アメケンのブログ

アメケンのブログ

10年間パンジーの勉強を続けてきました。

 話を進める前に、ウィズビーチのオズボーン農場の園芸家R・H・バス氏の依頼で作られたいわゆる最新の英国ファンタジーパンジーの「エンプレス・パンジー」について少し触れたいと思います。(バス氏は紛れもなく当時最も偉大なパンジーの育種家といえるでしょう。1893年には彼の苗床から135トンものパンジーを出荷し、ある時は一日で12万株近くも出荷しました。品種「ロード・ビーコンフィールド」の栽培面積で1エーカー(40.5アール)にも及びました。この数字を見れば、パンジーがイギリスで「百万人の寵児」というニックネームで呼ばれたことは、まさにふさわしいと言えます。)

図33「パンジー皇后」R.Hバス 1894年

 

 イラスト(この挿絵は女性画家マリー・ロー嬢によって描かれ、1894年2月3日のザ・ガーデナーズクロニクルズの143ページで特に言及されています。絵は出版社に直接請求すれば6シリングで入手できます。)はこれらのパンジーを多数カラーで描いており、その印象を最もよく表現しています。これらのパンジーはすべて下側の3枚の花びらの中央に大きな黒いブロッチが3つあることから、現代の典型的なファンタジーパンジーと言えるでしょう。

 

 葉の美しさもさることながら、その魅力は、その鮮やかで魅力的な色彩、特に紫色の色彩にあります。紫系の色彩は、繊細で純粋な淡い色合いと、彩度の高い濃い色合いの両方をあわせもっています。また、少なくともいくつかの品種が注目に値し、そのうちの1つがここに描かれています。

 

 添付画像からわかるように、この品種の上部にある2枚の花びらは非常に幅が広く、完全に重なり合っています。そのため、正面(または背面)から見ると、2枚の花びらのうち1枚しか見えません。

 

 ベッディングパンジーは、一般的なパンジーよりもやや小ぶりですが、花は豊富で長持ちします。また、草丈が低く枝ぶりも豊かです。こうした特徴から、花が豊かに咲き、特に魅力的な花壇を作るのにふさわしいのです。これが「ベッディングパンジー」の名の由来です。

 ベッディングパンジーの効果を最大限に引き出すには、異なる品種を別々に植え、できれば単色または2色で、より多く植えることが重要です。イングランドやスコットランドでは、1種類のパンジーだけで構成された、全長800メートルにも及ぶ花壇を観賞することができます。

 

 

 1844年という早い時期に、私はイギリスの園芸文献「PAXTON’S Magazine of Botany」第11巻158ページでパンジーの花壇に関する推奨を見つけました。

 そこにはこう書かれています。「パンジーのいくつかの品種は、単色または2色に偏り、生育がゆっくりと、広がりやすく、開花が早く長期間持続し、並外れた美しさを持つことから、チズウィックのデヴォンシャー公爵陛下の庭師であるエドワーズ氏が、花壇に植える品種をいくつか選びました。私たちはその姿に何度も感動したので、その計画を公開し、どの品種で成功したのか、どのように成功したのかを説明するべきだと考えています。」

 

 しかしエドワーズ氏はこのデザインに適切だと考える品種には名前が付けられていませんでした。それらは花色で、淡い灰色のスレートブルーの品種、黄色の品種、紫色の品種、白っぽい品種とだけ記してありました。魅力的な外観を持ち、単色の花または支配的な色を持つ花であれば、どの品種を使用するのかは本質的に重要ではありません。当時、世間に承認されていませんでしたが、数十年後には広く普及しました。

 

 

図34「ビーコンズフィールド」E.ベナリー 1882年

 

印象的なベッディングパンジーの一例として、よく栽培されている小花の品種「ロード・ビーコンズフィールド」が挙げられます。「ロード・ビーコンズフィールド」にはファンタジーパンジーとされる非常に大輪の品種も存在します。これはベッディングパンジーとファンタジーパンジーが場合によってはいかに密接に関連しているかを示しています。オリジナルのベッディングパンジーはファンタジーパンジーの直系の子孫であり、本質的にはより花が咲きやすい小型の品種に過ぎません。

