クビになるかも...と書いて以来の更新になります。大学院生時代以来の経験の範囲では、「ボスの言うことを聞いた結果ダメだった」というケースでボスが責任を取る態度を示したことは皆無でしたから、今回は「ダメならクビ」という切羽詰まったケースではありましたが、いつもどおり自分が思うところのベストを尽くすことにこだわり、なんと奇跡的に大当たり。当面の危機を無事に乗り切ることができました。
だからといって、忙しい生活が少しはマシになるかと言えば、毎日一度は家に帰るようになった程度で、あいかわらず体力的にきつい生活ではあります。とはいえ、なによりも良かったのは、ボスにとっても私にとっても、八方ふさがりの状況に一転して光が差してきたことで、同じ苦労でも、気持ちの面ではずいぶんと楽になりました。
というわけで、がんばっているわけですが、先週末からかぜをひいてしまい、ちょっとスローダウン。そのついでに久々のブログ更新です。
日本を離れてすでに6年たちますが、昔の同僚やその他の友人たちが機会を見つけては訪ねてきてくれたり、メールや手紙をくれたりすることには、心から感謝しています。
しかしこれだけの時間がたつと、お互い少しずつ違ってきてしまいます。彼らが少し違った私を見て内心どう思っているかはわかりません。私が少し違って見える彼らに最近共通して思うのは、「日本、本当に大丈夫なのかな?」ということです。
会社員であったり、大学の先生であったりする彼らは、社会的に見れば、いわゆる「勝ち組」でしょう。さまざまな不満がありつつも、それなりに恵まれた生活をしています。
一方で、社会全体には解決すべき様々な問題があり、困窮者は増え、政治は混迷するばかり。強力なリーダーシップが政治に期待できない状況では、社会を変える原動力足り得るのは国民の草の根の努力しかありません。そして本来はそれをリードすべき立場にあるのが、これら「勝ち組」の人たちであり彼らが属する大学や企業などの組織であるのだと私は思います。
しかし私が彼らの中に見るのは、手に入れた小さな安心をどうやって守るか、という心配ではあっても、自分たち(家族、部署、会社、大学、地域社会、国家、世界)の未来はどうあるべきか、という希望や使命感では決してない。「大きなものには逆らえない、逆らいたくない」という消極的な日本的生活の知恵だけでなく、「自分たちはスゴいんだ」という無根拠な自信が、自らが変わる必要性など存在しないと積極的に彼らに語りかけているようです。
ある日本人の女性研究者がふと漏らした一言を思い出しました。彼女曰く、アメリカ駐在のご主人と一緒に来られた女性たちと話していると、彼女たちは一様に自分の夫が非常に賢く有能だ、と心から思い尊敬していることを知り、彼らがどの程度の人材か自分の目で見ているだけに、衝撃を受けたそうです。家庭で妻が夫を尊敬するように、彼らは自分の上司や会社や大学を尊敬し、祖国を尊敬しているのかもしれません。彼らが勝ち組であるということは、日本社会はそういう人間が成功しやすい社会だということでもあるかもしれません。
そのことへの是非は別としても、日本は変わる必要があります。政治や組織だけではなく、個人の意識のレベルから根底的に変わらないと、泥舟が沈むように日本は凋落していくしかないように、外部にいる人間の目には見えます。日本など、もはや海外での存在感はないに等しい。そのことが日本にいる日本人には全く分かっていないというのが、友人たちとの会話から得る私の実感です。
私の働く大学の数少ない日本人教授の一人が、近々日本に帰国することになりました。東京大学の教授になられるそうです。この方には大変お世話になりましたので個人的にはなんとも心惜しいところですが、日本人的には「ご栄転」をお祝いしなくてはならないところなのでしょうね。
ここから先の話、もし万が一私がどなたのことを書いているかお分かりになったとしても、どこかの知らない大学の先生の話、として読んでいただければ幸いです。
この先生に先日お会いしたときに「どうして帰ることにしたのか、今考え直してみても、よくわかんないんだよねぇ」とおっしゃっていたので、お話をよく聞いてみれば、入学してくる学生のレベルが高い以外の点においては、所得その他いかなる点においても、彼にとって移動するメリットは一切ないのだそうです。お子さんたちもすでにこちらで独立して生活しています。
さらにどうやら彼を気後れさせているのは、実際の大学運営の事情などが少しずつ見えてくるにしたがい実感した、現状維持に汲々とし未来を見据えた思考のできない組織の実態や、東大はスゴい、日本はスゴい、という無根拠な自信がはびこる場の居心地の悪さ、同僚となる他の教授陣との微妙な価値観の違いなどであったりするようです。
この先生、アメリカでの生活はすでに長年にわたりますが、国籍は日本のまま変えずにグリーンカードで通してこられました。ところが、つい数日前に人づてに聞いた未確認情報によると、日本帰国を目前にしてアメリカ国籍を取得されたとのこと。ルールによると、彼は大学における現在の地位を2年間は維持したまま日本に移ることができるそうですから、どうやらアメリカに舞い戻ってくる可能性をかなり真剣に視野に入れているようです。
