お寺と書道と、時々、バドミントン

お寺と書道と、時々、バドミントン

円相寺の副住職のブログです。

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 またつぎのように話されました。

平安の祈り
というものがあります。キリスト教なんでしょうか。
 
神よお与えください。
変えられないものを受け入れる心の静けさを 、
変えられるものを変えていく勇気を 、
そして、この2つを見分ける賢さを、
 
 
お釈迦様が説いた真理、つまり老いて、病気になって、死ぬ。これらは変えられないものであります。会社を何軒建てたから年をとらない、ということにはなりません。宗教とは変えられないものと変えられないものを見分けることであります。
またつぎのように話しておられました。 
 
戒を授かる心構えとして、

砂糖入れのスプーンの話
砂糖入れにはいっているスプーン。とりだすとたくさんの砂糖がついている。しかしスプーンは砂糖を味わっているわけではない。味あうのは自分の舌である。スプーンは砂糖にどっぷりつかっておりながらそれを味わっていない。そのような生き方はダメだとお釈迦様は言う。表面的なことにとらわれないで、その奥にあるものをしっかりと味会うこと。

栗とイモ、メロンの箱でやってくる
夕張メロンの写真がついた箱が送られてきた。北海道に親戚はいなかったんだけどなぁ、とにやにやしながらあけると、そこには栗とイモが入っていた。
メロンの箱にだまされない、中身をきちんと見るという姿勢が大事である

お見舞いの花の値段に感謝する
お見舞いでいただいた花には値札がついていた、その値段が自分が思っていた以上のだったことに驚いて、それに感謝してしまう。お見舞いをしてくれたその心に感謝する姿勢、心構えがこの儀式にも大事。

極楽もあんたが行くなら、わしゃいかん
自分のものさしで量ってあの人が嫌い、だからすかん、という心ではダメ。聞き方ひとつでどうにでもなる私たちの心、だから素直に素直になることが必要。
『一枚起請文』にあるように智者のふるまいをせずして、ただひたすらに素直になってほしい、そのような聞き方が大事であります。

11月27日から29日に行われた授戒会での話をシリーズでまとめていきたい。
 
授戒とは何か
 
 お釈迦様のお言葉に
「人間たとえ100歳まで生きても本当の教えに会わなかったら本当の教えに会った人の一日生きるにも足りない。」
とある。

授戒とはよい習慣を身に付けるということで「良い」とは私たちの「ものさし」ではかる「良い」ではありません。お釈迦様から代々伝わってきたものを身に付けるのであります。

自分から自らおこってくる戒め、人から言われて守るのではなく自分の心からおこってくるものが戒というものであります。
 
それに対して、他から言われて与えられて守るものは「律」といい、たとえば法律がそれにあたります。

「内から自分の心の内から正しい道がわかって、まめまめしく体が動くようになる。それが戒というもの」という表現があります。

それは自分で作り上げるのではなく、お釈迦様から代々受け継がれる正しい心を授かるものであります。

自分のものさしは大抵役に立つものではありません。
 
誤解や思い込みで物事を判断して間違った方向に迷うのが私たち一人一人のものさしであります。
 
きちんと2500年以上つづく正しい戒の教えをしっかり受けてもらうのが「授戒会」でありますからしっかりと心得てください。
 


忘年会シーズンがやって来ました。
 
くれぐれも飲みすぎに注意しましょう。
 
こういう言葉もあります。
 
「酒は天下の美禄なり。
少しく飲めば、
陽気をたすけ、
血気を和らげ、
食気をめぐらし、
愁いを去り、
興を発して、
甚だ人に益あり。
多く飲めば、
またよく人を害すること、
酒に過ぎたるものなし。
水火の、人を助けて、
また、よく人に災いあるがごとし。」 
(貝原益軒、養生訓)

 

今月の手本を書きました。
 
ところで自分の手本がほしい。
忙しいので画像だけにします。

 

 
お説教の様子。

 

道場を清めています。
 

 

善導寺の阿川台下ですよ。
 
忙しいので画像のみにします。

朝です、集会堂に集まる受者。
 

この度の説戒師(布教師)の日下部上人、
 

回向の様子。
 

回向の様子2
 

な、ななんと、二日目にある剃度式においでになる大本山善導寺の阿川台下が一日目の終わりにわざわざ階段を御上りになり、十念をお授け下さった。
 

厳修
 

控え室にて。