神社にお参りすると、鏡に自分の姿が映り、
それに向かってお願いをする。これって、なんだか
自分に頼み事をするような気がしませんか?
自身拝と呼ぶ行為は、朝起きたときに洗面所
で鏡に向かい「○○さま(自分の名前)今日も
一日どうぞよろしくお願い致します。
益々、常若でいられますように。
○○さまの御心が、安泰でありますように。
癒やされますように。救われますように。
歓喜に満たされますように。
○○さまの進化、向上、発展、繁栄を心から
お祈り申し上げます。」と祈る事です。
そう、神社にわざわざ行かなくても、自分
の家でできることです。自分の願いのみを
だだひたすら、エゴの波動で投げかける。
それって神様に届くのでしょうか?いや、
届くとしても受け入れられるのですか?
あなたがもしも神様だったら、よしよし
その願い叶えてあげようとなりますか?
鏡は、我を取ったらカミに成るとよく
言われますが、我を捨ててこそのもの。
エゴの願いを弾き返すためのものでも有り、
魔除けの為、結界を張るものでもあります。
カミということばは、「隠り身」(普段は隠
れて見えない)ところからきていて、
普段見えない自分自身を写す、今の自分に
気づかせるためのものでもあります。
鏡を見たら、今の自分に何が足りないのか
問いかけて、それを得るヒントをいただく
ことができれば、行動にうつしてもっと
輝けるんじゃないかと。つまり、「輝り身」
に成るためのアイテムとも成ります。
ではなんの為の神社参りなのか?
穢れを取っていただき、復活させてもらう
のですから、家ではできない自分に必要な
ものを気づかせて貰うために、自身拝で揚
げた文言をつまり、○○さまのところを神様
の名前にして、自分には何もできないけれど
神様のために祈る行為はできるので、まずは
そうして、ここでこうして祈れることに感謝
して、ありがとうございますと。今日まで私
は大変愚かものでした、今日から自分自身に
正直に生きてまいります、そしていついつ
までに○○を成し遂げますから、観ていて
下さいと誓いを立てるのが善き姿(ス型)かと。
本来、「祈り」とは、「意乗り」であり、
心から自分自身がやりたいことに立ち向かう
際に、どんなに努力しても出来ないことが
あり、それをどうにかならないものかと
神様にお伺い申し上げる。本来の意を第三
の眼あたりに思いを込めて珠を造り、それを
飛ばしてご眷属に受け取ってもらう。
意を託して珠に乗せてあとは天命を待つ。
人によってイメージは異なりますが、
軽い気持ちで神社巡りをして、自分の穢れた
思いを我儘な波動で埋め尽くすのは、お参り
とは違ったものに成るのではないかと。
お参りということばそのものにへりくだった
意味が込められていて、まゐる、もうづ、
まかるなどは謙譲語で、こちらを低めて
相対的に相手(神様側)を高める行為なのです。
鏡と祈りから、他人の参詣スタイル批判
で愚痴っぽくなってしまい申し訳ありません。
本意が伝わればいいのですが、ここに所縁
ある方々は、問題ないでしょう。
今日も、あなたが手に抱えきれない位の
「神様の奇蹟が起こりますように」を
体現されますように。
カムナガラタマチハヘマセ