友人たちとの会話に話を戻しますが、彼らは何も分かっていないわけではもちろんなく、組織の様々な問題もしばしば話題に上ります。しかし正論をぶつ人間から真っ先に干されていってしまう、時には上司が言うなら黒いカラスも白いと言わざるを得ないような組織の力の前に、何もできない無力感、あきらめ、そして結論としての自己保身が彼らの意識を覆い尽くしてしまっているようです。
そして責任はすべて政治や官僚や既得権層へと転嫁されてしまうのですが、それで本当にいいのでしょうか。確かに組織内部の軋轢も突き詰めれば、社会全体における軋轢と同様に、限られた資源の分配をめぐる争いであって、非効率的に資源を浪費している人々が批判の的となるのは当然とは思います。
しかし問題だと私が思うのは、その結果として、すべての議論が「いかにして自分や自分たちの組織や社会階層がより多くの資源を獲得するか」という損得勘定に成り下がってしまい、自分たちの組織がいかに社会に非効率をもたらしているか、そしてそういった非効率をいかにして解消し、自分たちの組織が社会の生産により貢献できるようにするか、といった観点が全く欠如していることです。
組織の非効率はめぐりめぐって社会全体の非効率になり、日本全体の競争力を大きくそぎ落とします。組織は変えようがないとあきらめつつ、それでも生活水準を落とさないとすれば、考えうる選択肢は、自分でもっと働くか、さもなくば弱者から政治力やその他の力で資源を奪い取るかの二者択一です。日本で実際に起こっているのは後者であるのは、その形態は様々ではありますが、誰の目にも明らかでしょう。
国を問わず弱者の最たるものは、政治力を持たない子供たちと彼らに続くまだ生まれていない世代たちです。しわよせが彼らに集中した結果が現時点で対GDP比200%到達目前という国債発行残高です。自分かわいさのちょっとした自分勝手の積み重ねが国家を沈めようとしていると言っては言い過ぎでしょうか。変わらなくてはならないのは、他人よりも誰よりも、自分自身なのだと思います。
極論すれば、クビになろうが、干されようが、正論は正論として主張し、正しいと思うことを行動で示すことが当たり前にできる組織に社会にしなくては未来がないと思います。そしてその最初の一歩を、クビになる覚悟で、干される覚悟で、踏み出せる勇気を一人一人が持たない限り、未来はないのだと思います。誰かが一歩を踏み出せば、後に続く誰かが踏み出す一歩は、もう少し簡単になっているはずです。
そういう勇気を出すべきときに出せる人間で私はありたいと思います。クビになったとしたところで、そこで人生が終わるわけではないんですから。
だからといって、忙しい生活が少しはマシになるかと言えば、毎日一度は家に帰るようになった程度で、あいかわらず体力的にきつい生活ではあります。とはいえ、なによりも良かったのは、ボスにとっても私にとっても、八方ふさがりの状況に一転して光が差してきたことで、同じ苦労でも、気持ちの面ではずいぶんと楽になりました。
というわけで、がんばっているわけですが、先週末からかぜをひいてしまい、ちょっとスローダウン。そのついでに久々のブログ更新です。
日本を離れてすでに6年たちますが、昔の同僚やその他の友人たちが機会を見つけては訪ねてきてくれたり、メールや手紙をくれたりすることには、心から感謝しています。
しかしこれだけの時間がたつと、お互い少しずつ違ってきてしまいます。彼らが少し違った私を見て内心どう思っているかはわかりません。私が少し違って見える彼らに最近共通して思うのは、「日本、本当に大丈夫なのかな?」ということです。
会社員であったり、大学の先生であったりする彼らは、社会的に見れば、いわゆる「勝ち組」でしょう。さまざまな不満がありつつも、それなりに恵まれた生活をしています。
一方で、社会全体には解決すべき様々な問題があり、困窮者は増え、政治は混迷するばかり。強力なリーダーシップが政治に期待できない状況では、社会を変える原動力足り得るのは国民の草の根の努力しかありません。そして本来はそれをリードすべき立場にあるのが、これら「勝ち組」の人たちであり彼らが属する大学や企業などの組織であるのだと私は思います。
しかし私が彼らの中に見るのは、手に入れた小さな安心をどうやって守るか、という心配ではあっても、自分たち(家族、部署、会社、大学、地域社会、国家、世界)の未来はどうあるべきか、という希望や使命感では決してない。「大きなものには逆らえない、逆らいたくない」という消極的な日本的生活の知恵だけでなく、「自分たちはスゴいんだ」という無根拠な自信が、自らが変わる必要性など存在しないと積極的に彼らに語りかけているようです。
