クビになるかも...と書いて以来の更新になります。大学院生時代以来の経験の範囲では、「ボスの言うことを聞いた結果ダメだった」というケースでボスが責任を取る態度を示したことは皆無でしたから、今回は「ダメならクビ」という切羽詰まったケースではありましたが、いつもどおり自分が思うところのベストを尽くすことにこだわり、なんと奇跡的に大当たり。当面の危機を無事に乗り切ることができました。

だからといって、忙しい生活が少しはマシになるかと言えば、毎日一度は家に帰るようになった程度で、あいかわらず体力的にきつい生活ではあります。とはいえ、なによりも良かったのは、ボスにとっても私にとっても、八方ふさがりの状況に一転して光が差してきたことで、同じ苦労でも、気持ちの面ではずいぶんと楽になりました。

というわけで、がんばっているわけですが、先週末からかぜをひいてしまい、ちょっとスローダウン。そのついでに久々のブログ更新です。

日本を離れてすでに6年たちますが、昔の同僚やその他の友人たちが機会を見つけては訪ねてきてくれたり、メールや手紙をくれたりすることには、心から感謝しています。

しかしこれだけの時間がたつと、お互い少しずつ違ってきてしまいます。彼らが少し違った私を見て内心どう思っているかはわかりません。私が少し違って見える彼らに最近共通して思うのは、「日本、本当に大丈夫なのかな?」ということです。

会社員であったり、大学の先生であったりする彼らは、社会的に見れば、いわゆる「勝ち組」でしょう。さまざまな不満がありつつも、それなりに恵まれた生活をしています。

一方で、社会全体には解決すべき様々な問題があり、困窮者は増え、政治は混迷するばかり。強力なリーダーシップが政治に期待できない状況では、社会を変える原動力足り得るのは国民の草の根の努力しかありません。そして本来はそれをリードすべき立場にあるのが、これら「勝ち組」の人たちであり彼らが属する大学や企業などの組織であるのだと私は思います。

しかし私が彼らの中に見るのは、手に入れた小さな安心をどうやって守るか、という心配ではあっても、自分たち(家族、部署、会社、大学、地域社会、国家、世界)の未来はどうあるべきか、という希望や使命感では決してない。「大きなものには逆らえない、逆らいたくない」という消極的な日本的生活の知恵だけでなく、「自分たちはスゴいんだ」という無根拠な自信が、自らが変わる必要性など存在しないと積極的に彼らに語りかけているようです。

ある日本人の女性研究者がふと漏らした一言を思い出しました。彼女曰く、アメリカ駐在のご主人と一緒に来られた女性たちと話していると、彼女たちは一様に自分の夫が非常に賢く有能だ、と心から思い尊敬していることを知り、彼らがどの程度の人材か自分の目で見ているだけに、衝撃を受けたそうです。家庭で妻が夫を尊敬するように、彼らは自分の上司や会社や大学を尊敬し、祖国を尊敬しているのかもしれません。彼らが勝ち組であるということは、日本社会はそういう人間が成功しやすい社会だということでもあるかもしれません。

そのことへの是非は別としても、日本は変わる必要があります。政治や組織だけではなく、個人の意識のレベルから根底的に変わらないと、泥舟が沈むように日本は凋落していくしかないように、外部にいる人間の目には見えます。日本など、もはや海外での存在感はないに等しい。そのことが日本にいる日本人には全く分かっていないというのが、友人たちとの会話から得る私の実感です。

私の働く大学の数少ない日本人教授の一人が、近々日本に帰国することになりました。東京大学の教授になられるそうです。この方には大変お世話になりましたので個人的にはなんとも心惜しいところですが、日本人的には「ご栄転」をお祝いしなくてはならないところなのでしょうね。

ここから先の話、もし万が一私がどなたのことを書いているかお分かりになったとしても、どこかの知らない大学の先生の話、として読んでいただければ幸いです。

この先生に先日お会いしたときに「どうして帰ることにしたのか、今考え直してみても、よくわかんないんだよねぇ」とおっしゃっていたので、お話をよく聞いてみれば、入学してくる学生のレベルが高い以外の点においては、所得その他いかなる点においても、彼にとって移動するメリットは一切ないのだそうです。お子さんたちもすでにこちらで独立して生活しています。

