私はこのタイミングが来た時。

初めて呼吸が気持ちいいと感じるようになった。

その後変動があり良い時と悪い時の差はあるが。
自分自身に対してある一定の安心感を育てられて来ている。または生まれて来ている。
証拠である。



これは本当に意図していない事であった。



何かを変える為には何かしなくてはならない。。。。



今までずっとこう考えて来たからである。



この変化がおとづれた時期の前に何をしていたか事後に思い返してみた。






めんどくせえ・・・



心からそう思えた事例があった。

どういう事かわからないかと思うが、
今までは自分のしたい事をしたくないと思い。
したくない事をしたいと思い込ませながら
選択をし満足感も得られず意味も分からず
謎のノルマと指令に突き動かされていたわけですが


めんどくせえ・・・


これが実は心の叫びとして心の底から素直に出たのが
生まれて初めてだった。と思うほど本当に底から吐き出したのである。



これやりたくねえ・・・
嫌いだ・・・


過去に何回かは思った事はあると思うが


実際はこの感情の出し方や処理の仕方がよくわからなかったのだ。


こんな事あるの?
と思う人も多いはずだとは思うが



自分でもよくわからないが
これしか思い当たる節がない。



そこで思い出したんだ。



高野山で修行した僧侶が言っていた言葉を

僧侶『あなた好きな人に好きだって言えないだろう』




私は長い間、自分の心が好きだと思ったものを好きではないと瞬時に思い込み、自分にとって不都合なものを受け入れそれを任務だと思い遂行して来たのだ。



これわかりますかね。


つまりは好きなものを好きだと言えないと同時にそれは嫌いなものを嫌いだと言えないという事でもあったのだ。そこに自分で気づいていなかったのだ。

心が欲している必要なものを受け入れないで、必要でないものばかり選択していたのだ無意識にね。

私にとってそれは苦しみでした。(自覚がなかったけど)
ただ実際にやることは可能だったんです。これが洗脳?教育?自分の意志よりも先に神の意思とでもいいましょうか・・・それが働くんですから。

一応説明として言っておくと、単純に嫌な事をする嫌な仕事をする。という簡単なものではなく、人生において一瞬もそうでない時がないという事なんです。嫌な仕事をした後に大好きなアイスクリームを食べてニンマリや大好きな事をして嫌な仕事をした分自分を楽しませるという事もなく一瞬たりとも自分のために選択できない状態。満足感を得られない状態の事です。



しかしこのプロセスの経た事によって生まれた
2つの事実が存在するんですね。



個としての私の人生の犠牲。

道具としての私の肉体と精神のブラッシュアップ。


前者がマイナス点であり。
後者がプラスの点である。




前者を抱えた私、個人としての自我が崩壊し肉体的にも滅びかけ精神も爆発し
自らも限界を認める事によりこの事実への存在が明らかになるターニングポイントとなった。


後者は個人としての自我を超越した意思により個人的な主観に惑わされず物事の良し悪しを分別でき、自らの損得の感情に惑わされない判断能力。派閥によって起きる疎外感や孤立に対する耐性があり、自らの立ち位置から全てを発信できる事が強みである。




現在の自分には癒しが必要である。
前者によって酷いダメージを受けているからとてつもない癒しが必要である。


しかし皮肉なもので通常癒しとは自分にとって良いものを取り入れ、安心できる良い事をするのだが、まだ無意識レベルで癖が残っているのである。それを受け入れようとしない癖がまだあるのである。

むしろ、自分にとって好ましくないものであったり、本当に心の声で自分が選んだものではないものをまだ選びがちなのである。


この性とは、今気を楽にして向き合っている最中である。


この選別によりこれからの自分はさらに進歩する。


これまでは好ましいもの。必要だと思うものを取り入れるというよりかは、そうでないものを受け入れ身に纏いすぎた。なので逆にこれからはそれをそぎ落とし排除し身を軽くしていくだけの実は簡単な作業なのだから、気持ちは楽だ。

コーヒーを飲みながら。
好きな曲を聴きながら好きなものを作り。
好きなものを食べ。
好きな人と好きなだけ語り。
好きなだけ笑好きなだけ寝る。

私はこれをするべきだし。
これをしなくてはならない。


このために必要な事は、全て逆の考えだった。

何かを変えるためには何かをするのではなく
何かをしなくする。
または何かを切り捨てる。
何が嫌いなのかを知る。
何かを選択しない。


というとてもシンプルな事だった。

好きな事を知るためには嫌いな事を知る事だった。

物事をシンプルにする。
これこそが全ての問題や人生の解決方法だった。


その選択権は永久に与えられている。
まだ感覚として身に付いていないが恐る恐るそれをこれからしていこうと思う。



そして今日こんな言葉を拾った。


『ラーメン屋にはラーメンを食べたい人が集まっている。
焼肉屋には焼肉を食べたい人が集まっている。』


わかるかい?

どういう意味で、何が言いたいのか。


想いがシンプルで純粋でその思いに忠実にまっすぐ動けば同じ状態にいる良い仲間は同じ場所に集まるという事だ。


その為には何が好きで何が嫌いかをしっかりと選別し
自分の心の状態をシンプルにしておく必要がある。



多分問題なくできている小学生とかもいるだろうけどね。
これが今大事なんだ。
よりシンプルに磨き上げる必要がある。



Gets even better.