アメケンのブログ

アメケンのブログ

10年間パンジーの勉強を続けてきました。

ラゴノ・ゴドフロワの文献からフランスの状況が見えてきましたが、

 

 

 19世紀のイギリスの園芸文献にはパンジーに関する数多くの記述がみられます。

 中でも特に注目すべきは、J・ハリソン著【The Floriculture Cabinet and Florist’s Magazine(花卉栽培と花屋の雑誌)】第9巻222ページ(1841年3月)に掲載されている以下のエッセイでしょう。

 このエッセイは、長年にわたりパンジーの育種研究に携わり、しかもまさに現代のパンジーが誕生した時期に書かれたものであるために、ここに全文を引用するにふさわしいものです。

 

 「約27~28年前(1813年か1814年)にガンビア卿は、アイバー地方の野外で集めてきた白と黄色の継母の花の根を私に渡し、それを育てるように頼みました。

 常に不在の素晴らしいご主人様を喜ばせたく、いつも励んでいたので、仰せの通り株を受け取り、その植物が私の想像をはるかに超え、どんどんよくなってゆくことがわかりました。

 その後、見つけられる限りの変種を集めました。

 

 スロウのブラウンからは青い品種を、名前は覚えていないが別の人からは、ロシアから持ち込まれたといわれている濃い色の品種をもらいました。これらを加えたことで、私の品種は驚くほどよくなりました。

 しかし、すぐに入手した変種は数多くありましたが、花の大きさは最初のころのものと変わらないくらい小さなものでした。それでも主人は喜んでくださり、私は大きな報酬を得ることができました。

 

 始めてから4年ほどが経ち、私はこの試みに喜びを感じるようになってきました。

 私のコレクションを見た人たちがみな大喜びしてくれたからです。

 その後私は自分の品種の中に、増殖させる価値があるのではないかと考えるようになりました。

 

 このことがきっかけで、閣下が特に気に入って下さった品種に名前を付けることにしました。

 それは「レディ・ガンビア」と名付けられ、私がその挿し木を採ったところ、閣下はそれを多くの友人や知人に送られました。      この花は、のちに「ジョージ4世」の名で繁殖された花と非常に似ていたので、この品種が前者の種子から生まれたものであることは疑いの余地はありません。

 誰がこの花を掘り出したのか、私は決して見つけることができませんでした。

 

 たとえ現在栽培されている最悪の品種と比べても、そして多くの名前の付いた品種でさえも、とてもひどいものなのに、それらと比べれば雑草とほとんど変わらないほどにしか見えなかったことでしょう。

 それでも「レディ・ガンビア」は家族の中でも美人であり、見るものすべてから賞賛を受けました。

 

 作品自体では子供の風車ほどの左右対称でしたが、大きさに関しては、姉妹の中で巨人が小人に囲まれているように見えました。

 しかし当時の巨人も今や小人に見え、そして「レディ・ガンビア」も私が描いたその後の別の花と比べられた。

 その花はその時私が思ったような雄大さから「アジャックス」と名付けました。当時、この花を凌駕する花は他かにないと思っていましたが、その形は馬の頭のように細長かったのです。

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

 

前回の投稿から8か月も経過してしまいました。

 

今年も「パンジー・ビオラの世界展2026」開催が決定しています。

 

ヴィットロック博士の論文からどのようにパンジー・ビオラが進化してきたかを探っていきます。

 

文章はヴィットロック博士目線で編集しています。

 

 

 

第2部 19世紀の洗練された状態のパンセ

 

 16世紀、17世紀、18世紀の庭園を飾っていたパンジーは、より美しい野生種のViola tricolor L.(ビオラ トリカラーL.【これもViola lutea Hudsの1種です。

まれに16世紀から17世紀にかけてドイツ、イギリス、ポーランド、オランダで栽培されていたのは前述しております】)と何ら変わりはありません。

パンジーは人の手によって、19世紀に壮大で、美しく、豊かな色を獲得しました。以下でこれがどのように達成されたかを解明していきます。

 