さらにどうやら彼を気後れさせているのは、実際の大学運営の事情などが少しずつ見えてくるにしたがい実感した、現状維持に汲々とし未来を見据えた思考のできない組織の実態や、東大はスゴい、日本はスゴい、という無根拠な自信がはびこる場の居心地の悪さ、同僚となる他の教授陣との微妙な価値観の違いなどであったりするようです。

この先生、アメリカでの生活はすでに長年にわたりますが、国籍は日本のまま変えずにグリーンカードで通してこられました。ところが、つい数日前に人づてに聞いた未確認情報によると、日本帰国を目前にしてアメリカ国籍を取得されたとのこと。ルールによると、彼は大学における現在の地位を2年間は維持したまま日本に移ることができるそうですから、どうやらアメリカに舞い戻ってくる可能性をかなり真剣に視野に入れているようです。

友人たちとの会話に話を戻しますが、彼らは何も分かっていないわけではもちろんなく、組織の様々な問題もしばしば話題に上ります。しかし正論をぶつ人間から真っ先に干されていってしまう、時には上司が言うなら黒いカラスも白いと言わざるを得ないような組織の力の前に、何もできない無力感、あきらめ、そして結論としての自己保身が彼らの意識を覆い尽くしてしまっているようです。

そして責任はすべて政治や官僚や既得権層へと転嫁されてしまうのですが、それで本当にいいのでしょうか。確かに組織内部の軋轢も突き詰めれば、社会全体における軋轢と同様に、限られた資源の分配をめぐる争いであって、非効率的に資源を浪費している人々が批判の的となるのは当然とは思います。

しかし問題だと私が思うのは、その結果として、すべての議論が「いかにして自分や自分たちの組織や社会階層がより多くの資源を獲得するか」という損得勘定に成り下がってしまい、自分たちの組織がいかに社会に非効率をもたらしているか、そしてそういった非効率をいかにして解消し、自分たちの組織が社会の生産により貢献できるようにするか、といった観点が全く欠如していることです。

組織の非効率はめぐりめぐって社会全体の非効率になり、日本全体の競争力を大きくそぎ落とします。組織は変えようがないとあきらめつつ、それでも生活水準を落とさないとすれば、考えうる選択肢は、自分でもっと働くか、さもなくば弱者から政治力やその他の力で資源を奪い取るかの二者択一です。日本で実際に起こっているのは後者であるのは、その形態は様々ではありますが、誰の目にも明らかでしょう。

国を問わず弱者の最たるものは、政治力を持たない子供たちと彼らに続くまだ生まれていない世代たちです。しわよせが彼らに集中した結果が現時点で対GDP比200%到達目前という国債発行残高です。自分かわいさのちょっとした自分勝手の積み重ねが国家を沈めようとしていると言っては言い過ぎでしょうか。変わらなくてはならないのは、他人よりも誰よりも、自分自身なのだと思います。

極論すれば、クビになろうが、干されようが、正論は正論として主張し、正しいと思うことを行動で示すことが当たり前にできる組織に社会にしなくては未来がないと思います。そしてその最初の一歩を、クビになる覚悟で、干される覚悟で、踏み出せる勇気を一人一人が持たない限り、未来はないのだと思います。誰かが一歩を踏み出せば、後に続く誰かが踏み出す一歩は、もう少し簡単になっているはずです。

そういう勇気を出すべきときに出せる人間で私はありたいと思います。クビになったとしたところで、そこで人生が終わるわけではないんですから。
来週に迫った恒例の研究室プレゼン。実は結果次第では即刻解雇もありうる状況ですが、それでも地域の仲間で集う週に2回の音楽活動(所詮「趣味」ではありますが)だけは欠かさずに続けています。自分で言うのもあれですが、もともとよく働き、友人との別れ際には決まって "Don't work too hard!" と言われてしまう私が、今や自ら "I'm overdriving myself" と表現せざるを得ない状況で、このひとときは、私の精神的なバランスを正常に保つ上でなくてはならないものです。