 

その後、期限がやや異なる亜種、いわゆる「ビオラ」または「クラスタード・バイオレット」が加わりました。以前の名称はイギリスで最も一般的ではあるものの、あまり説明的ではないために、「ビオラ」は種が豊富なビオラ属すべての形態の標準名となっています。ここでは後者のみを使用します。

 

 雑誌「ザ・ガーデナーズクロニクル」と「ザ・ガーデン」では、「Violas」という名称と「Tufted Pansies」という名称のどちらが好ましいかについてかなり長く白熱した議論がありましたが、奇妙なことにこの論争では、ほとんどの参加者が「Violas」側に立ち、これは単にこの名称が古いからという理由で優先されたからでしょう。

 

 タフテッドパンジーは、一部はイギリスのViola lutea Huds,一部は主にピレネー山脈原産のViola cornuta L.から派生したもので、どちらも園芸パンジーとの交配種です。Viola lutea Hudsが1810年代から1820年代にかけてのイギリスのパンセの創出に大きく貢献したことはすでに述べました、1860年代初頭からは、この種は再び園芸パンジーとの交配によってタフテッドパンジーの新種を作り出すために利用されてきました。

 パンジーの学名の起源になったウィットロック博士の研究書はもうしばらく続きます。

 

 

 1850年代後半、エディンバラのジョン・ダウニー、レアード、レインによってベルギー産のパンジーがイギリスにいくつかもたらされましたが、大きな反響はありませんでした。

 

 フランスの優れた品種が世間の注目を浴びるようになったのは、1858年から1860年になってからでした。これらのほとんどがは、リールの著名なパンジーの育種家ミエール(ウィリアム・デーン、J・シムキンズ著「The Pansy」17-18ページ記述)のものから輸入されたもので、その中には前述の「ナポレオン3世」と記されたものも含まれていました。

 

 1858年以来、これらのミエールズパンジーのほとんどの品種は、北イングランド(ヨークシャー)シップリーのウィリアム・デーンによって栽培されてきました。

 これは、フランス訪問中にその美しさに気付いたロンドンの園芸家アンドリュー・ヘンダーソン氏の依頼によるものでした。

ヘンダーソン氏はまた、ウィリアム・デーン氏から託されたすべてのパンジーの配布も引き受けました。(ウィリアム・デーン著「1.C.」16-18ページ記載)

 

 1861年までにディーンはいくつかの注目に値する品種を生み出すことに成功しており、その中でも、「プリンセスアリス」「エトワールデュノール」が最もよく知られていました。(「プリンセスアリス」のイラストは、1862年12月号【The florist and Pomologist】に掲載されています。この雑誌にはパンジーのイラストが多数掲載されていますが、私は入手できていません。「プリンセスアリス」「エトワールデュノール」そして当時のその他の著名な花卉に関する記述は、【Annals of Gardeners】(1862年8月9日刊739ページに記載されています。前述の「ウジェニー皇后」は、この絵の構図の一つです。

 

 次の数年間で、イングランド北部とスコットランドで栽培される一連のファンタジーパンジーの新しい品種が導入されることになりました。これらのほとんどはウィリアム・デーンを通じて提供されました(主なリストはウィリアム・デーン著【ガーデナーズクロニクルズ】1863年9月21日893ページ記載)が、一部は前述のエディンバラのダウニー、レアード、レイン社を通じても提供され、同社は長年にわたり、英国におけるファンタジーパンジーの栽培者にして育種家としての第一級の地位を占めることになりました。

 

 ファンタジーパンジーがますます一般的になり人気が高まるにつれ、スコットランドパンジー協会は1871年に展覧会において、この種に特別賞を与えることを決定し、展示されたファンタジーパンジーの相対的な価値を評価する際に審査員が従わなければならない次のような美のルールを確立しました。

 

