上矢印共同生活をしていた時のAPT。
 2015年1月2日に、上京した際に立ち寄りました。
 この1年後、取り壊され、同じ名前の綺麗なAPT へと、生まれ変わったようです。 
 お金も時間もなかったけど、1番充実した時を
 過ごせました。


母の骨折もほぼ良くなり、家に帰って父との3人暮らし…。
月2回は、母を病院に連れて行く生活は、私の休みが水曜日から変わらない限り続きました。

毎日仕事から帰るのは、9時位だったのですが、必ず父母の部屋に、ただいまの挨拶をしなければならず、ミーティングなどで帰りが遅くなる時は、経営者様に電話を入れてもらうこともありました。
とにかく、束縛がきつく、自分達の思い通りにしようとする親。
叔母達も、居なくなり、高校卒業前よりもさらに居心地の悪い家になりました。

ハイジが
アルプスの山に帰りたい⛰』と、
言ったように、東京に戻りたかったのを覚えています。

今、振り返ると、この頃から、父の認知症が始まっていたのだと思います。
忘年会などで、帰りが午前様になっても、椅子に座り起きて、私を待っている日が何度もありました。

これは、結婚するまで続きました。