という前書きとはほとんど関係ないのですが、オーボエ奏者のデニスが何やら妙な楽器を持ってきています。よく見ると形はクラリネットなのですが。。。はい、どう見てもクラリネットです。でも。。。

$絶望日記-Metal Clarinet (Selmer Paris)

金属で出来ているんです。え~?! こんなクラリネット、初めて見ました。木材製の通常のクラリネットより外観は細く見えますが、それは本体が肉薄にできているため。管体内面の形状は正真正銘のクラリネットです。

実際に手に取って見せてもらいましたが、フランスのセルマー社製で、1940年代あたりの製造ではないか、とのことでした。デニスは本来オーボエ奏者だと改めて前置きしておきますが、これとは別にお父さんの形見でエボナイト製(!)のクラリネットを持っているそうで、それに比べてこちらの方がよい音がする、ということでこの楽器を今日は持ってきたそうです。(前置きしたからには、普通のクラリネットは持っていないのか! というツッコミはナシですよ ^_^)

肝心の音ですが、私にはごく普通のクラリネットの音に聞こえました。クラリネットはいかにも「木」管の音だと思っていたのですが、材質よりはむしろ構造による音色であったようです。考えてみれば、フルートも元々は木で出来た木管楽器でしたが、現在では金属製が基本形でしたね。どうして二つの楽器が異なる運命をたどる結果になったのか非常に興味深いところですが、そこまで深入りすると来週の解雇を決定的にしてしまいますので、それはまた後日の楽しみとしてとっておきたいと思います。

ではまた。
オルハンは、トルコ人同僚のご主人で、コンピュータープログラマーです。彼の勤務する会社ははるか離れたコロラド州にありますが、プログラミングはどこにいてもできるということで、ここ南カリフォルニアで奥さんと一緒に暮らしています。

どこにいてもできる、ということは家でなくてもできる、ということで、しばしば彼は私たちの研究室に来てプログラミングしています。こうすればふたりで一緒にいられる時間はさらに長くなる・・・いいなあ。

今日はまだクリスマス休暇の気分が抜けず、お茶飲み部屋、ではなくて(^_^;)、もとい多目的室でプログラミングしている彼にちょっかいを出しつつ、いろいろな話題で雑談しました。彼の本業の話にもなりました。曰く、彼が使う言語は八割ほどがC++、他にときどき使う言語がFortran、Haskell、C、C#、Java、Python、ごくまれにPerl、むかしやってもう忘れたのはPascal...プロはさすがずいぶんいろいろと知っているものです。

話を聞いていて面白かったのは、プログラミングも熟達してくると、プログラミング言語で考えるようになるんだそうで、彼の場合はもっとも頻繁に使用するC++で思考するくせがあるそうです。たとえばPythonで問題に遭遇すると、まずC++の枠組みで解決法を考えて、それを翻訳するというわけ。付け加えて、「言語にはそれぞれに特性や長所があるから、本来ならその言語の中で考えるべきなんだけれどね」と彼は言っていましたが、これって。人間が使う言語と全く同じ話ですね。

彼は大学を卒業しただけでそれ以上の学位はまだありませんが、どうやら私たちポスドクの倍以上の所得があります。そのおかげもあり、彼らふたりは、生活費に加えて奨学金の返済で首の回らない私に比べて(いや、比べるまでもなく)相当ゆとりのある生活を送っています。持つべきは高所得の配偶者でしょうか。ハァ...

hair sharp/flat シャープ・フラッ

これは音楽の話。チューニング(音程を合わせる)の場面で、ほんのちょっとどちらかにずれているときに、これらの表現が出てきます。書くまでのこともないとは思いますが、やや高すぎで下げないといけないときはシャープ、低すぎで上げないといけないときはフラットです。"hair"には「わずかな量」という意味があり、通常は名詞として使われますが、この例では副詞的に使われています。
おととしアメリカに家族で遊びに来てくれた友人からクリスマス・プレゼントが届きました。中身はなつかしの日本食~特にうれしいのは、第一旭ラーメンセット(笑)。どちらかというと深酒をしてからいくことが多かった店なので、いろいろと辛い記憶が蘇りますが、今となってはそれすら良い思い出。これで今年の年越しそばの準備も万端です。
私、基本的にMacユーザーなんですが、愛用のPowerbookG4 1GHzもすでに購入以来6年が経過し、新しくリリースされるソフトウェアも非対応のものがちらほらと出始め、新機種に買い換えようかしばらく思案がつづいていました。実際、あともう少しで本当に買ってしまうところまで行ったものの、新機種で得られる効果と費用を照らし合わせて、最後の1クリックに踏みきれませんでした。