 まず最初に、1844年までのパンジーの品種改良の過程については、フランス人ラゴノ・ゴドフロワの小論文「La pansée, la violette, I’audicule ou Oreille d’ours, la primevére; histoire et culture, Paris 1844」の中に記述があります。

その主な内容は次の通りです。

 初めてパンジーの栽培に真剣に取り組んだ栄誉は、テムズ川沿いのウォルトンのタンカーヴィル伯爵の娘、メアリー・ベネット2世夫人に与えられました。

 1810年から彼女はウォルトンの庭で出会える限りのすべての品種(viola tricolor L. )を収集しました。

 毎年種子を蒔くことで、コレクションを増やしてゆき、豊かで美しい花を咲かせました。

 この地の庭師リチャードは、収穫された美しいパンジーに驚きと感嘆の念を抱き、その一部をロンドン近郊のハンマースミスに住む著名な園芸家のジェームス・リーに送りました。

 リーもその美しさに驚き、熱心に栽培を続けました。他の者たちも一斉にこれをまねはじめました。

 中でも特筆すべきは、レデレイ夫人です。彼女はパンジーの大輪種をできるだけ多く集め、種まきを繰り返して、花の大きさばかりか花色までも美しく磨き上げました。

 

 パンジーは今や多くの場所で愛される花となりました。 

 

 著名な愛好家や組合の才能ある園芸家たちが、パンジーに惜しみない愛情を注ぎ、次々と新たなる成功を収めました。

 新しいパンジーが生まれるたびに、新たな愛好家が生まれ、それぞれがそれぞれにお気に入りのパンジーを持っていました。

 数多くのイギリス園芸協会は、最も美しいパンジーに価格を付け、こうしてパンジーは瞬く間にイギリスで流行の花になっていきました。

 あらゆる領主、あらゆる土地所有者はパンジーの特別なコレクションを欲しがりました。そして、労働に見合うだけの十分な報酬を得ていた庭師たちは、絶えず新しい品種を開発して、人々の関心を引き付けようとしていました。

 

 フランスでは1830年代になって初めて、洗練されたパンジーへの関心が高まりました。

 レモンとブルソー(1835年)が、初めてパンジーを栽培しました。

 

 パリのブランシュ通りの美しい庭園で、ラゴノ・ゴドフロワはこの植物を知り、たちまち関心を寄せ、次のように書いています。

 「私は、パンジーがまだ成し遂げなければならないすべての進歩、すべての発展を予見していました。」パンジーは研究と勤勉な努力によって得られるものなので、すべての利益はそこから得られるでしょう。

 私は願いをかなえるために、すでに入手していたパンジーの中で最も完璧なものを選びました。

 すなわち、【ダチェス・ド・ベリー】という名の碧い品種、【レーヌ・エリザベス】と呼ばれる白い縁取りの品種、そして【トンプソン】と呼ばれるイギリスの品種(これはかなり不完全です)を選びました。

 これら3品種をかなり大規模に播種すると、幸いにもかなり変化した花がいくつか咲きました。

 それらを再び蒔くと以前とは全く異なる形質の花が得られました。さらにそれらを追う一度蒔くと、花の形と構造が著しく変化しました。

 これこそが私が目指したものでした。

 私は遠くから見てもわかる目標、すなわち完成された形に間違いなく近づいていました。

 これまでは色ばかりにこだわっていたからです。

 「種子の採種親になる株を極めて慎重に選び(これが非常に大切で成功のカギである)、砂壌土の肥沃な土地で栽培する」という方法を繰り返し、ラゴノ・ゴドフロワはチェイルリー宮殿の温室で開催された展示会で発表しました。

 

 人々はこの新しい花に熱烈な賛辞を送り、オルレアン公(のちのフィリップス国王はコレクションの大部分を購入しました。

 ラゴノ・ゴドフロワはパンジーの改良にさらに力を入れたのち、次の博覧会で彼が特に待ち望んでいた報酬、すなわちフランス園芸協会(Société Royale d’horticulture)からメダルを授与されました。