 花全体の形は完全な円形でなければなりません。

 質感は厚くベルベットのようでなければなりません。

 色は明確に区切られており、にじんではなりません。

 表面は平らであるべきです。

 端はなめらかで、縁があってはいけません。

 サイズは直径1インチ(44mm)以上である必要があります。

 目(ハニースポット)は小さく、完全に中心にあり、中央のブロッチにまで広がってはいけません。

 より堅固で、円形で、大きいほど良しとされました。

 

 

 

図50 「大きなブロッチのあるパンジー」E・ベナリー 1894年


 イギリスのパンジー、あるいはショーパンジーに関して、ここでも以前と同様に、美の基準があまりにも狭く定められていることが分かります。花の形全体が完全に円形であることは、相変わらず絶対条件です。中央のブロッチについても同じことが求められています。花弁の縁は波打っていたり、不均一であったりしてはいけません。そして最も注目すべきは、大きな中央のブロッチをもつパンジー以外は賞に値するファンタジーパンジーとして認められないということです。

 

 この最後の条件は、ファンタジーパンジーが、その色彩の変化にもかかわらず、つまらないものにしてしまったという事実に寄与していることは間違いありません。中央の暗く大きなブロッチはどれにも見られ、多くの場合非常に大きくなり、花の表面のほぼ全体を覆うほどにな っています(例えば図50参照)。

 

 一般大衆も美の概念をより自由に持つようになってきており、このため、空想上のパンジーが、より控えめだがより自然な花壇用パンジーや房状パンジー(ベッディングパンジー、ベッディングビオラ)に取って代わられ始めたのは疑いようがありません。

 

その歴史について次回に記述していきます。

前述の3人のパンジー育種家と同時期に、パリ近郊のベルビュー城の所有者で、有名なパンジーのアマチュア園芸家のジェームズ・オディエも活躍していました。

 

彼によるパンジーが有名なオディエ・パンジーと呼ばれるもので、今日でも多くの場所で大規模に栽培されています。(さらにオディエ・ぺラルゴニュームも有名です)1854年の『園芸図鑑』の表26の後ろには、オディエの「ベルビューの栄光」の描写が残されています。

 

この描写には中心の濃い斑点がはっきりと発達している様子が描かれ、これは現代のファンタジーパンジーの多く、特にオディエ、カシエ、ブニョー、トリマルドー系に顕著に見られます。

 

図30「ベルビューの栄光」 J・オディエ 1854年

 

 

近年のフランスのパンジー育種会社の中で、当然のことながら有名なVILMORIN-ANDRIEUX ET.C:CE社(ビルモラン社)が最も目立つ展示室の一角を占めています。

 

1883年、イギリスの園芸雑誌「ザ・ガーデン」の知識豊富な編集者たちは、同社のパンジー「ア・グランデ・マキュール」に対して、これまでに編集者たちの目に留まったパンジーの中で最も美しいパンジーであると評しています。

 

 イギリスのパンジーはおそらくフランスよりも早くベルギーに導入されたと思われ、すぐに園芸家や一般大衆に支持者を拡大していきました。

 

 ゲントの偉大な園芸家ルイ・ヴァン・ホーテは1841年(もしくは1842年)の販売カタログに358種類ものイングリッシュパンジーを掲載しています。

 

彼は売り手の選択に応じて25品種を25~50フラン、50品種を40~85フランなどで販売し、買い手の選択により200品種の名前付き品種を200フランで販売していました。

 

これはパンジーが当時ベルギーで第一級のファッションフラワーであったことを示しています。(CH/モーレンはまた、【Biographie des Pansées】(Ann.d.1.Soc.Roy.d‘agricult. Et. Botan.de.Gand, vol.2.sid197,1846)ベルギーにおけるパンジー栽培について、次のように述べています。

「これなしではもう庭は作れません」)

 

1840年代のベルギーのパンジー育種家には、リエージュのアカン,ゲントのヴェル・ヴァン、サンマリッジのロディガスが挙げられます。先の二人の作品は、1845年の「農業と植物の王」誌第1巻の図版11と12に掲載されています。アカンのパンジーは、当時のイギリスの典型的なベルトパンジーとほぼ同じ外観をしています。一方、ヴェル・ヴァンのパンジーは、それほど整った形ではなく、ファンタジーパンジーに近い傾向があります。