Long story short... もう1台の手持ちのPC (Pentium4 3GHz)にLinuxディストリビューションの一種Ubuntuを導入することで、当面の問題がほぼ解決、ソフトウェアもほとんどが無償で手に入ることもあり、これでしばらくパソコン関係の出費をせずにすみそうです。10年ほど前にLinuxを試した時には、私のような一般ユーザーにはとても使い物にならないと判断した記憶がありますが、いつのまにか大きく進歩していたことに驚きました。ハードウェアの追加やプリンタ設定等、MacやWindowsに比較しても容易でトラブルも少なく、実用上の理由だけなら有償のOSにお金を払う理由はなくなった、というのが正直な感想です。同じマシンで走っていたWindowsXPと比較して、起動時間や動作速度において断然優れていますし、サーバーとしての機能では比較にもなりません。特にWindowsマシンのユーザーで、買い替えを考えている人には、選択肢の一つとしておすすめします。

メールなどは当分Macも併用するつもりですが、遅かれ早かれ、全面的にUbuntuに移行することになりそうです。ちなみにこの記事もUbuntuからの投稿です。
12月といえば、クリスマス(ですよね?) 音楽をたしなむ人間にとっては、通常の年末の忙しさに増して、何かと忙しい、そして楽しい季節です。

今月はコンサート続きでした。もちろん本職がある(!)ので、練習にあまり時間は費やすことができませんが、幸い学生時代にたくさん練習した貯金がまだ多少は残っているおかげで、わずかな時間を使って充実した気分転換ができています。先月末には、地元のクラシックのコミュニティーオーケストラの指揮者から救援要請の電話が本番の2日前にあり、しかも前日のリハーサルに行ってみると4曲のうち1曲はFの移調譜でひどく面くらいましたが、なんとか無事に切り抜けました。6日にはコンサートバンドのコンサート。コミュニティーバンドとしては異例とも思えるハイレベルのため週1回の練習だけで切り抜けるにはかなりの集中力が必要ですが、それだけにやりがいもあります。11日から13日は、ガースの教会のクリスマスコンサート。私の勤務先のような環境(アメリカ、大学、理系、しかも生物系)では宗教、特にキリスト教は敵だと思っている人が多いのでこんなことをしていると言うだけで露骨に嫌な顔をする人もいるのですけれどね。別にどうということはないのですよ。教会の人も私の職業を知っていますけれど、それが問題になったことは全くありません。もちろん、人により様々な信念や心情的なものもありますから発言に配慮はしますけれどね。さて、このコンサートではオーケストラの演奏に加えて、トランペット三重奏(スコット、ポール、私)、金管四重奏(+クリス=トロンボーン)をやりました。合計5回のプログラムすべての後で、観客席の見ず知らずの人に呼び止められて、とても良かった、コンサートの中で一番印象に残った、と言ってもらえました。並行して12日の昼は毎年記事に書いているチューバ・クリスマス/クリスマス・ブラスのイベント。当日朝9時から一度きりのリハーサルを一気にこなし、12時からの本番に備えます。あいにくの雨で公式には中止となったのですが、チューバのペドロ(以前に記事に書いた私の大学の施設課のこわいオジサン)が「雨よけのテントを持ってる」(←なんでこんなものを個人が持っているのか???日本の学校の運動会などで使うようなアレです)ということで、強引に小雨決行しました。教会で演奏した同じトランペット3人組で20日の朝は、ポールの教会での演奏。この日一番長い曲の終了後、本来なら場が静まり返っているはずの場面で、"Beautiful...” と思わずつぶやく観客の声がかすかに聞こえて、心の中でしっかりガッツポーズさせていただきました(笑)。若い世代からですら「日本でトランペットを学生がやるって、普通なの?」とか聞かれるくらいですから、きっと観客の多くはびっくりしていたのではないでしょうか。その日はポールとスコットの別の演奏予定が午後からあり、ついでに会場の街までついて行った私は彼らが演奏している間に、スコットのガールフレンド、ベッキー(小学校の先生です)とクリスマスショッピング。これでようやく今年の演奏予定は終了しました。え?最後は演奏じゃない? まあ、いいじゃないですか  (^_^);

