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Nの癒しの庭

ちょっぴり不思議な写真や、良いな〜と思う写真を、ちょこっと、ゆるっと、ぼちぼちと、紹介していきたいと思います☆
写真以外のことも、ぼちぼちと。

6月21日の朝、享年85歳の母が他界しました。


母の死後、咲いた庭の花。


眠るように穏やかな顔でした。
何年も寝たきりりでしたが、最後にお世話になっていた看護師さんやヘルパーさんたちみんなから、お肌がすごくきれいで若いと、よく言われていました。ほとんど白に近い白髪も、ここ数ヶ月で白髪になり始めた頃のように黒くなってきていたので、若返っているね、何でだろうね、とよく母と話してました。
私は密かに、母は絶対アセンションしてる、と思っていましたが。

湯灌で、化粧をしてもらった顔が家族がみんな驚いたほど、若くて嬉しそうに、にこ〜と満面の笑みで笑っているような顔になっていました。
もともと白くてすべすべで、しみもシワもほぼなく、きれいな顔だったので、化粧した顔が2、30歳若く見えました。
ずっと化粧ができなかったので、してもらって嬉しいのかな?
綺麗だね、美人だね、化粧してもらえて良かったね、と思いながら見ていました。


なぜ今?なぜ今日?とも思いましたが、
亡くなったのが夏至の朝だったので、太陽や陽などのパワーが一番強い日に、光に還っていけて良かった、だからあんなに良い顔でいけたんだと思いました。
やっと、体から自由になったんだ、もう辛くないんだ、良かったねと。だからそんなに嬉しそうないい顔になったんだ、と。

慌ただしい葬儀の間は、最後のこの綺麗な笑ったような顔を忘れないように、何度も何度も、母の髪や手を撫でながら、見ていました。


その反面何度も、どうしてあの時こうしてあげなかったのか、とか寝たきりで寂しかったろう辛かったろう、黙ってがまんしてたのに、全然気持ちを考えてあげてなかった。もっと一緒にいればよかった、もっとたくさん話しをすればよかった、話を聞いてあげればよかった、もっと、体に触れてさすったり、なでたりしてあげればよかった。最後まで心配をかけて安心させてあげられなかった。親不孝な最低な娘だったと謝って、後悔が浮かんでばかりにもなりました。

もう自由で楽になって良かった、生まれる前の世界に戻った、と頭では分かっていても、やっぱり人間の娘としての私は、実家に行ってももういない。会えないのは、話せないのは、触れられないのは、辛い寂しい辛い、もう一度会いたい、会いたい、会いたい、話したい、を繰り返していました。

死に目に会えないなんて思いもしなかったのに、また明日、普通に会えると思っていたのに、
死ぬまで心配かけた、不安にさせたままだったかもしれない、もっとああしてあげればよかった、ずっと同じ部屋の中で一人で、寂しかっただろうに、もっと一緒にいてあければよかった、何もしてあげられなかった、母の気持ちを考えていなかった、考えようともしてなかった、
と、色々と後悔やごめんと謝ることが、浮かんだりこみ上げたりを、繰り返して、

その度に、最後の顔を思い出して、今はもう光に還っているから良かったんだ、と正反対の状態をいったりきたりしていました。

もう会えない、どこにもいないと思うと、急に不安がこみ上げて、部屋の中をしばらくウロウロ歩きまわったりもしました。

私にチャネリングが出来たら、話せるのに、と何度も思いました。


いつも自分より人のことを考えて、みんなに「ありがとう」とよく言って、亡くなる前の一ヶ月ぐらいは、いつも穏やかな顔をしていました。
なくなった後、病院で両方の肺に水がたまっていた、と言われました。最後の数日はほとんどしゃべらず人の話をにこにこしながら聞いていたので、しんどかったんだろうに、人には何も言わずに、我慢してたのかな…最後に見た姿も、寝返りを打たせてくれと、横に向いたしんどそうな姿だったので、もう少し一緒にいればよかった。どうして、明日来たら、またよくなってるだろうと、思って帰ってしまったんだろう。
あんなにしんどそうだったのに、部屋で一人にして帰ってしまったんだろう。
せっかくレイキも習っていたのに、自分も疲れているからと、やらなかった。してあげてたら、もっと体を楽にしてあげれてかもしれないのに。肝心なところで、私は何も出来ていない。

何度もその姿を思い出しても、もうその時には戻れないので、きっとこの先も思い出して後悔するんだろうけど、もう戻れないものはしかたがない。

母の最後の顔が救いだ、きっとそうなってしまう家族みんなのために、最後にあの顔を見せてくれたのかもしれない、と思ってもいます。




父と兄も通夜の時から、それぞれポツポツと、してあげられなくてごめん、と後悔していることを母に謝ったり、家族に話したりしていました。

兄があんなに母に謝って泣く姿も初めて見たし、母の介護の面倒を見ていた父も、もっと色々ちゃんとしてあげればよかったと泣いていたので、みんなそれぞれ後悔することがあって辛いんだと、思いました。まさかこんなに突然、母がいなくなるとはみんな思っていなかったので。

私も実家に行ってまた、母にご飯を食べさせて、話をしていつもどおりの日が来ると思っていたのに、自分が母の死にめに会えないなんて思ってもいなかったのに、こんなに突然、あっさり会えなくなってしまうことになるなんてと、何度も思いました。






夏至を堺に、色んな意味で家族が大きく変わりました。

それまでは、お互い自分のことも話すこともなく、お互い辛いこともしんどいことも、何かあったのかな?と思っても、見てみぬふりなところがあった家族でしたが、母がなくなった日から、父と兄と三人で、それぞれ後悔していること、母に謝りたいことを色々と、話して泣いたり、聞いて泣いたり、慰めて泣いたり、数日間していました。