 

 そして翌年開催された博覧会では、彼自身の説明によれば、最も有名なイギリスのパンジーをもってしても、その素晴らしさを覆い隠せないほどに完璧なコレクションを展示できました。

 ラゴノ・ゴドフロワが育てたパンジーが実に美しかったことは、彼が引用した著作(イラスト24,25参照)にモノクロで色彩豊かに表現されています。

イラスト24 「魅惑」ラゴノ・ゴドフロワ 1844年

 

イラスト25 「ノーホーク公爵」ラゴノ・ゴドフロワ 1844年

 

 次からは、イギリスの資料の手助けを借りて、ラゴノ・ゴドフロワが19世紀後半のパンジーの故郷イギリスで残した非常に断片的な記述を補っていきましょう。

 

 

VEIT BRECHER WITTROCK(ファイト・ブレチャー・ヴィットロック)の話は始まったばかりですが、まだまだこれからです。

 

ヴィットロックも古代のイタリアの栽培されていたパンジーの文献はかなり苦労して入手したようで、1642年に【Catalogus plantarum Horti Gymnasii Patavini】の中に見つけ、単にViola tricolorとよばれていたと。そして栽培されていた記録はViola tricolor maxima fl.luteo. これはまさしくV.lutea Hudsの一種を指していると。

 

17世紀のオランダでのパンジー栽培に関する情報が、1672年ブリュッセルで出版された【Jardinier des Pas-bas】のなかに、種まきから生まれた、白、赤、紫の斑入り、赤の斑入り、白と桃色の花を咲かせるPen-seer Viola tricolorの5種があると書かれている。

 

【フローラ・ダニカ】のなかには、デンマークで栽培されているパンジーはViola tricolorで「ハヴェルネに生えるものは、オクラハマに生えるものよりもはるかに美しく、野原に自生し、ブロム・ステレットに生えるものはさらに大きい」と記されています。コペンハーゲン王室庭園で栽培されている植物の一覧には、2つの植物が挙げられています。

西洋スミレには、大輪のViola tricolor repens fl. am-plissim.と小輪のViola tricolor repens fl. minorの2種類があります。

また、Viola tricolor assurgens versicolorも記録されていますが、これが本当にViola tricolorL.かどうかは不明です。

 

ポーランドでは、Viola Trinitatis vulgaris miner fl.という名前で記載されているビオラのトリコロール型はいくつもあります。V.lutea の形もあり、これはViola Trinitatis seu flammea Major luteaという名前です。

 

スウェーデンでは、1658年にウサプラ植物園の植物リストに登場します。そこにはV.trinitatis fl. alba, V.trtnitatis fl. caeruleo,およびV.trinitatis fl. purpleno

3つの形態が記載されています。最初と2つ目はスウェーデンの野原、牧草地、森林に自生し、3つ目は外来種で、もともとランツ地方にはなかったものをウィットロックが持ち込んだものと言っている。

ルドベックによってオランダから持ち込まれた多くの植物の中の一つでもあると。

 

ミラーの前述の図版のない大規模な園芸大百科事典がイギリスで出版された同時期に、ドイツではそれを上回る園芸書が出版され、1025枚の図版入りの素晴らしいものでした。しかも銅版画によるカラー画像です。

 

Viola tricolor L.が8種類の絵で描かれていますが、そのうちの4種類は庭園で栽培されていることが明記されています。

 

図9

 

この画像からもっとも一般的なViola tricolor型を表しています。

 

図10 「Lying trinity hor-tense」ワインマン1742年

 

18世紀末、ドイツではViola tricolor L.が花壇を彩る植物として植えられました。

 

同じくフランスでは、西洋スミレが観賞用として高く評価され、露地植えの花壇ばかりではなく、鉢植えとしても栽培されました。耐寒性に優れることから、特に冬用の花壇苗として屋外で栽培することが推奨されました。

 

     さて、次回は第2部に入ります。おたのしみに。