ブログの更新をさぼりまくり、特に本職の記事はまるで書かなかった一年も、もうすぐおしまいです。様々な意味で転機が近づく気配を感じる今日このごろ、来年もまたよい一年となるように、精一杯がんばろうと思います。また年内に記事を更新できればと思いますが、ひとまずは念のため、ごあいさつ。みなさま、よいお年を!
どういうわけか、私が子供の頃と比べても相変わらずの堂々巡りの議論をしているテーマがあります。国旗、天皇制、人権などのことですが、最近も関連するニュースがいくつか目につきました。

これまでずっと、多様な意見を集約するよりはむしろ世論を丸め込むレトリックや感情的な議論、あるいはディベート的に手段を問わず相手を黙らせることだけに焦点を絞った議論でやり過ごして来て、きちんと国民全体として考えを深めるための議論をさけてきたツケがこうしていつものように回ってくる、何度も見かけた光景です。

以下は最近のニュースを見て思ったこと。もちろんあくまで個人的な意見です。

国旗掲揚強制条例:国旗に思想もへったくれもないと私は思うんですが、どうでしょうか。軍国主義時代より前の幕末から使用している国旗を軍国主義とむすびつけて議論することがむしろ極端に政治的で気持ち悪い。被害を被った中国などでは未だに日本軍国主義を連想させる? それは確かに無理もないことでしょう。しかしね、自分の国が過去にした良いこと悪いことはすべてを自らの過去として受け入れるべきだと私は思う。何を変えようと、変えまいと、私たちは同じ日本なのですよ。その意味で、むしろ軍国主義を連想させない新しい国旗を作るなどというのは、むしろ危険な思想だと私は思います。国旗を変えたら、ああ、ついにあなたたちは生まれ変わったのですね、などと隣国が私たちを見直すとでも思うのでしょうか? もし隣人が私たちのことを良い意味で見直すことがあるとすれば、それは私たちの実際の行動によってでしかありえないと私は思う。国旗を変えるより大切なことがいくらでもある。その意味で「思想信条の自由」を楯に業務命令としての国旗掲揚を拒否する一部の公務員には全く共感しません。だって、別に国旗掲揚が、それに従事する人に軍国主義思想を強制することになるとは思わないもの。思想信条の自由に、国旗を選択する自由は含まれていないはず。そして国旗のデザイン変更を主張する自由は与えられているし常に与えられてきた。

天皇会見問題:この問題、国内の特定の政治勢力を利するわけではないので、政治利用の非難は当たらないはず。ひょっとするとこの問題の本質は、民主党政権(の一部?)が、江戸時代の幕府と朝廷の関係のように、実権を握る政府が天皇に対して事実上優位に立つ体制を意図しているところにあるのではないかと思った。これまでは宮内庁が政府や外国公館に対して一方的に直接「ルール」を押しつけることができた状況があった。つまり宮内庁はあからさまな形ではないにせよ政治的主体として活動でき、しかもその意志は政府の意志よりも優先される状況があったわけ。戦後体制を外国の押しつけであると考え本音では明治体制の延長線上で現体制のあり方を考えてきた保守層にはそれで全く問題がなかったのだと思う。一方で民主党政権は、日本史上の安定政権がすべて実行してきたように、政府が皇室の日程管理を含むすべての実質的な決定権限を握るべく制度運用を変更する、つまり天皇が主権者であった明治体制を本質的な意味で完全に終わらせ、主権在民の体制に移行しようとしていて、そのことが騒動の本質にあるのではないか。そう考えると本件全般や特に民主党幹事長の発言に対する宮内庁や保守層の敏感な反応は容易に理解できるように思う。