 

 1856年に刊行されたCH.&ED.モレンス著の有名な園芸雑誌【La Belgique horticole】第6巻には本物のベルギーファンタジーパンジーの挿絵が掲載されています。

その中でも、興味深い品種「マダム・カンパン」を掲載します。

 

図31 「マダム・カンパン」 ベルギー園芸協会 1856年

 

 

 

中央の斑点がはっきりと発達しているだけでなく、すべての花びらに鮮やかな色の縞模様があり、大きな葉脈の方向を正確に示しています。このベイン(神経縞)は、上部4枚の花びらでは紫色、下の1枚は黒色で

す。残りの花びらは、白、黄、紫、赤の4色です。

 

今世紀におけるフランスとベルギーの歴史。これらの情報を通じて、私たちは幻想的なパンジーの起源と過去の運命についてある程度の知識を得たので、パンジーの栽培の約束の地、イギリスにおけるこれらのパンジーの導入とその後の発展について記録を残そうと努めます。

 

フランスとベルギーからイギリスへ幻想的な思想【パンセ・ド・ファンタジー】を最初に伝えたのは誰なのかという問題は、長らく意見が分かれていました。しかし、アルフレッド・ソルター氏が著名なパンジー育種家のウィリアム・デーンに送った書簡によって、ついに最終的な結論が導き出されました。この書簡は、ジェームズ・シムキンズ著「パンジー そしてその育て方と展示方法」(第2版、バーミンガム及びロンドン1851年刊)に掲載されたものです。

 

アルフレッド・ソルター氏は、父親の園芸家ジョン・ソルター氏が1840年代にイギリスからフランスのベルサイユに移住し、移住時に持ち込んだ厳選されたイギリスの種子から育てたパンジーの栽培に専念していたといわれています。

 

後世に受け継がれた苗の中には、奇妙な縞模様や斑点のある花を咲かせる異常な個体がみられました。

これらの苗から再び種子が採種され、その種子が、フランス革命のために1848年、やむなくイギリスに帰郷したロンドン近郊のハマースミスの庭にジョン・ソルターが自ら蒔いたのです。

こうして得られた花形のいくつかを、ロンドンで開催された博覧会に出品します。ところが、評価は低く、多くの花卉園芸家たちは嘲笑し、「フランスのゴミ」と罵りました。

 

図31 「ノベルティー」 ソルター 1854年

 

しかし、1851年に【Coerulea striata】【Mars】【Novelty(ノベルティー)】の3つの品種が取引から外され、好調な売れ行きを記録しました。

 

後者のタイプの実に生き生きとした描写を「ヨーロッパの裏庭と庭園」1851年で見つけましたので掲載します。なぜなら、それはイギリスの幻想的なパンジーの最も古い形態の一つを知る機会を得ることになるからです。

この絵は極めて規則的な構造を持ち花を描いていますが、縞模様と炎のような模様を組み合わせたような幻想的な配色をしています。

下の花びらの中央の斑点は失われています。代わりに、枝分かれした(はちみつ色の)線があり、その色は珍しい血のように赤くなっています。

花弁の主な色は、黄色、白、茶紫です。

 

 

前述のアルフレッド・ソルター氏の物語からわかることは、ジョンによればソルター社は、数年間にわたり、新しい種類の優良なパンジー「当時は一般にはベルギーパンジーとして知られていた」の委託と販売を続けていたが、ロンドンに近い場所での成功を望まなくなったため、1859年または1860年にパンジーの栽培を中止しました。

 

ソルターズのパンジーの収穫が、1850年代後半(特に1856年)にイングランド南部の多くの農場を壊滅させ、パンジー栽培の中心をこの地域からイングランド北部とスコットランド南部に移す大きな要因となった、同じ深刻な病気の影響を受けた可能性があることを否定できません。