きっと家族を亡くして後悔することが何もないなんて人は、一人もいないだろうね、と父と話ていました。


葬儀の後に出会った人に、最近父親が脳梗塞で倒れて、半身麻痺や言語障害などで寝たきりになったという方がいました。

家に父親を連れて帰ったその日に、手を握って「迷惑をかけてすまない」と言われたそうです。


母も「みんなに迷惑をかけている、早く死にたい」と言っていたことがありました。



世話をされる方は、自分が家族に迷惑をかけて申し訳ないと思い、世話をする方は、あの時ああしてあげればよかったと後悔することばかりになってしまうんだなと、思いました。



でも、母がずっと病院や施設には行きたくない、家で死にたいと言っていたので、家で看護をしていました。
なので、最後の願いは家族みんなで叶えてあげられた、だから眠るように穏やかにいけたんだろうと、みんなで思っています。



これからはみんな悩みや思っていることを、話し合おう、助け合って仲良くしていこう、きっとこれから良くなっていくような気がする、と父が言ったのを聞いて、きっと母がそうなるようにしてくれたんだね、とみんなで頷いて。


母の遺影の写真も微笑んでいるきれいな顔なので、そんな家族の話を微笑んで聞いているように見えました。


だんだん、気持ちも落ち着いてきて、自分の家に帰ると、普通の日常に戻ったようになって、こうやってまた通常に戻っていくんだ…と思うと何だか少し哀しい気もしました。
母と話したのは昨日なのに、二日前なのに、三日前なのに、もう四日…もう一週間になってしまう…と、どんどん時間は過ぎていくので。


父も兄も何もする気にならないだろうと、いつまでもそのままにしておけない母の着ていたものなどを、いるものいらないもので分けていると、兄がえ!?という顔でみてきたので、亡くなってすぐなのに母のものを捨てる捨てないなんて薄情だと、思っているかな、やっぱり私は薄情な人間なのかもしれないな、と思うこともあり。

かと思えば、急に何事もなく落ち着いて穏やかな気持ちになっていて、え?悲しくない、何も感じていない?何ともない、どうしたんだろう私?どうなっているんだろう?という時がふっとあったりしました。


かと思えば、急にお母さん、お母さん、と不安になって部屋の中をウロウロしたり。


いろんな自分がいます。







一度、母が寝ていたベッドに、同じように寝てみて思いました。
自分の体が思い通りに動かせない辛さ、ずっと同じ天井や部屋を見て、何年も過ごす毎日。部屋の戸が開いた所からしか、周りや家族を見ることができず、ベッドから動けないまま誰も近くにいない時の寂しさ、辛さ。
一日の長さ。

もっと早く、生きているうちに、そういうことを少しでも考えて思っていてあげたら、もっと一緒にいて、色んなことをしてあげていたらと後悔する前に、母の気持ちを考えてあげていたら…と。



介護を主にしてくれた父と、母の願い通りにしてあげたいと、家で介護をずっと通してくれた兄と、ヘルパーさん、病院の先生や看護師さん、介護用品などでお世話になった薬局の方、ケアハウスの方など、沢山の方に助けられて、本人の願い通り家で最後を迎えられました。

花が好きで、周りの人のことばかり考えている、優しい母にぴったりの、素敵な戒名もいただきました。

そういうことを考えると、母は人として、本当に良い終わり方ができたのかな…と今は思います。



今まで母の世話を主にしていた父のこともあり、実家に戻ることになって、葬儀の後は、実家の片付けと私の引越で、慌ただしい状況ですが、毎日あれやこれやと動いているので、父もお腹がすいたとご飯も食べるようになり、眠れるようにもなってきました。

私も、しばらくは絵を描く気分にならないかも、引越もあるし時間もないかも、と思っていましたが、落ち着いてきたからか、また描きたいと思うようになってきて、昨夜少しの時間、描き始めました。


まだ時々、ふと母の色んな姿や仕草を思い出しては、もう見ることは出来ないんだと、寂しくなりますが。


好きなことをやりたいと思えるようになるのは、もう大丈夫ということかなと思ったり。


今は、早く母のいる実家に帰りたくなっています。
去年から思っていた、私にとって穏やかに、気持ちのいい空気の中で鳥の声を聞きながら、絵を描いて暮らせる所に住みたいと思っていた場所は、もしかして実家だったのかな?という気がしています。

例え何があっても、私にとっていいようになっているんだなと。





そして今年の春に買った、サボテンのナナコちゃんは、ずっと花を咲かせ続けています。
春に一度、枯れかけてから花をつけて、それから途切れることなく、可愛い白い花を次々見せてくれています。
1つ2つ咲いて、終わったかな〜と思っていたら、また次の蕾が出ていて。

今もまだ蕾が出てきています。

写真は、今日現在のものです。



実家の庭の紫陽花も、母が亡くなる前くらいから、いつもの年より沢山花を咲かせていました。

他にも庭の花が、いつもより沢山咲いています。


何だか花たちが、慰めてくれているのかな〜と思ったり。


毎日実家に行って、母の遺影を見ながら話したり、白い布越しに母の骨壷の入った箱を撫でながら、最後の顔を思い出していると、撫でている手や背が暖かく感じるので、今一緒にいてくれてるんだなと思うと、母への愛でいっぱいになります。

母が私の母で良かった、母の娘で良かった。今までたくさんごめん、たくさんありがとう、と。


今旅立っている人たちは、きっと光に還って自由になっている。
母の顔を思い出す度に、そう思います。