阿久根市長発言問題:この人の言っていること、いわゆる優生思想だと思います。現代では世界的に否定されている思想ですが、日本ではかつてむしろ常識であったし、ナチス時代のドイツが徹底実行したことでも知られています。ひょっとすると、また時代の振り子が揺り戻しつつあるのでしょうか。薄ら寒い気持ちです。とは言うものの、こういう問題、ナチスなどの名前を引き合いに出して悪と決めつけてかかる前に、まずは自分自身でよく考えるべき問題だと私は思っています。というのも、そういう決め付けによって相手が黙ることはあっても説得されることはないからです。問答無用に「誤った」意見を抑圧するから、不当に抑圧されたと感じる人々の数がいつのまにか膨れ上がり、ネオナチの台頭といったようなことが発生するのだと私は思っています。ですから、この優生思想の問題も、きちんと相手を論破するなり、どうして自分はこのような思想を受け入れることができないかを自分の言葉で説明する準備をすることが、長い目で見ればとても大切なことだと思います。それにしてもですね、大体、どんなに日本の財政が苦しいからといって、世界でもっとも豊かな国のひとつに暮らす私たちがですよ、自分たちの「生存」のために全体から見ればわずかな障害者の命を犠牲に「しなければならない」などとは、詭弁という以外に表現のしようがない気がしますが、みなさんどう思われるでしょうか。もちろん、弱者を切り捨てて、その分、「生き残った」相対的強者の実入りをよくすることは可能です。要はそれを私たちは望むのか? 私はいやですけれどね。そんな社会には住みたくない。もっとも、案外と本音ではそれを望んでいる人が多いのかな、という気もします。そうでなければ、このような発言ができてしまうような人物がそうそう市長になどなれないように思うからです。
ひさしぶりの更新です。先週の日曜からかぜをひいてしまい、月火と仕事はお休みしました。まわりにうつしてはいけませんし、なにより今年は新型ウイルスが蔓延していますから、なおさらです。今日の記事の大部分はそのお休み期間中に書きおきしていたものです。

以前の記事でも少し書きましたが、コンサートバンドのバンドメイト(とでも言うんですかね)のスコットとポールにさそわれて、地元のプロテスタント教会で行われるコンサートの手伝いを昨年以来していまして、かぜの症状が出始めた日曜までが本番でした。こういってはなんですが、この教会のオーケストラはまさしく寄せ集めバンドでして、スコット、ポールは別格として(私も入れてもらっていいかな...)他のプレーヤーは控えめに言ってもあまり上手とは言えません。それでもこのコンサートにかける彼らの情熱があって、私たちも手伝いをしている、というわけです。

ガースはその中のひとり。私の一つおいてとなりの席でいつもトランペットを吹いていましたが、今回のコンサートには彼の姿はありませんでした。

彼は生まれつき脳に障害(palsy = 脳性麻痺)があり、片半身が自由に動きません。細かい作業はできませんし、歩くのもどうにかこうにか。会話や思考もスムーズとは到底言えませんが、障害を考えれば仕方のないことです。しかし彼は常に前向きで強靱な意志を持って生きてきた人です。若いころには水泳に挑戦して1マイルを泳ぎきったことは周囲を驚かせ、これは本人にとっても自慢の種でした。この街に定着してからは、社内の文書配達などの仕事をして、自立した生活を送ってきました。もちろん家族や地域がきちんと理解して支えてきた、ということでもあります。

トランペットは数年前に始めたそうです。彼にとっては特に思い入れがあったようで、オーケストラに加入して出会った奥さんのジェニファーにも触らせないんだそうです。彼はコンサートのマネジメントをジェニファーといっしょに長年担当してきて、今回も演奏を依頼する電話を彼からもらいました。演奏はお世辞にも上手とはいえませんが、動かない右手の代わりに左手でバルブを操作して一生懸命に演奏する様子を見ていると、いつも頭が下がる思いです。そして音楽を通じて互いに支え合うことのできることのすばらしさを実感するひとときでもあります。彼の情熱と比べたら私が自分の仕事や趣味を大切にし愛する気持ちはどれほどのものなのだろう、とふと考えることもしばしばでした。

