うちの会社の人が、クソ映画だと言っていた。
編集は尻切れとんぼだし、
主役の妻夫木くんも漫画みたいにクールすぎる。
計画だってリアリティーがない。
しかし、
なによりラストなのだ。
あと一歩で銀行強盗が成功する!
そして、妻夫木、
ロープから落ちて死亡……
あっけなく死んでしまうのだ。
あまりにも弱い…
この情けない展開には
あいた口がふさがらなかった方も多いのでは?
会社の人も、同様の感想を抱いたのでしょう。
ぼくもクソ映画だとおもい劇場をでたくちだけど、
帰りの電車で、
いや待てよ
と思った。
前回の三池映画理論同様、
今回は
「井筒映画」
なのだ。
パッチギしかり、ゲロッパ しかり、井筒監督はテレビで見るそのキャラクターとは違って、巧い監督という印象がある。
とくにストーリーが緻密で、感情で押すより、物語の力で話を展開するタイプの監督だとおもう。
そんな井筒監督がこんな下手くそな映画を作るわけがない。なにか意図があるはず、という思いから、改めて黄金を抱いて跳べをもう少しじっくりと見ていこうと思う。
結論からいうと、
ハードボイルド世界の終焉と、その後に訪れる現実的な死
だと思う。
寡黙で、モテて、そして死なない主人公、妻夫木聡はハードボイルド世界の典型的な主人公だ。
過去に影を持つにも関わらず、詳しく言及されない所が、いかにも、だ。
ハードボイルドな彼を中心にハードボイルド世界の物語が進行していく。
つまりは銀行強盗だ。
ちなみにWikipediaには、
ハードボイルド(英語:hardboiled)は、感傷や恐怖などの感情に流されない、冷酷非情、精神的肉体的に強靭、妥協しないなどの人間の性格を表す言葉である。
とある。
さて、先ほど言った、ハードボイルドの終焉とは一体何か?
ヒントは、大阪のおばちゃんだ。
例えば、
主人公二人が銀行の下見にいったとき。
この銀行には、金塊が眠っている
と、二人は話しているのだが、実は隣のおばちゃんが聞いてて、
ほんまに?すごいなあ!
みたいなことを言われる展開がある。
または、
銃撃戦のあと、隣のマンションの住人が、
なんや?ケンカか?
と、覗きにくるシーンがある。
あまりにもハードボイルドの対極。あまりにも日常。
じわじわと現実がにじみ出てきている。
現代にハードボイルド人間の居場所はあるのか!?
答えは
ない。
そして問題のラスト。
ハードボイルドな主人公、妻夫木聡は、父の真実という、現実と対面する。
しかも、知っていた現実と。
彼が自分の父だというのは、うすうす気づいていたはずだ。そんなシーンもあった。
しかし彼はハードボイルド主人公。
父の真実は前景化してはならないのだ。
しかし、父の死によって、現実と向き合わざるをえなくなる。証拠も出てくるし。
この瞬間に、主人公、妻夫木聡のハードボイルド性が消滅するのだ。
先ほどのWikipediaのハードボイルドの説明には、こんなことが書いてあった。
精神的肉体的に強靭
撃たれても死なない強靭な主人公は、ハードボイルド世界から解き放たれたとたん、
ロープを降りることもできずに、ただ落下してあっけなく死ぬのである。
これこそ
ハードボイルド世界の終焉と、その後に訪れる現実的な死
現代にハードボイルド人間が生きる場所はないのだ。
ちなみに、生き残った二人は、
妻子持ち(元だが)と実利で動く人間だった。