ある日本人の女性研究者がふと漏らした一言を思い出しました。彼女曰く、アメリカ駐在のご主人と一緒に来られた女性たちと話していると、彼女たちは一様に自分の夫が非常に賢く有能だ、と心から思い尊敬していることを知り、彼らがどの程度の人材か自分の目で見ているだけに、衝撃を受けたそうです。家庭で妻が夫を尊敬するように、彼らは自分の上司や会社や大学を尊敬し、祖国を尊敬しているのかもしれません。彼らが勝ち組であるということは、日本社会はそういう人間が成功しやすい社会だということでもあるかもしれません。
そのことへの是非は別としても、日本は変わる必要があります。政治や組織だけではなく、個人の意識のレベルから根底的に変わらないと、泥舟が沈むように日本は凋落していくしかないように、外部にいる人間の目には見えます。日本など、もはや海外での存在感はないに等しい。そのことが日本にいる日本人には全く分かっていないというのが、友人たちとの会話から得る私の実感です。
私の働く大学の数少ない日本人教授の一人が、近々日本に帰国することになりました。東京大学の教授になられるそうです。この方には大変お世話になりましたので個人的にはなんとも心惜しいところですが、日本人的には「ご栄転」をお祝いしなくてはならないところなのでしょうね。
ここから先の話、もし万が一私がどなたのことを書いているかお分かりになったとしても、どこかの知らない大学の先生の話、として読んでいただければ幸いです。
この先生に先日お会いしたときに「どうして帰ることにしたのか、今考え直してみても、よくわかんないんだよねぇ」とおっしゃっていたので、お話をよく聞いてみれば、入学してくる学生のレベルが高い以外の点においては、所得その他いかなる点においても、彼にとって移動するメリットは一切ないのだそうです。お子さんたちもすでにこちらで独立して生活しています。
さらにどうやら彼を気後れさせているのは、実際の大学運営の事情などが少しずつ見えてくるにしたがい実感した、現状維持に汲々とし未来を見据えた思考のできない組織の実態や、東大はスゴい、日本はスゴい、という無根拠な自信がはびこる場の居心地の悪さ、同僚となる他の教授陣との微妙な価値観の違いなどであったりするようです。
この先生、アメリカでの生活はすでに長年にわたりますが、国籍は日本のまま変えずにグリーンカードで通してこられました。ところが、つい数日前に人づてに聞いた未確認情報によると、日本帰国を目前にしてアメリカ国籍を取得されたとのこと。ルールによると、彼は大学における現在の地位を2年間は維持したまま日本に移ることができるそうですから、どうやらアメリカに舞い戻ってくる可能性をかなり真剣に視野に入れているようです。
友人たちとの会話に話を戻しますが、彼らは何も分かっていないわけではもちろんなく、組織の様々な問題もしばしば話題に上ります。しかし正論をぶつ人間から真っ先に干されていってしまう、時には上司が言うなら黒いカラスも白いと言わざるを得ないような組織の力の前に、何もできない無力感、あきらめ、そして結論としての自己保身が彼らの意識を覆い尽くしてしまっているようです。
そして責任はすべて政治や官僚や既得権層へと転嫁されてしまうのですが、それで本当にいいのでしょうか。確かに組織内部の軋轢も突き詰めれば、社会全体における軋轢と同様に、限られた資源の分配をめぐる争いであって、非効率的に資源を浪費している人々が批判の的となるのは当然とは思います。
しかし問題だと私が思うのは、その結果として、すべての議論が「いかにして自分や自分たちの組織や社会階層がより多くの資源を獲得するか」という損得勘定に成り下がってしまい、自分たちの組織がいかに社会に非効率をもたらしているか、そしてそういった非効率をいかにして解消し、自分たちの組織が社会の生産により貢献できるようにするか、といった観点が全く欠如していることです。
組織の非効率はめぐりめぐって社会全体の非効率になり、日本全体の競争力を大きくそぎ落とします。組織は変えようがないとあきらめつつ、それでも生活水準を落とさないとすれば、考えうる選択肢は、自分でもっと働くか、さもなくば弱者から政治力やその他の力で資源を奪い取るかの二者択一です。日本で実際に起こっているのは後者であるのは、その形態は様々ではありますが、誰の目にも明らかでしょう。
国を問わず弱者の最たるものは、政治力を持たない子供たちと彼らに続くまだ生まれていない世代たちです。しわよせが彼らに集中した結果が現時点で対GDP比200%到達目前という国債発行残高です。自分かわいさのちょっとした自分勝手の積み重ねが国家を沈めようとしていると言っては言い過ぎでしょうか。変わらなくてはならないのは、他人よりも誰よりも、自分自身なのだと思います。
極論すれば、クビになろうが、干されようが、正論は正論として主張し、正しいと思うことを行動で示すことが当たり前にできる組織に社会にしなくては未来がないと思います。そしてその最初の一歩を、クビになる覚悟で、干される覚悟で、踏み出せる勇気を一人一人が持たない限り、未来はないのだと思います。誰かが一歩を踏み出せば、後に続く誰かが踏み出す一歩は、もう少し簡単になっているはずです。
そういう勇気を出すべきときに出せる人間で私はありたいと思います。クビになったとしたところで、そこで人生が終わるわけではないんですから。