そのガースが、つい先日、亡くなりました。それは突然のことでした。ジェニファーの話によると、感謝祭の翌日に風邪の症状のため病院で処置を受けて帰宅したのち、意識を失い、そのまま昏睡状態に陥ってしまったそうです。意識が戻らないまま、機能を保っていた部分の脳も機能を停止し回復する見込みのないまま、今月5日の土曜日に生命維持装置が取り外され、ついに帰らぬ人となりました。

ほんの数週間前までいっしょに演奏していた彼が突然いなくなってしまいました。まだ50歳代半ばで、月並みに言えば早すぎる死ではありましたが、彼にとっては全力疾走で120%生き抜いた人生だったのかもしれません。

コンサートでは本来クラリネットを吹いているはずだったジェニファーも、今回はさすがにお休みでしたが、最終日の日曜日には観客席に現れました。こんなときにどう声をかけてよいかわからないのはいつものことですが、今回は特に辛い瞬間でした。過去をにこやかに振り返り、彼女にもトランペットを触らせない話や、今年はデジカメに挑戦していた話など、聞いているうちに、こちらの返す声が詰まってしまいました。本当に一番辛い思いをしているのは彼女のはずなのに... 

なお、地域でもガースやジェニファーへの同情の思いがことのほか強く、残された彼女のサポートの意味合いも込めて、彼の名前を冠した基金を地元の銀行を中心に作って募金を募って行くことになりました。

我が身を振り返れば、私にもいろいろなつらい過去がありますが、総じて見れば、多くの人に比べても様々な意味で恵まれてきた人生でした。そのことにどれだけ感謝して、今後の人生を精一杯生きていけるかを、ガースとの出会いは私に問いかけている気がします。彼は今ごろ天国でリードトランペットを朗らかに奏でていることでしょう。

いつものことならば、ここからあれこれと難しい方向へと思考は向かってしまうのですが、今日は彼との楽しい時間の思い出にひたるにとどめ、彼への追悼としたいと思います。

先週の金曜日の "grave-side service(埋葬式)" 、土曜日の "celebration of life service” の両方に参列しましたが、とても印象に残るすてきなひとときでした。悲しみの中にも心の慰めを誰もが感じただろうと思います。土曜日は私より少し若いマークがお父さんのトムからのメッセージ(ふたりともトランペット奏者です)を代読した辺りから、涙が止まらなくなってしまいました。
(on) cloud nine クウドイン

「天にも昇るような気持ち」といったような意味だそうです。歌のタイトルやバンド名などでそういえば聞き覚えがありますが、どうして「9番目」なんでしょうね。

と、同じことに興味を持った方は、こちらの記事 を読んでみてください。結論だけ簡単に書いてしまいますが、数にはあまり意味がない、あるいは少なくともその由来についてはよくわからない、ということのようで、以前は "on cloud seven" が最も好まれた形だったそうです。

ソースパンダ:iTunes9のリリースを紹介する記事 "Will Apple's New iTunes Put You on Cloud Nine? " のタイトルより。ところでこの日、Apple のスティーブ・ジョブズがひさびさに公の場に姿を現し ました。以前に患った膵臓癌の転移のせいかどうかはわかりませんが、肝臓移植を受けていたとのことで、以前に比べても相当にやせ細った姿には心が痛みます。2005年のスタンフォード大学の卒業式におけるジョブズのスピーチ(テキスト動画 )は、今でも時折話題にのぼる名スピーチですが、その中で、膵臓癌で彼も一旦は死を覚悟したことが触れられています。その経験もふまえ、いつかは終わりのある人生を自分らしく生きろ、と卒業生にエールを送ったジョブズのことですから、病状がどうあれ、最後まで全力疾走するつもりなのでしょう。いまも続いているはずの治療がすべてうまくいき、彼がいつかまた健康な日々を送れるようになれば、と思います。